花のゆくえ

 ふれあった指先はただ熱かった。耳先まで赤く染めて、さ迷う瞳はかろうじて歌川をとらえている。街灯が照らす夜はあかるく、冷えた空気はどこまでも透明で、互いの視線を遮りはしない。自分よりも余裕のない人間を見ているとかえって気持ちが落ち着いた。言わなくてはならないことがある。みょうじのために、歌川のために。
「……もう、危ないことはしないでくれ」
 行くなとは言えない。崩れた家と花束を脳裏に描いた。瑞々しい色彩はまだ鮮やかに刻まれている。あの場所にみょうじの『家』があるのは確かで、家に帰る権利を奪っているのはボーダーだ。その事実を自分に思い出させるたび心臓が軋んだ。この街の平和を守るボーダーは、けれどたぶん、いろんなものを奪っている。
「約束、してくれるか」
 すっと背筋を伸ばし、ひたむきな瞳が歌川を見下ろした。
「……約束する。もう行かない、歌川くんに迷惑はかけないよ」
「迷惑なんて思ってない」
 間髪入れずに返せば、みょうじはまばたきをひとつ残した。
 ほら、やさしい。かすかな声が耳朶を打つ。
「……謝りにいかなきゃ、だね」
「気にしなくていい。ボーダーも大ごとにはしたくないから」
「そう、なの?」
「ああ。誰にも言わないでいてくれたら、それで」
 言い含めるように告げる。みょうじは不思議そうにしながらも生真面目に頷いた。今回のことが広まれば同じように警戒区域に入ろうとする人が現れるだろう。だからこのことは歌川に――内密に対処するよう上層部の指示を受けた風間から命じられる形で一任された。地域と結びついた組織であるボーダーは市民を尊重する。親しい隣人でさえいてくれるなら。
「……次も同じ対応になるかはわからない。だから、約束は絶対に守ってくれ」
 もしも再び警戒区域に足を踏み入れることがあれば、次こそは記憶処置が施される可能性が高い。ボーダーが割り切った組織であることを知っている。それを伝えるのは守秘義務に反するから明かすことはできない。自分の言葉にどれだけの効力があるかはわからないが、どうか近づかないでほしかった。忘れたくないと泣いた彼女から、もうなにも奪いたくない。
「……うん」
 ふかく息を吸い込んだみょうじが、まっすぐと響く声で言う。それに、どうしてか救われるような気持ちになってわらった。所詮は口約束だが、彼女はきっと約束を破らない。ボーダー隊員である歌川が無垢に信じきることは許されないけれど、そう思えたことがうれしかった。
「ありがとう」
 堰いた呼吸が喉を突いた。あつい吐息をこぼして、掠れる声が言葉を紡ぐ。
「――がんばるから。いつか、ちゃんと、帰れるように」
 がんばる、から。あふれる言葉の代わりに、じわりと安堵が沁みた。あの花束を見つけられてよかった。みょうじはどう返せばいいのか迷うように、ちいさく笑みを滲ませた。


 そろり、と手のひらを指先がくすぐる。ゆれる視線はつないだままの手を撫で、慎重に開かれたくちびるは数拍かぞえたのち言葉を紡いだ。
「……歌川くん、あの、手……」
「……嫌、だよな。ごめん」
「そ、そういうわけじゃないんだけど、」
 はずかしい。消え入るような声と赤くなった頬にぱちりと目を瞬く。ふれあう肌からとくとくと鼓動が響くようだった。みょうじの熱が夜を伝って移る。
「その……ごめん」
 ゆっくりと手を放す。しんとつめたい夜風がふたりの間にあった熱をさらっていくが、頬に灯ったそれを散らすほどの力はない。立ち上がると膝からはらはらと土が落ちた。それをぎこちなく払って、ベンチの上に置いた鞄を肩にかける。
「……遅くなったな。そろそろ行こう、送ってく」
「大丈夫、だよ。バイトの日はもっと遅いし、歌川くん、ボーダーに行かなきゃ……」
「オレが送りたいんだ」
 だめかな。囁くように問う。「そういう言い方はずるいとおもう……」みょうじが小さな声で応えて立ち上がった。すっかり冷えてしまっただろうミルクティーを大事そうにしまう。
「ハンカチ、ありがとう。洗って返すね……新しいの買ったほうがいいかな?」
 泣いたあとの残る頬に笑みを浮かべてみょうじが問いかける。洗ってくれたらいいよと返して、歌川は爪先を公園の外へ向ける。みょうじが踏み出すのを待って歩いた。

