たゆたう銀木犀

「歌川くん?」
 ――澄んだ声に名を呼ばれ、はっと意識が浮上する。日誌に一日の振り返りを書きつけていたみょうじが、窓に手をかけたまま動きを止めた歌川を不思議そうに見ていた。
「どうかした? 体調わるいなら後の片付けはやっておくよ」
「いや、大丈夫だ」
 からからりと窓を閉め、ぱちんと鍵をかける。カーテンをタッセルでまとめながら、みょうじの様子を窺った。蛍光灯の眩い放課後の教室で、みょうじは端正な文字を綴っている。授業の内容をひとつずつ、委員会からの連絡事項もきっちりと。それから一日の総括。淀みなく動くペン先がわずかにひっかくような音を奏でる。
 ぱさりと横髪がおちて、みょうじの指先がそれを耳にかけた。うすく開いたくちびるは淡く色づいている。ちいさく吐息がこぼれた。なにか、見てはいけないものを見てしまったような気がして、慌てて窓に向き直る。
 鼻先をかすめる甘いにおいがした。開け放たれたままの窓から香るそれは、きっと金木犀の香りだ。花の、香り。瞼の裏、死んだ街に添えられた色彩が浮かぶ。
「雨、降りそう?」
 かたり、と椅子を動かして、みょうじが立ち上がる気配がする。そういえば雨の予報が出てたんだっけか――今もロッカーに入った置き傘と、あの雨の日を思い出した。
「どうだろうな」
 窓枠を掴みながら身を乗り出して、空を覗く。ずんと重く沈んだ灰色の向こうが僅かに赤く染まっていた。頬を撫でる風は冷ややかで、どこか湿り気を含んでいる気がする。
「降らないでほしいなぁ」
 背後に立ったみょうじに場所を譲れば、窓枠に手をかけてぐっと伸びをするようにつむじを空に近づける。浮いたかかとにからだがゆらゆら揺れて、どこか危うい。
「傘なら貸すけど」
「今日は持ってきてるからだいじょうぶ」
「……なんで降ってほしくないんだ?」
「花が散っちゃうから」
「――、花?」
 じくりと傷んだ胸を呼吸で誤魔化す。軋む心臓をそのままに、みょうじの背中を見つめる。涼やかな風が舞い込んで、髪がふわりと舞っていた。
「うん、銀木犀。ちょうどこの下に咲いてるの」
 すきなんだ。
 歌川を振り返った彼女が、くちびるをやわく持ち上げて笑う。
「いいにおいがするし、花のかたちもかわいくて」
 いとけなく、かげりなく。あの花のことなどこれっぽちも頭のうちにないように。
「……このにおい、キンモクセイじゃないのか?」
「うん。銀木犀は花が白いの」
「へぇ……見たことないな」
「咲いてるとき以外はふつうの金木犀に見えるしね。雨が降ったらすぐに散っちゃうし」
 かつ、とかかとをつけたみょうじが、そのまま窓も閉める。
「持ちこたえるか微妙そう。早く帰ろうか」
「ああ」
「あとは戸締りだけ?」
「だと思う。日誌、任せてごめん」
「いえいえ。ゴミ出し行ってもらったから」
 最後の窓は歌川が締めた。鞄にノートと参考書を詰め、後ろの扉を内側から閉める。ついでにロッカーから折りたたみ傘も出した。みょうじが黒板の横にかけてある鍵をとる。ぱちりと電気が消されれば、季節と天候もあって冷え冷えとした薄闇が教室に満ちる。
 ふたりで廊下に出て、みょうじが鍵を閉めるのを待った。
「日誌、出しておくよ?」
「いや。どうせ通り道だし」
 もうすこし――話していたかった。

 階段を降りれば、吹奏楽部の頼りない音色が反響する。今日は階段でトレーニングする運動部もいないらしく、ふたりはゆっくりと言葉を交わしながら一階の職員室へ向かった。
「今日の数学、難しかったな」
「そうだね。応用になると混乱する。一学期のテストも意地悪だったし、ちょっと不安」
「ああ、最後の問題だよな。どこかの大学の入試問題」
「そう。でも実はわたし、解けたんですよあれ」
「解けたのか、あれ。すごいな」
「歌川くんは?」
「……途中式までは合ってたんだけどな」
「ふふ、やった、勝った」
 特に意味のない、この場かぎりのふわりとした言葉をやさしく重ねるだけの時間だ。楽しいと思う。けれどなにか焦がれるような、逸る感覚が胸を突いた。浮き足立った歩みは、きっとその下にある薄氷を割らないためにある。

