うすらひの熱

「ほんとに、ばかだよねぇ」
 はらりとこぼれた雫が夜にまたたく。みょうじは声となみだを吐息にとかしながら、わらうように泣いていた。ほころんだくちびるから嗚咽が剥がれ落ちる。
 肯定も否定も返さなかった。そうだな。そんなことない。ばかじゃない。言えることはいくらでもあったけれど、そのどれもが上面だけの言葉に思えた。
「ごめん、こまるね、いきなりこんな……ごめん、ね」
 握りしめた拳がきりりと鳴く。痛みにゆっくりと力を抜き、制服のポケットからハンカチを取り出した。立ち上がり、みょうじの前に跪いてハンカチを目元にあてがえば「ありがとう」と消え入りそうな声が答える。布越しに伝わる熱が指先と心臓をゆらした。
 二粒みつぶの雫をハンカチが吸い込んでいく。四年という月日を経てもなお枯れ果てることはない。これからさきも、薄れはしても、消えることはないのだろうと思えた。
 みょうじの痛みはみょうじだけのものだ。たとえ歌川が同じように家族を亡くしていても、その傷は同じものではない。訳知り顔で頷いたって、肩代わりすることはできないのだ。傷ついていることがわかっても、傷をなおすことはできない。なかったことにも。
 けれど。それがどれだけ非難されるべき行為だろうと――奪うことだけはできた。
 今、こうして話していることも。あの家に花束を添えたことも、兄の年齢を追い越してしまうと気付いた衝撃も、家族を喪ったことでさえ、きっと奪えてしまう。
 それが、風間が提示した条件のひとつだった。
『おまえに任せるが、記憶処理も手段に入れておけ』
 端的に放たれた一言が誰を守るためのものかわかっていた。
 なにもかも忘れたら。みょうじはこんなふうに泣くことはないだろうし、無断で警戒区域に立ち入って、万に一つも命を散らすようなことにはならない。危険に近付く理由さえなくしてしまえば、彼女を守ることは簡単だった。
 ざり、と靴底を地面に擦りながら立ち上がる。咄嗟にハンカチをおさえたみょうじが、不思議そうに顔を上げるのを視界の端にとらえた。
「……忘れたいって、思うか?」
 あつくこもるような吐息になぶられて声が掠れる。夜のなか、煌々とした街灯のひかりを見つめる。目を開けていられないほどまぶしい。熱を失った指先を握り込んだ。
「いっそ忘れたいって、思ったりするかな、とか」
 歌川の言葉を飲み込んだみょうじはどんな顔をしているのだろう。凄惨な現実はいくらでも対処できるのに、同級生の表情ひとつ知る勇気がなかった。
「……どうだろ、思ってるのかも、しれないね。それで……らくに、なれるなら」
「……そうか」
 心臓がぐっと奥に下がって、息がつまる。すこしも楽な気持ちではなかった。清々しさも晴れやかさもない。うっすらとさみしくてあおいなにかが忍び寄って、空白を広げるようにこころをやわく圧しつぶす。さまよわせた視線の先で黄金の一葉がゆれておちた。
「……わ、」
 澄んだ声が静寂を裂く。
「わすれたく、ない、よ」
 その表情を見る勇気なんてなかったのに、歌川は再び跪いていた。膝で押しつぶした小石が布地越しに存在を主張する。雨の名残で湿った土に汚れるのは構わなかった。だって――彼女が泣いていると、そう思ったから。
 濡れた瞳が歌川を映す。はらはらと溢れるなみだがハンカチに染み込んでいく。
 きれいだった。
 雫の一つひとつがかがやいて、赤らんだ瞼はうすかった。さらりとすべりおちる毛先からは花の香りがした。絶え絶えとしたかすかな呼吸に痛みが滲む。荒れた手はスカートを握りしめてしわをつくり、膝のうえのミルクティーは頼りなくゆれる。
「……みょうじ」
 あぁ――わすれたくなんてないよな。
 ささくれのできた手を覆うように手を重ねた。びくりと跳ねた指先をなだめるように包みこめば、すこしずつ呼吸を整えたみょうじが嗚咽混じりに言葉を紡ぐ。
「……わすれたくない。だ、だってわたし、わすれたくなかったのに、もう、いろんなことをわすれてる、わすれてるの」
 声、笑い方、よろこんだこと、かなしんだこと、おこったこと、話したこと。とりとめのないものからはじまって、やがては大切だったことさえ忘れてしまう。失ったひとを、変わらず留めるのは難しい。ひとの人生はめまぐるしく、対して記憶はあまりにも頼りなかった。
 花束は。目の前の少女が『家』に添えたあれは、ひとつのよすがだった。あなたを忘れていない、忘れたくないと告げる、悲痛な叫びだった。
 だから――守りたいと、思ったのだ。
「おっおぼえて、いたかった、の……に、」
「……うん」
 泣く声をきいていた。みょうじの爪先が手のひらのやわらかいところを引っかくように動く。きゅうと握れば、こわごわとちいさな力が応える。じわりと、どちらからうまれたのかもわからない熱を分かち合う。それが指先から瞳にまで迫り上がるものだから、鼻がツンと痺れて、歌川はまばたきを繰り返した。
「い、っいきて、て……ほしかっ、たのに、も――もう、どこにも、いない、の」
 うん、と頷いて、ちゃんときいているよと伝えることしかできなかった。
 歌川はそのかなしみに対してあまりにも無力だ。なんにもできないただの同級生だ。だからせめて。みょうじのなみだを、声を、すべてひろおうとおもった。

