夜らにほどいて

「怒って、る……よね」
 みょうじは歌川をそろりと見上げながら問う。ぐっと眉間にしわが寄っている自覚はあったけれど、怒ってはいない。首を横に振った。
「無事でよかった」
「……ごめんなさい」
 かすれる謝罪を黙ったまま受け取る。日曜日、彼女は歌川と出会った後、まっすぐ警戒区域へ向かったのだろうか。あの家に、おそらくはみょうじにとって『家』に違いないあの廃墟に飾るために。うつくしい花束を抱えて、たったひとりであの街を歩いたのだ。しんと静まる、想いさえもまとわりつくような停滞した街を。いったいどんな気持ちで。
 トリオン兵に襲われなくて――このひとがいなくならなくてよかった。血液に氷がまざったみたいに、心臓がきゅっと締まった。よかった、ほんとうによかった。無事で、よかった。
「謝りに、いかなきゃいけないよね」
 問いかけるようで、どちらかといえば自分に言い聞かせているように見えた。悪いことをしたのだと自分に思い出させるような苦さを含んでいる。
「歌川くんにも、迷惑をかけてるんだよね、ごめん、ね」
「いいんだ。気にしなくていい」
 覗き込んだ瞳に小さな自分が映っていた。思っていた通りに眉間にしわを刻んで、そのせいかみょうじの表情にも怯えたような色が浮かんでいる。
「大丈夫だから」
 ゆっくりと息を継ぎながら言った。ぎしぎしと使い古した階段のように心臓が軋む。誓って怒っているわけではない。焦燥に似ていた。無力感とか挫折とか、そういうものに近かった。
 いったい何が大丈夫なのか、と自分自身に問いかける。その言葉を紡いだところでみょうじが抱えているものは何一つ保証できず、解決もできない。
「ごめん、なさい」
 じわりと滲んでいく。声も瞳もゆれていた。まばたくたびに、まつげにちいさな雫がのる。
「……確認することがある。警戒区域で、近界民やボーダーを見たか?」
 ふるり、と首が横に振られた。
「ううん。だれも、いなかったから」
「もうひとつ。……どうして、」
 目が熱い。とさりと心臓を貫かれたようなひりつきが瞳の奥に伝播する。彼女に悟られたくなくて、いちだん低めた声で囁いた。
「どうしてあの日だったんだ?」
 あの日は――なんでもない日だった。最初の侵攻の日ではなく、それに基づく月命日でもなく、ありふれた日曜日だった。
 はく。空白をのんだみょうじが、口を開いて閉じる。くちびるをきつく噛んでいた。かさついたくちびるがつぷりと赤らむ。じわりと血が広がっても、みょうじは涙をこぼさなかった。
「それは、」
 澄んだ声がおちる。「それ、は……」息詰まって途切れる言葉たちが、からん、と投げ出されて、誰にも拾われず積もっていく。みょうじはひきつる呼吸を諌めるように、無理やりにふかく息を吸って吐いた。
 行き交う人がちらりと見ては去っていく。ふたりが向き合って保たれる小さな世界は、ただそれだけで、ふたりきりの世界ではない。
「……どこか座ろう。一回、落ち着いて……、」
 時間を巻き戻したように傷が開いていくのを感じた。四年前の侵攻、三門の人々がようやく被せたかさぶたが剥がれて、かつての痛みを思い出す。世界が一変した日のことを歌川はよく覚えていた。三門には、あの日を忘れた人もいる。
「話して、くれるか」
 頼りなく揺れる肩を抱きとめることもできず、まっすぐ下ろした手で拳をつくる。爪が手のひらにぎりりと食い込んだ。

 あたたかいミルクティーと緑茶を一本ずつ。手のひらに滲みる熱を抱えて公園に戻る。
 夜を迎えて人影はまばらになっていた。広場の方で、知らない誰かがサッカーボールを転がしている。やわらかなひかりの街灯の傍ら、ぽつりと置かれたベンチは色褪せていた。そこだけ黄金に染まった、気の早いイチョウの葉が夜風にさわりと揺れる。冷ややかな指でくすぐるような、つめたい風だった。
 ベンチに座ったみょうじは逃げるわけでも、かといってなにをするでもなく視線を空に揺蕩わせていた。瞳が歌川を捉えてわずかに身動ぐ。へにょりとわななくくちびるが、笑みをつくろうとして失敗していた。
 脚が急く。駆け足気味に近寄った。ごめん。謝罪が喉に刺さる。なにに対して謝まっているのかわからない。わずかな唾とともに飲み込んで、奥へ沈めた。
「お茶とミルクティー、どっちでも。好きな方」
 それぞれの手に持った缶を差し出す。「ありがとう」すこし落ち着いたのか、おだやかな声がするりと耳に馴染んだ。儚げな澄んだ声。いつかの雨の日を思い出した。烟るような雨音の隙間を心地よく埋める声が、いいな、と思っていた。もっと話しておけばよかった。ちくりと鋲を打ったような後悔を告げる相手はいない。
「……お茶、って言ったら、ミルクティー飲んでる歌川くんが見れるんだね」
「見れるけど……見たいか? それ」
「見たいよ、ちょっとだけ」
 吐息をこぼすように笑いながら、少しだけ荒れた手がミルクティーを引き取った。
 ベンチに鞄を置き、それを挟んで隣に座る。カコッ、とプルタブに爪をかけて開く。口元に寄せれば緑茶の香りが鼻先をかすめた。たちのぼる熱がくちびるを嬲り、舌先をちりりと焦がすようだ。飲み込めば独特の苦味が喉にひっかかる。
「高校生だったの」
 ぽつ、とささやいた。
「高校二年生、だった」
 歌川が言葉を拾うより先に声が重なる。みょうじは熱いミルクティーを包むように持ち、アルミの縁を荒れた指先でなぞる。
『……お兄ちゃんもそうだったもん』
『お兄さんいるのか』
 黒板の前で交わした会話がよみがえる。問いかけの返事が最後までなかったことに気付いていた。その意味も。
 すう、はあ、と呼吸の音が風に紛れる。菊地原なら、この音だけで彼女の心情を察することができたのだろうか。例えば迅悠一なら、影浦雅人なら。自分にはない力を持つ人たちのことを、心の隅で羨んだ。歌川では聞こえない、見えないものを、拾うことができる人たち。
 歌川にできるのは待つことだけだった。じっと、しずかに。話してくれるのを待つしかできない――けれど。彼女にできることがそれひとつしかないのなら、歌川はいくらでも待てる。
 ひときわ震える呼吸のあと、みょうじのくちびるからか細い声がもれた。
「っと、」
 膝の上に置いた拳を強く握りこむ。手のひらの痛みがなければ、心臓の軋みを誤魔化せそうになかった。
「としうえに、なっちゃうんだなぁ、って、おも、って」
 俯いた拍子にさらりと流れた髪が、表情を覆い隠す。伸びた影に沈むように縮こまらせたからだはいっそう小さく見えた。缶を包んだ指先は祈るように組み合わされて白む。
「ばかだよね。……たっ、たんじょうびを祝っても、おにいちゃんが――しんだひと、がっ、としをとるわけ、っないのに、ね」


close
横書き 縦書き