「あ」
「降ってるな」
 濡れて色を変えたコンクリートを前に、歌川は紺色の折りたたみ傘を広げる。みょうじも透明なビニール傘を広げた。
「……今日は、ボーダーには行かないの?」
 日直をやりきったからだろう。最後の最後に気遣わしげに問うのがみょうじらしいと思った。
「行くけど、シフトはないからいいんだ」
「そうなんだ。家には一回帰るの?」
「いや、直行する。今日は帰ってもだれもいないし」
 先に向かっているはずの菊地原も待っているかもしれない。それを言ったらみょうじに気を遣わせるだろうし、それを理由にしたら菊地原が不機嫌になりそうだから言わないけれど。
 それに。
 寄りたいところも、あった。
「そっか。気をつけて――あ、そうだ。裏門から出るなら、ちょっと奥の方に銀木犀が咲いてるよ。この雨で花が落ちちゃうかもだから、よかったら」
「ありがとう。見てみる」
「うん、それじゃあ、ばいばい」
 と、手を振りながらもみょうじは動かなかった。歌川を先に行かせたいらしい。
「ああ、また明日」
 同じような状況だった前は、勘ぐって気まずい思いをした。学習を活かして返せば、そっと緩むような笑みが応える。
 足を踏み出して雨のなかに出る。傘を叩く雨の音色はいちだん柔らかで、「気をつけて」といつもは澄んだ声もどこかくぐもって聴こえた。

 銀木犀はすぐに見つかった。金木犀と比べると主張は弱いが、あまいにおいを辿ればそれと知るのは容易い。白く見えた花はほんのりと黄色みを帯びて、甘さのなかにも澄んだ清らかさのある香りはみょうじを思わせた。
 みょうじが言っていた通り、すでにいくつかの花はきれいなまま枝から離れて、窪んだ水たまりに浮かんでいる。アスファルトのうえをしゃらしゃらと雨が流れた。
 世界のすべてを覆うような雨音をききながら、深く呼吸を刻む。秋を告げる花の香はほんの一瞬で終わってしまうらしいから――深く。
 彼女が好きだと言った花の香りを覚えていたかった。

   *

 花は萎れていた。
 崩れた民家、砕かれた塀の影にひっそりと置かれた花束は、その形を保ったまま花としてのいのちを終えている。無情のトリオン兵に散らされるでも、ボーダー隊員に片付けられるでもなく、ただただ寂しげに取り残されていた。リボンだけがひさしの外に出て、水たまりに沈み色を変えている。
 『みょうじ』の家だ。日没を控えた雨天、灯りのない廃墟群の陰は深い。歌川はただそこに立ち尽くしていた。雨は激しさを増して、泥水がスラックスの裾に跳ねる。
 バチバチと雨が弾かれる音は、黒が空を穿つ音にも似ていた。近付く夜に、傘を持つ手から熱が奪われていく。革靴に水が染み込んで、その感覚だけが妙に生々しく現実めいていた。
 生身の視界ではこの光景のすべてをつまびらかにすることはできない。だから、ともすれば錯覚しそうになる。ここが死んだ街であることを忘れてしまいそうな――街が、忘れられたくないと囁いているような。

「――歌川」

 名を呼ぶ声が背後から響いた。低く、落ち着いた、誰よりも尊敬するひとの声だった。
 身体が揺らいで、けれど驚き叫びだすほどではない。予感はしていた。見咎め――聴き咎められないはずがない、と。菊地原の聴覚とかすかな音も気にかける細やかさを、風間の洞察の深さを、歌川は誰よりもわかっていた。
「……はい」
 わかっている。はずなのに。
 喉の奥に張り付いた言葉を無理やり剥がしたような、無様な返事だった。


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