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2024年3月(時系列順)2件]

2024年3月31日 この範囲を新しい順で読む この範囲をファイルに出力する

▼ 怒っている相手に「今日もかわいいね」って言ってはぐらかそうとしたときのss(カフェ・ユーリカのふたり)

「それはそうとして今日もかわいい、ね……」
 青い瞳に2秒後の未来が映ったのは『そ』と言った瞬間だった。時すでに遅し。もう手遅れ。おのれの口から紡がれた音は彼女の鼓膜をあやまたず震わせる。
 あ、あ、あぁぁ……──まちがえた。ちいさな怒りと、おおきな心配に潤んでいた瞳が、冴え冴えと凍る。思わず目を逸らしてしまったのが我ながら情けない。
「迅くん」
 静かな声だった。「はい」かすれた声で返事をして、彼女をおそるおそる窺う。いつも柔和な表情が削ぎ落とされるともともとの冷涼な面差しが際立って……いやその、つまり、今日もかわいいのはそうなんだよね、などと言い訳がこころに浮かぶ。言い訳すぎて口には出せない。
「私の話、聞いていましたか?」
「聞いてました。本当に。あの、ごめん……なさい」
「はい」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよって、伝えようと」
「はい」
 淡々とした返事にうまく言葉が出てこない。和解の未来を探り……いや、目の前の彼女と向き合わなければならないことぐらいわかっている。
「話を聞いてなかったわけじゃないし」
「はい」
「その、心配かけて申し訳ないとは、」
「はい」
「あとかわいいって思ったのも本当で」
「はい」
 変わらず淡白な返事、一瞬あとに訪れた沈黙。
 はい、って、頷いたなこのひと。
 彼女の顔をまじまじと見つめると、瞳がそろりと逸らされて──ふっ、と吐息がこぼれた。淡い色のくちびるがやさしく緩んで「もう、」とちいさな文句をこぼす。
「……聞いてたんですね」
「……うん」
「珈琲を淹れましょうか」
「うん」
「でも、言いたいことはまだありますからね」
「聞きます」
「はい。それから」
 キッチンに向かうと思った彼女は一歩こちらへ歩み寄り、すっと踵を持ち上げる。頬にやわらかなキスを落とし、彼女は甘やかに微笑んだ。
「それはそうとして迅くんは今日もかわいいですね」
 にっこりといたずらっぽく笑った彼女は、けれどまだ怒っているのだろう。伸ばした腕からするりと逃げて、キッチンへと向かっていった。畳む

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▼ ホワイトデーのss(嘘つきの夜のふたり)

 目の前にはふわふわのパンケーキと、ふわふわの髪をした遊真くんがいた。ばれんたいんはおせわになりました、というわけらしい。こっそりと栞さんに訊いてみたところ、玉狛の女の子たちには男性陣から合同でお返しがあったそうで、だからつまり、このお返しはわたしのためだけにある、ようだった。
「おお……」
 と、ひとあし早くパンケーキを切り分けて口へ運んだ遊真くんが感嘆の声をもらす。機嫌のよい猫のように細まった瞳に、にんまりと持ち上がったくちびる。そうなると、ゆるんだほっぺは落ちそうなのかも。
「いただきます」
 すこし遅れて、わたしも食べる。焼き目の薄いパンケーキはおそろしくやわらかく、ナイフに力を入れる必要もなくあっさりと一口サイズになる。フォークで刺す、というよりも乗せるようにして、そっと口へはこぶ。
 ふわ、と、しゅわっ、で、きえてしまった。ふわふわで、あまくて、やさしくて、夢みたいなたべものだ。メープルシロップのこっくりとした甘みだけが舌に残っている。
「どうだ?」
 二枚のうちの一枚をすでに半分ばかり食べ終えた遊真くんが首を傾げて問う。おいしい、と素直に答えたら、うれしそうに目を細めて、それがやっぱりやさしいから、少しだけ居心地が悪いような気持ちになる。うれしいけれど、受け取るのがほんのすこしこわいような。
「こんなお店があるなんて知らなかったな」
「とりまる先輩に教えてもらったんだ」
 なるほど、と頷く。いくらわたしがあまり街を出歩かない(少なくとも営業時間には)とはいえ、三門に来て日が浅いらしい遊真くんがこんなおいしくて、しかも人の少ない穴場を知っているなんて、と思っていたところだった。
「センパイと来られてよかった」
 何気なく告げられた一言に、心臓が忙しくなる。今までいくらだっておとなしくしてくれていたはずの心臓は、ぎゅっぎゅっと踏んづけられてポンプとしてのおのれの役目を思い出している。全身にあつい血がめぐって、じわじわと頬があつくなっていく。
 わたしはくちびるについたメープルシロップをちろりとなめとりつつ「試験がはじまるものね」と強引に自分に現実を思い出させた。
「そういえば、審査する側って訊いたけど」
「正しくは審査してるところを品評される側かな」
 B級なのにA級のひとたちと同じ役割を振られたのは、おそらく試験という大義名分をくれたのだと思う。界境防衛機関としての特殊な訓練だと言われれば、いくらか振り払える雑音がある。
 思い出さなくていいところまで思い出してしまったな、と苦く思いつつ「遊真くんのことをずっと応援するね」と笑えば「えこひいきはよくないぞ」と嗜められた。遊真くんが正しい。彼はわたしより歳下なのに、ずいぶんとおとなだ。
「それに、」
 と、遊真くんがにやりと笑う
「センパイに見られてるとキンチョーしそうだ」
「……ぜんぜん緊張しなさそうな顔だよ?」
 遊真くんはおだやかに目を細めて「うん、今のはウソだ」と言った。その嘘がわたしの――嘘つきのわたしのために紡がれたものであることは、疑いようもなく。そしてそれはちっとも、嫌なことではなかった。畳む

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