ささめきあえば片隅

 放課後の図書室は意外にも空いていた。同級生の多くは塾に通っているから妥当なのかもしれない。生徒の過半数が進学する学校で、ボーダーやバイトをしているふたりの方が少数派だろう。歌川もあまり利用したことはなかった。
 みょうじがいつも勉強しているという奥のテーブルに並んで座り、それぞれにノートを広げる。
「今さらだけど、ほんとうによかったの?」
「なにが?」
「その、テスト勉強、ボーダーの人たちとじゃなくて」
「ん、いいんだ。みょうじのほうが先に約束してたから」
 帰りがけに菊地原が『先に行ってる』とボーダーに向かったからだろう。歌川を窺うような遠慮げな視線に胸の奥をちくちく痛ませながら、筆箱からシャープペンシルを取り出す。かちかちと何度か押せば、短くなった芯がぽろりと落ちた。
 荒船から借りてきたノートは真ん中に置く。歌川につられるようにみょうじも筆記用具を取り出した。細いシャープペンシル、ケースを切りながら使っている消しゴム、赤と青、水色の消せるボールペン。几帳面に並べられるそれらを眺めていれば、きょとんとした瞳が歌川を見た。
「どうしたの?」
「あっ、いや……なんでも」
「へんな歌川くん」
 控えめな声量はここが図書室だからだろう。ちいさな笑みがテーブルを転がり、鼓膜をやわく震わせる。ずっと、聴いていたくなるような。
「あ」
 てん、と筆箱から取り出した拍子に消しゴムが落ちた。歌川が手を伸ばす前に、みょうじが椅子に座ったままくたりと身体を曲げて足元に落ちたそれを拾う。楕円の爪はかさつき、先端が剥離するように割れていた。ささくれのできた人差し指が痛々しい。
「どうぞ」
 差し出されたそれを受け取る。角の欠けた消しゴムが一瞬だけ指先をつないだ。
「ありがとう。……指、どうしたんだ?」
「指?」
「ささくれができてる。昨日はなかっただろ」
 奥に血が滲んだそれは自分で剥いたのだろうか。みょうじはぱっと翻して自分の手を見つめ、乾燥のせいかな、と不恰好な笑みをつくった。
「だめだってわかってるのに、剥いちゃって。痛くはないよ」
 平気だ、というように指先が振られる。
「気持ちはわかるけど」言いながら指先の動きを追った。
「歌川くんは、指、綺麗だよね。爪の形も」
「そうか?」
 じっ、と視線が指先に絡んだ。扇型に広げた手はみょうじと比べれば当たり前に無骨で――荒れていない。机のうえに所在なく置かれた手。骨や筋が浮いて角ばるさまはほっそりとしているが、華奢と言うにはくたびれている。みょうじの手は、たぶん、生身で働く人の手だった。ふれることは許されていない。だからただ、痛ましい指先に視線を注ぐ。
「……みょうじの手のほうが、きれいだと思う。オレは、すごく」
「それはお世辞がすぎるよ、歌川くん」
「そんなことない」
 ばっ、と顔をあげて否定する。「えっ」かすかな囁きとともに、丸くなった瞳に歌川が映りこんだ。慌てて離すには遠く、そのままでいるには気まずい距離。けれどおもいのほか近い熱に煽られて、肺がくすぶる。呼吸はいつになく静かだった。
 彼女の瞳に歌川がいる。歌川の瞳にも彼女がいるのだろう。――彼女の瞳は、もう歌川を映さないかもしれないけれど。
「……、べ、勉強、はじめよっか」
 沈黙を先に破ったのはみょうじだ。ペンを握る。手前の書架で司書教諭が本を並べていた。

   *

 下校時刻を告げるチャイムの音を聴きながら、ふたりは昇降口に立っていた。
 秋の太陽は既に落ちかけ、群青が覆う空に朱色の雲が細く伸びる。ひゅるりとみょうじの毛先をさらう風はしんみりと寒かった。雨の名残だ。
「送るよ」
「ううん、大丈夫だよ」
「送る」
 断られることは織り込み済みだった。歌川が家に寄らずボーダー本部に向かうと知っているみょうじなら、そう言うだろうと。気遣いの言葉を跳ね除けて繰り返す。
「送ってく。……今日は急がなくていいから」
「……昨日、防衛任務だったから?」
「そんなとこ」
 三段だけの階段を降りて仰ぎ見る。みょうじを見上げるのは慣れない感覚だ。スクールバッグを握る手に、ぎゅっと力が入っていた。
「行こう。暗くなってきたから、ひとりで帰すのは心配なんだ」
「……ありがとう」
 たったた、と階段を降りたみょうじが歌川の隣に並ぶ。その隙間を埋める手段は、きっといくらでもあったけれど、ふたりはそのまま歩き出した。

 前にふたりで歩いたのはもっと深い夜のなかだった。あの夜に比べれば騒々しい道は、会話を隠すのにかえって都合がいい。木を隠すなら森のなか、秘密を隠すなら人のなかだ。
「みょうじ」
「なに?」
 息を吸い込む。すれ違う親子の言葉ごと。夜ごはんの匂い、ありふれた帰る場所たち、それぞれの家の気配、その全てを胸に満たせば、声は掠れた。
「枯れたよ」
 自分でも聞き取るのがやっとなくらいの、小さな声だ。みょうじは、何も言わなかった。ちらりと視線を向けられたような気もしたが、歌川は前だけを見つめた。沈黙を拾い上げ、手のうちに転がしたそれをそっと握りつぶす。もう戻れなかった。帰れなかった。
「――花束は、枯れてた」
 世界から音は消えてくれない。車道を過ぎ去って行くオートバイのエンジン音も、公園から響く子どもたちの声も、どこかの家から流れるつたないピアノのメロディも。空は深いふかい青におちて、月の光は白めいていく。イチョウの木がわずかに色づきはじめていた。濃い緑の葉に映える赤い実、その植物の名を歌川は知らない。
 世界はいつもと同じに賑やかで、あざやかだ。肌寒いのは秋という季節のせいで――でも、みょうじは、そうじゃないのだろうと思った。
 痛いほどの沈黙をひとりで守りながら、みょうじは緩慢に足を動かしていた。それに付き合うように歌川もゆっくりと歩く。静寂をゆるしてくれない世界のなか、その沈黙は冴え冴えと胸を貫いた。右、左、みぎ。だんだんと遅くなる歩みが、ゆるやかに止まる。
「……そっ、かぁ」
 やわらかく、澄んだ声が――ちいさく震えて夜にとけた。


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