月も星もなく

『帰り、スーパーに寄れる? 何時になってもいいんだけど』
 画面に表示されているのは母からのメッセージだった。土曜日。夕闇が少しだけ深く沈んだ宵の口。歌川が個人戦に夢中になっていたうちに思いのほか時間が経っていたらしい。まだもう少し残るつもりで、夕飯も食堂で食べていく流れになりそうだが、本部近くのスーパーなら寄って帰れるだろう。こきりと肩を回しながら返事を打った。
『なに買ってけばいい?』ややあって既読がつき、
「うわ……」
 つらつらと文字の並んだリストが送られてきた。

「みょうじ?」
 悲しげなメロディの曲が流れ始めるような閉店間際、客は数えるほどしかいない。
 歌川はレジにカゴを置き、エプロン姿の店員を見つめて瞳を瞬かせる。
「歌川、くん」
 澄んだ声が応えた。三角巾を被った横顔に確信はなかったのだが、やはりみょうじだ。まさか会うとは思わなかった、と見つめていればみょうじも同じらしく、驚いた顔で歌川を見ている。
「驚いた。いや、まさかみょうじがいるとは思わなくて」
 花のことは、まだ確かめられていない。この一週間はなにかと気にかけ、機を窺っていたものの、わかったのはみょうじが案外よく笑うということだけだった。
「うん、……びっくりした。学校の人が来たの、初めて」
 ボーダー本部の帰りに寄れるだけあって市街地からは少し離れている。スーパーとしてはこじんまりとしているし、近くに二十四時間営業のコンビニエンスストアもあるから、同年代たちはまず利用しないだろう。
「あ、ごめん。すぐやるね」
 止まっていた手が動く。ピッ、とバーコードを読み取り、澄んだ声が値段を囁いた。みょうじは商品を色違いのカゴに次々と収めていく。慣れた手つきだった。
「ごめん、多いな」
「ううん。仕事だし」
「……家、この近くだっけ?」
 無言で待つのも気まずくて会話を取り繕う。一定のリズムで響いていた電子音が止まった。
「……ううん」
 告げられた町名は歌川の家から歩いていける距離だ。このあたりからは――警戒区域のあの『家』からは、離れていた。
「普段は別の店舗なんだけど、ここ人手不足で。ときどき応援に来てて」
 商品のバーコードがわかりにくい位置にあったらしい。くるりと回して見つけ、読みとってから丁寧な手つきでカゴに入れる。
「あぁ、そうか」
 警戒区域の付近に住む人は多くなく、働く人はさらに少ないだろう。腑に落ちる。
「シフト、いつまでなんだ?」
「もう終わるよ」
「じゃあ送ってく」
「え?」
 バーコードを読み取るのに腐心していた顔をあげ、みょうじはぱちりぱちりとまばたきを繰り返す。
「あ、ありがとう……でも、」
 惑う視線がなにかを探している気がした。その先を追えば、はた、と黒縁眼鏡の店員と目があう。穏やかな表情にぴょんと跳ねた毛先がやわらかそうな、若い男性だ。
「どうしたの、みょうじさん。……お友だち?」
 にこやかな顔が近付いてくる。「同級生なんです」みょうじが応え、それと同時に警戒が緩んだのがわかった。変に絡んでいる客に見えたのかもしれない。自分では、どちらかと言えばいかつい顔だと思っていた。
「もう遅いし、送ろうかと言っていたんです」
 歌川が言うと、男性は「へぇ」と感心したように目を瞬かせた。
「いいんじゃない、みょうじさん。彼に送ってもらいなよ。俺が送っていくのだと、締めが終わるまで待っててもらわなきゃだったし」
 あぁ、それで戸惑うようにしていたのか。先約があったなら別に、とも思ったが、男はもう歌川に任せる気でいる。ちらりとみょうじに視線を向けると「そうですね」と小さな声で囁いた。
「あの、じゃあ、お願いします」
 かすれるような声のみょうじと、「任せた」と朗らかな男性を見比べ――もしかして自分は余計なことを言ったのだろうか、と背筋がこごえる。その表情が残念がっているように見えた。
 ピアノでも弾くようにみょうじの指がレジを叩いた。その音にはっとして、告げられた金額には一万円札を出す。「悪い、細かいのなくて」「大丈夫だよ、自動だから」言葉のとおり、レジからじゃらじゃらとお釣りが出てきた。紙幣を受けとって、小銭とレシートも財布に入れる。
「……あと十分くらいあるんだけど、大丈夫?」
「大丈夫。外で待ってる」
 ずしりと重いカゴを持ち上げる。邪魔をしたのではと思うものの、任されたからには全うするつもりだ。はっきり告げると、みょうじは「ありがとう」とやわく笑った。

