朝露かわくまで

「おはよう」
「おはよう。早いね」
 朗らかに笑うみょうじに「そっちこそ」と返した。早朝に近い教室はいつもの騒がしさのかけらもなく、やわらかな陽の光が差し込んでいる。ふたりきりだった。ふたりきりになるために、歌川はいつもより早く家を出た。
「目、悪くなるぞ」
 パチリと蛍光灯のスイッチを押せば、みょうじが眩しそうに目を細める。警戒区域の空き地、陽だまりで眠るネコが、よくそんな顔をした。手元を覗く。数学の問題集とノート。角張った数字たちが几帳面に並んでいた。
「勉強?」
「うん、テストも近いから」
 中間考査は二週間後に迫っていた。進学校らしく考査前は勉強する生徒も多いが、こんな朝から教室でやるのはみょうじくらいだろう。
 真面目だな、という言葉は飲み込んで「そういえば」と、鞄を開く。
「昨日言ってたノートだけど、たまたま荒船さんが一年のときのテストをくれて」
「えっ、荒船せんぱい?」
 ぱちくりと瞳を瞬かせたあと、「そっか、荒船先輩もボーダーだった」とみょうじが独り言ちた。意外な反応に首をかしげる。どこか親しげな響きがある。少なくとも歌川に対するもの以上に。
「みょうじ、荒船さんと知り合い?」
「中学のとき同じ委員会で……知り合いってほどじゃないけど、みんなで勉強をみてもらったこともあるよ」
 荒船の出身中学は、歌川の中学の隣の学区だった。そこは警戒区域ではないし、みょうじの家も学区に収まるだろう。――四年前もあの家に住んでいたかはまた別の話だが。
「あぁ、世話好きだよな、荒船さん」
「ボーダーでもそうなんだね」
 冷徹に観察する思考をおくびにも出さず、歌川はクリアファイルをみょうじに渡した。一昨年の二学期中間考査の問題と、荒船の回答用紙が綴じてある。いずれの科目も高得点で、渡されたときは畏敬の念が湧き上がった。
「うわ、すごい」
 みょうじも同じ感想らしい。ぱらぱらとめくりながら小さな声で囁く。
「他の人に見せるなって言われてるから、家で勉強するときに使ってくれたら助かる」
「ありがとう。……見せるなって言われてるのに、わたし、いいの?」
「あー……、秘密で頼む」
 荒船との約束を破って他人に見せるのは歌川だ。歌川が勝手にしたことだし、荒船も無闇に歳下の女の子を責めることはしないだろう、と算段をつけるのは一瞬だった。
「だ、大丈夫? 怒られたりしない?」
 うろたえたみょうじが歌川とテストを見比べる。自分が怒られることではなく、歌川が怒られるのではと案じている。半年にも満たない付き合いだが、そういう人だと素直に思えた。
「……心配なら、一緒に勉強しながら見せるのでもいい、けど」
「一緒に?」
 やわらかな輪郭を描く瞳が歌川を見上げた。そこに嫌悪はない。ただ純粋な驚きがあった。
「明日の放課後、どうかな。今日は午後からボーダーで」
 喉の奥が渇いて張りつく。ふたりで話さなければならないことがあった。今だってふたりきりじゃないか、頭蓋骨の内側で響く声に、今はまだ、と返す。
「歌川くんと荒船先輩のテストがあったら、百人力だね」
 驚きの薄れた顏が笑みをつくる。無垢な声に、ほんの一拍、呼吸が堰いた。
「オレの方こそ。頼りにしてる」
 掠れた言葉をみょうじはどう思っただろう。どうも思わなかったかもしれない。歌川ひとりだけが空回りしているようで――そうだったらいいなと、ちいさく笑った。

   *

「状況はわかった」
 珈琲をひとくち飲み込んで、風間が言った。膝の上に乗せた拳がわずかに震える。赤く冷静な瞳がそれを見遣り、歌川の耳にはかすかな溜息が届く。風間に失望されたと思うと、カッと頰が熱くなった。恥ずかしい。申し訳ない。巡る言葉に紛れて――でも、と思う。でも、それでも歌川は。どんな言い訳も正しい理由にはならないけれど。
「おまえはどうしたい、歌川」
 厳しい叱責に身構えていたからだが、危うく崩れかける。「え」と小さな音がくちびるから漏れた。風間の顔を正面から見返せば、「どうしたいんだ」と同じ問いを渡される。
「オレは――」
 どう、したいのだろう。
 視線がゆっくりと下がっていく。珈琲は手をつけられないまま冷め、黒々とした水面に光を映していた。揺れるたびにちらちらとまたたく。
 状況は単純だ。歌川は警戒区域で花束を見つけた。それは、同級生が持っていたものとよく似た花束だった。しかもそれがあったのは同級生と同じ苗字が掲げられた家。確証と言うには弱くとも、疑うには十分すぎる。
 歌川がすべきことは上長への報告、あるいは本人への確認だ。そうする義務がある。それをしなかった歌川が、したかったこと。答えもやはり単純だ。そのためだけに歌川は、あの花束が枯れるまでの時間を過ごしていたのだから。
 ――守りたかった。
 瓦礫に添えられた花を、その心を。咎めるべきものとわかっていても、他の誰もが散らそうとも、歌川だけは守りたいと思ってしまった。せめてあの色彩が褪せ、手向けられた花が役目を終えるまでは。
 それは誰のためでもない。きっと彼女のためでもない。ただ歌川自身のために――あの場所で、戦場で、誰かが生きていた街で、己の守るものを忘れないために。
「……オレに、やらせてください」
 顏をあげればいつもと同じ冷静な瞳が歌川を見つめていた。自分の言葉が信頼を失っていることは承知している。軽くなった言葉を補うように、その瞳と真っ直ぐに向き合った。
 数秒、あるいは数十秒の沈黙をくゆらせ、風間が口火を切った。


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