白墨に踊る

「おはよう、みょうじ」
 朝礼前のさわめく声を縫って声をかけると、ぱちりと瞳がまたたく。廊下側の前から二番目がみょうじの席だった。「おはよう」同じ言葉を返すだけなのに、小さな笑みに彩られたそれはやわらかく耳をくすぐった。歌川はみょうじの机に置かれた学級日誌に視線を戻す。
「日直、佐藤とだったよな? 前に代わってもらってて。今日はオレが一緒にやるよ」
 ボーダーのシフトと日直が被っていたのは先週のことだ。同級生は別に交代しなくていいと言ってくれたが、それでは歌川の気が収まらない。
 それにしても、代わった先の相方がみょうじというのは全くの偶然だった。妙な縁を感じて心臓がそわりと跳ねる。まだ花束のことを上に報告していない気まずさが胸を過ぎた。
 みょうじは「そうなんだ」とあっさり頷き、日誌を開いて日直欄に歌川の名前を書き直す。細かな字は思っていたよりも角ばっていた。
「じゃあ、よろしく」
「うん」
 それほど話す仲でもないのに近くに留まり続けるのも決まりが悪い。そうそうに二列離れた自席へ戻り、ちらとみょうじを見る。後ろの席の友人と話す横顔は、いつもと同じ大人しげな笑みが浮かんでいた。
 お互い、ふたりで帰り道をなぞったあの夜なんてなかったように振舞っている。顔を合わせれば挨拶はするが、話すためだけに近付くことはない。正しく同級生の距離だった。

 教師が黒板にチョークを滑らせる音を聴きながら板書をノートに写す。眠気は奥歯で噛み砕いた。寝てしまっても予習は済ませてあるし、ボーダーの任務があった歌川を責める教師でもない。ただボーダーを理由に成績を落としたくはなかった。
「――それじゃあ、今日はここまで」
 カッと打ち付けられたチョークからはらりと雪のようなかけらが落ちる。見やすい字を書くけど筆圧が強くて消しにくいんだよな、と思いながら、学級委員長の号令に合わせて「ありがとうございました」と声を張った。
 教師が出て行くなり、わっと音があふれて空気がゆるんだ。隣の席では菊地原が煩わしそうにイヤホンを取り出し、机に顔を伏せる。それを横目に見ながら、ぎ、と立ち上がった。授業ごとに黒板を綺麗にするのは日直の仕事だ。みょうじもさっと前へ出て行く。
「こっちの方から消しても大丈夫?」
 いつもの澄んだ声が、まだ板書を続けている同級生に問いかける。
「ごめん、ちょっと待って」
 答える声に歌川も周囲を窺えば、他にも何人か写し終わっていないようだった。
 「少し待つか」歌川が隣に並んで言うと、「そうだね」とみょうじも頷いて応えた。手持ち無沙汰に教卓の前に立つ。沈黙がほんのすこし痛い。
「……ボーダーでいないときのノートって、どうしてるの?」
 飛び交う音の隙間を縫うような澄んだ声はみょうじのものだ。また話題を任せてしまったと思いつつ、投げられたパスを受け取る。
「それこそ佐藤とかに見せてもらってるかな。先生が同じ科目は、ボーダーでノート回したり……先輩のノートとかもあるから」
「先輩のノートはいいなぁ。帰宅部だからそういうの縁がなくて」
「見せようか?」
「えっ、いいの?」
「オレが持ってるコピーの分だけになるけど。今度持ってくる――もう消していいか?」
 ちらりと同級生に視線を向ければ「いいよー」と軽い声が応えた。クラスメイトたちはわずかな休み時間を謳歌し、ふたりを見ることもない。黒板消しを手にとった。
「オレが上のほう消すから」
「ありがとう」
 筆圧が強いうえに、黒板のめいっぱいまで板書をするので消すのも一苦労だ。撫でるように動かせば白く伸びた跡が残る。きゅっ、と力を込めるとチョークの粉が烟った。
「……みょうじって、前から帰宅部だったっけ」
「うん。体験入部はいろいろ行ったんだけど、結局」
 バイトのため、なのだろうか。教室でそれを訊ねることはできない。きゅ、きゅっ、と白を消していけば、とん――と肘になにかふれる。「ごめん」すぐに囁かれた声と同時に、一瞬だけふれあった熱が離れる。
「悪い。見てなかった」
「身長高いもんね」
 見上げる瞳とかち合った。「そう、か?」答えながら、黒板消しを押し当てたまま体を教卓側に寄せる。みょうじはアーチをくぐるように腕の下を通り抜け、下半分を消していく。ふわりと細やかな白粉が舞った。
「普通ぐらいだと思う」
「えぇ、でもまだまだ伸びるよ。……お兄ちゃんがそうだったもん」
「お兄さんいるのか」
「制服の丈とか合わなくなって、つるんてんになるよ」
「それは嫌だな」
「それこそ先輩から制服もらっちゃえばいいんじゃない?」
「あ、確かに」
 譲ってくれそうな人は誰だろう。ほんとうに残念ながら敬愛する先輩の身長は追い抜いてしまった。二宮さんは頼みにくいし、弓場さんは自分があそこまで伸びるかどうか。いやあそこまで伸びないならそもそも新しい制服はいらないのか。頭の片隅で考える。
「女子はみんな生徒会長のセーターを狙ってるんだって」
 小さく笑った彼女に「それ大きすぎないか?」と訊ねる。「大きいのがいいんだよ」そうなのか、と妙な力強さに頷きつつ、あのくらい身長が伸びたらいいなと思う。
 与太話を続けるうちにチョークの跡をあらかた消し終えた。最後の仕上げに歌川がきれいにならし、小さな背中は黒板消しをクリーナーにかけに行く。


「――みょうじと仲良かったっけ」
 席に戻るなり、むくりと起き上がった菊地原に問われる。イヤホンをしていても、鋭敏な耳はふたりの会話を拾ったらしい。
「まあクラスメイトだし」
 さらりと答えながら、動揺しないように努める自分に気付いていた。警戒区域に添えられた花束は菊地原も見ている。歌川がまだ誰にも報告していないことを――そしてあの家の表札を知っているのか、いないのか。
 菊地原は「そう?」とだけ呟き、興味なさげにあくびをこぼした。


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