「お待たせしました」
「いや。お疲れ」
 店の入り口にみょうじが現れたのは十数分後のことだった。エプロンの下に着ていたワイシャツではなく、ゆったりとしたパーカーに濃い色のジーンズを合わせ、黒のスニーカーでシンプルにまとめている。制服のスカート姿を見慣れているせいか、すこし意外だった。彼女が花束を抱えていた日曜日はどんな服装だったか――考えつつ、みょうじと並んで歩み出す。
「……歌川くんはボーダーの帰り?」
 隙間を埋めるような言葉が夜におちる。住人が少ないせいか街は静かで、みょうじの澄んだ声がよく馴染んだ。そちらを見やるのも違う気がして空に視線を彷徨わせる。生憎の薄曇りに月も星も見つけることはできない。
「ああ、帰りに買い物を頼まれて。……黙ってたほうがいいのか? みょうじがバイトしてること」
「許可はあるから大丈夫だよ。……あ、でも、うん、他のひとには内緒にしてくれたほうが、うれしい……かも」
「わかった」
 頷いてから、しまったと思った。これでは会話の広がりようがない。
「あの、バイトは……学費を貯めたくて」
 どんな話題を振ろうかと決める前に、囁く声が震えた。「えらいな」素直にこぼれた言葉を自分で拾い、改めて思う。「すごいと思う。そういうのは」続けつつ横目で窺うと、みょうじの頰が赤らんでいた。
「いや、そんな……歌川くんのほうが、えらい? というかすごい、と思うけど。ボーダーに入ってて、街を守っててくれてるし……」
 嫌味のない言葉は声と同じく澄んで心地よかった。頬がすこしあつく、曇り空に星を探す。
「そうかな」
 入隊したときは使命感にも似たものが心のうちにあったが、最近はそうでもない。近界民や四年前の侵攻に対する感情がなくなったわけではないけれど。でも、もっとフラットな気持ちで向き合っている。それが良いことか悪いことかはわからなかった。
「そうだよ。いつも、ありがとう」
「……どういたしまして?」
「疑問形だ」
 ふふ、と笑う声に肩の力が抜ける。緊張を自覚して、意識的にゆっくりと呼吸した。話題の提供もみょうじに任せっぱなしだ、と息を吸う。
「あー……でも、あれだ。オレが送ってよかったか、本当に」
「どうして?」
 いちばん気になっていたことがそのままの順番で口をつきかけた。それほど親しくもない男が訊いていいものか一瞬だけ悩んだが、今後のためにもはっきりしておいた方がいい。なんて言い訳をしつつも、いざ訊ねようとすると口が重くなる。
「いや、さっきの人……」
「さっきの……佐々木さんのこと?」
 きょとん、とした声が応えた。あの黒縁眼鏡の男性は佐々木という名前らしい。
「邪魔を、したんじゃないか、と……」
「なんの?」
「……佐々木さんに送ってもらいたかったなら、悪いことしたな、とか思って。ほら、残念そうに見えたから」
「……? ……あっ、いやあの、違う、ちがうよ? そういうのじゃなくて、ただ、」
 その先を、みょうじは言わなかった。
 彼女がどんな顔をしているのかはあえて見ないことにする。数秒の沈黙を経て、少し掠れたくちびるが開いた。
「佐々木さん、彼女がいるし……ほんとうに、そういうんじゃない、よ?」
「そうか。ごめん、勘違いして」
 ほっと胸を撫で下ろしながら謝る。安心する理由は、もちろん、自分が横槍をいれたわけではないとわかったからに違いない。
「そういう歌川くんはないの? ボーダー、かわいいひと、いっぱいいそう」
「尊敬している人は多いけど、好きな人はいないよ」
「ほんとかなぁ」
 その声にからかいが混じっているのを察して苦笑する。物静かな印象が強かったが、やっぱりよく笑う。よく笑う――ふつうの子だ。胸に満ちた感情を安堵と呼びたかった。

 適度に会話を弾ませながら、お互いの家の近くまで歩く。「ここまでで大丈夫」曲がり角でみょうじが言ったが、その爪先は街灯の少ない道に向けられていた。「オレもここで曲がるから」さらりと嘘をついて、家の前まで送る。 みょうじは疑った様子もなくとなりを歩いた。

「着いた。あそこ」
 みょうじが指差したのは、とくべつ新しくも古くもない一戸建てで、表札にも『みょうじ』とある。やっぱり――あの花束は歌川の見当間違いで、何の関係もないのではと思った。
「送ってくれてありがとう」
「通り道だから」
 嘘は突き通し、「じゃあ、また学校で」と手を振り合う。背中越しに扉の開く音がした。
「ただいま」澄んだ、みょうじの声。それに応える『おかえり』は、聴こえなかった。


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