 夜を往くのはふたりだけではなかった。同じように帰路につく人たちとすれ違いながら、家からあふれるひかりが照らす道を歩く。あとほんの一息つめればふれあう距離は、決して広くはない歩道を他の人にも譲るためだ。誰へでもなく用意した言い訳を口にはしない。
「……みょうじってさ、ギンモクセイ以外にすきな花、あるのか?」
 沈黙が気まずいわけではなかったけれどそっと訊ねてみる。みょうじは少しだけ顔をあげて歌川の横顔を見上げた。
「花はだいたい好きだよ。大きすぎるのはそんなにだけど……どうして?」
「いや、……知りたくなっただけなんだ。好きなものとか、色とか、そういうの」
 そう思った理由を互いに掘り下げようとはしなかった。わずかな緊張と甘い痺れを残しながら言葉を交わす。みょうじの澄んだ声にすこしの熱が灯っていた。
「歌川くんは? すきな花」
「……ギンモクセイ」
 覚えたばかりの花のなまえをくちびるにのせる。みょうじは歌川のとなりではにかむように顔をほころばせた。
 噂をすればあまい香りが漂う。どこかの家の庭、歩道へ迫り出すように立派に育った銀木犀が花を咲かせていた。その傍らを通り抜け、ふと、澄んだ声が言う。
「銀木犀、お兄ちゃんもけっこう気に入ってたのかも。……生まれた季節の花だから」
 もしかしたら、もうずっと前から、だれかとこんな話をしたかったのかな。
 目元を袖で拭って、みょうじが囁いた。

「送ってくれてありがとう」
 見覚えのある家の前で立ち止まる。玄関先のあかりに照らされる頬はやっぱり赤くて、ちくちくと罪悪感が胸を刺した。みょうじの家族は心配するだろう。祖父母と、父と、四人で暮らしているらしい。母は幼いころに病で亡くなり、三門の外に嫁いだ叔母は心配性でよく様子を見にくるのだ、とおだやかな声が道すがら教えてくれた。
 娘さんを泣かしたのはオレです、と謝るべきかとも思ったが、警戒区域に入ったと知られたくはないだろうなと踏みとどまる。
「……またあした、だね」
 みょうじが澄んだ声をやさしく響かせる。ああ、と頷いて。それで別れてもよかったけれど、ひとつふたつ呼吸をこなしてから喉を震わせる。
「あのさ、みょうじ」
 なに、と問うようにみょうじが小首を傾げる。さらりと髪がゆれた。なみだをかすかに残す瞳が歌川を見つめている。心臓の奥に居座る疼くような痺れを言葉にするか迷い、よぎったのは中間考査が終わったあとのことだった。遠征の準備が本格的に始まる。
「……また、あそこのシフトに入らなきゃいけないときは呼んでほしい。都合がつくときは迎えに行くから」
 ぱちりと瞬いたみょうじが、一拍遅れて遠慮するように手を振った。
「いや、そんな手を煩わせるようなこと、あの、だいじょうぶだよ」
 上擦った声が動揺を示す。今までだってみょうじは自分でどうにかしてきたのだろう。ひとりで帰るなり誰かに送ってもらうなり。実績に裏打ちされた言葉を疑うことはできなかったけど、歌川もそれで退くわけにはいかない。
「嫌、か?」
 だから、そのいいかたずるい。くちびるをほんのわずかだけ動かした、いつになく不明瞭な声が夜におちた。それでもみょうじは鞄からスマートフォンを取り出したので、嫌なわけではないらしいとほっと息をつく。
「……自分から言っておいて、毎回、ちゃんと迎えに行くって約束はできないけど……いや、なるべくは迎えに行くけど、ごめん……」
 連絡先を交換しながら告げた。自分でもおどろくくらい頼りなく揺れた声に、小さな笑みが重なる。歌川の同級生は、よく笑う。
「気にしないよ。……ちょっと、残念だなっておもうだけ」
 それは――オレもそうだけど。
 言葉はかろうじて喉仏に引っかかった。夜風のつめたさが今は心地いい。
 道に背を向けた歌川の横をだれかが迂回するように通り過ぎた。はやくみょうじを家のなかに入れるべきなのはわかっている。
「……じゃあ、そういうことで」
「……うん。またね」
「ああ。あ、勉強もまた一緒にしよう。荒船さんのやつ、全部見せられてないし」
「うん、いつでも」
「助かる。みょうじと一緒に勉強すると捗るから」
「わたしもだよ。今日も、楽しかった」
「オレも」
「ほんとに?」
「うそついたって仕方ないだろ」
「そっか」
「やっぱりうそ」
「えっ」
「すごく楽しかった」
「……わたしも」
「よかった。ええっと……また明日」
「また、あした。……ありがとう、おやすみなさい」
「おやすみ」
 やっと別れのひとことを告げて、背を向けた。歩き出して、一度だけ振り返ればみょうじはまだ家の前にいて、はにかんだ笑みとともにひらひらと手を振る。頷くような会釈を返して、それから早足にならないように気をつけながら角を曲がった。


 夜に月と星がかがやいていた。月明かりにやわくひかる銀木犀の傍らで立ち止まり、そっと呼吸を刻む。やっぱり甘く、清らかに澄んだ香りだった。彼女の好きな香りだ。歌川の好きな香りでもある。心臓がとくりと疼いた。痺れるような痛みは不思議と不快ではない。
 中間考査に遠征の準備に、やらなければならないことはいくつもある。忙しいことには違いないが、どうにか時間を見つけて、花のことも勉強したい。花の名前もかたちも全く知らないから。ああでも、みょうじに教えてもらうのがいいかもしれない。やわらかく澄んだ声が花の名を紡ぐのを想像して頰がゆるむ。
 それでいつか、彼女の好きな花をあつめた花束で誕生日を祝えたなら――彼女が、歳を重ねることをよろこべるようになったなら、いいな、と思った。


_完


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