 嗚咽はすこしずつ小さなものへと変わった。
 どれだけかなしくても、消えることはなくても、確かに薄れていくことは時の優しさなのか残酷さなのか、歌川には判断がつかない。 忘れるほうも、忘れられるほうも、かんたんに言葉にすることは許されないあおがある。
 あるいは、忘れられることがひとつの死のかたちであるなら。残された人間にとってそれはひとつの幸いなのだろうか。自分のなかでもういちどしなせてしまえるのなら。喪失は抱えたまま、けれどその痛みすら諦観し、ずっと楽に生きていけるようになるのかもしれない。
 それでも、覚えていたい――生きていてほしいと泣いた彼女はうつくしかった。

 夜は深まる。サッカーボールを転がしていた誰かが「じゃあな」と声を張る。「またな」と応える声があった。どちらも、まだ声変わりを終えていない少年の声だった。

 つないだ手からそっと力が抜ける。「ごめん、ね」ぽつり、雨降るような声が囁いた。
「いいんだ」答えながら、傷つけない強さで手を握る。
「……謝るならオレのほうだろ。意地のわるいこと、言った」
「うう、ん」
 みょうじの瞳はまだぐずぐずと熱をもっていたけれど、もう泣いてはいなかった。なみだのあとが残る赤い頰はふれればひりつきそうだが、静かに凪いだ瞳は、絶望でも諦観でもないおだやかさで歌川を見つめる。
「うまく言えないけど、うれしかった、よ。……ありがとう」
 その言葉に、たぶん嘘はなかった。つきりと胸を刺す痛みは自分の無力さを知っているからだ。歌川は何もしていない。みょうじが、ひとりで立ち上がるだけの強さを持っていただけ。まばゆくて目を伏せた。つないだままの手と手が視界に入る。もう離してもみょうじはどこにも行かないとわかっていたけれど、振りほどかれるまではこのままでいたかった。
「……歌川くんは、やさしいよね」
「どこが」
 心底驚いて言うと、みょうじはぱちぱちと瞳を瞬かせた。なみだを散らすためではなく、きょとんとした瞳に困惑顔の歌川が映っている。しばらくのあいだ見つめあって、それから、ゆっくりとくちびるが開いた。泣いたせいか、いつもより掠れた声だった。
「……正直にいうと、はじめはちょっとこわかったよ。あんまり話さなかったし、ボーダーのひとだし、たまに難しい顔で菊地原くんと話してるし。でも――ひとつしかない傘を貸してくれたときから、やさしいひとだなって、ずっと、思ってた」
 ちいさな笑みがそっとこぼれる。やっぱり――やっぱり、みょうじは笑っていたほうがかわいい。一拍おいて、やっぱりってなんだよ、と胸の内に訊ねた。跳ねる心臓は答えを返さず、つないだ手には無意識に力がこもる。
「……気付いてたのか」
「家に帰ってから、だけど。折りたたみ傘、ふたつも持ってるものかなって、思って。やっぱりあれしか持ってなかったんだ」
 軽口めいた言葉とともに持ち上げた頰は、いつかの雨の日と同じへたくそな笑みだ。それが無理してつくられたものであることは察せられたけれど、歌川はあえてそれを疑わなかった。
「うわ、釣られた」
 空いているほうの手を額にあてがう。ゆるくため息を吐いて、それでやっと緊張が緩んでいくのがわかった。小さな手が歌川の拳のなかで跳ねる。そっと顔を窺えば、泣きはらした以上に赤くなった頰が見えた。


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