雨霞の声

 みょうじなまえについて、知っていることは多くない。どちらかといえば大人しいようで、普段からあまり目立たない生徒だった。かといって浮いているわけでもなく、昼食はいつも同じ友達と食べ、ときには声をあげて笑っているのを見かける。人見知りをするだけかもしれない。あと知っているのは、黒板に書く字が小さくまとまっていること、数学と現代文の成績が良いらしいこと。
 話したことはおそらく数えるほどしかなかった。ノートを集めるときだとか、床に落ちた消しゴムを拾ってもらったときだとか。それから。朧げな記憶を掘り起こす。いちばん長く話したのは、みょうじが傘を忘れたときだった。

 その日はたまたま学校を出るのが遅くなった。日直だったのか委員の仕事だったのか、理由は覚えていない。ただ――昇降口で靴を履き替え、ふと視線を持ち上げたときに見えた後ろ姿だけは、なぜかくっきりと記憶に残っている。

「みょうじ、どうした?」
 歌川は彼女の背中に投げかけた。びく、と肩を揺らしたみょうじが振り返る。
「歌川くん」と呟く声は澄んでいた。
 みょうじは昇降口のガラスに背をもたれ、見る限りでは雨が降り止むのを待ってるようだ。
「天気予報みるの、忘れてて」
 なにか言う前に、みょうじはへたな笑みをつくりながら言った。雨のせいで音はすこし遠かったけれど、みょうじの声は隙間を縫うように鼓膜を震わせる。
「貸すよ」
 えっ、という顔が向けられる。返事を訊く前に折りたたみ傘を差し出した。紺色の、頑丈さと大きさだけが取り柄の傘だ。
 歌川としては特に打算のない自然な行動だったけれど、小さな手のひらが押し返す。
「いや、いいよ。悪いし」
「誰か迎えに来るのか?」
「そのうちやむだろうから」
 来る、とは言わなかった。あたりはもう暗くなっていて、雨の勢いは弱まりそうにもない。
「家の人が心配するんじゃないか」
 傘で手のひらを優しく押した。みょうじは少し視線を逸らして、「ま、あ」とぎこちなく紡ぐ。
「でも、ほら、歌川くんが濡れるでしょう?」
 ぐ、とまたも押し返された。それに意地を張りたくなったのは何故だったのだろう。どうしてもこのひとに傘を受け取らせて、濡らすことなく家に帰したい。頑なさを崩そうとして自分も頑固になっていることには気付けなかった。
「オレは置き傘あるから、教室に」
 言い添えてみると、みょうじの表情が思案するようなものになる。
「……ほんとう?」
 やや疑うような眼差しで見上げられ、すこしだけ息が詰まる。平静を装って頷いた。もちろん嘘だ。いま渡そうとしている傘こそロッカーに入れっぱなしにしていた置き傘だった。
「それじゃあ、お借り、します」
 よし。心のなかで小さくガッツポーズをつくった。どうしてこうも喜んでしまうのかはわからない。――自分の思った通りになったという事実が欲しかったのかも知れない。ボーダーで少し伸び悩んでいた。
「ありがとう」
 小さな手がしっかりと傘を受け取ったことを確認し、手を離す。
「じゃあ、オレは取りに行って来る。置き傘」
「うう、ごめん……」
 嘘がばれないうちに帰したい。みょうじの方も折りたたみ傘を広げたのでほっとした。
「いいよ。じゃあ、また明日。気を付けて」
「ありがとう。ばいばい、またあした」
 傘に入ったみょうじが、紺色の下から歌川を見上げる。大きく広がる折りたたみ傘だから、両肩もしっかりと覆って、これなら濡れずに済みそうだ。ひらり、と振られた手に振り返して、歌川は校舎に戻った。一応、少し時間を潰してから裏門から出よう。そんなことを考えながら。

 あの傘は、どうやって返してもらったのだったか。
 手渡しで返された覚えはなかった。翌日は朝から任務が入っていたのかもしれない。下駄箱か机かに置いてくれたのだろう。あの紺色の折りたたみ傘は今も歌川の置き傘としてロッカーに入れてある。あのあと持ってきた置き傘は誰かに使われたのか傘立てから消えていた。
 また新しい傘を持ってこないとだめか。思いながら下駄箱の前で靴を履き替えた。ずいぶんと早く家を出たので、生徒玄関のあたりに人影はほとんどない。
「おはよう」
 ぎくり、と肩が動きそうになったのを、靴を馴染ませるようにトントンと爪先で床を叩いて誤魔化す。振り返るとみょうじなまえがいた。その澄んだ声からしてわかっていたことだけど。
「おはよう、」それから「早いな」と続ける。
「いつもこんな時間だよ。歌川くんこそ、今日は早いね」
 みょうじは控えめな笑みをこぼした。歌川のものとそう離れていない下駄箱から靴を取り出して、代わりにローファーを入れる。なんとなくそれを待って、二人で教室に向かうことを選んだ。
「今日は……ちょっと、早く準備できてな」
 隣に並びながら言うと、「そういう日、あるよね」とやわらかい声が応える。
 あまりにも普通に。みょうじなまえは、ふつうに、ただの、歌川のクラスメイトでしかなかった。こうして目の前にしても――あの瓦礫と花束と、彼女は結びつかない。家を、あるいは家族をなくしているようには、見えない。
「……みょうじ」
 言わなければ。ただそれだけを思った。昨日から何度も脳裏に思い描いた、告げなくてはいけない言葉だ。幸いにして、朝早くの廊下に人影はない。
「なに? 歌川くん」
「……、花、を」
 横目でそっと様子を窺った。「花?」応えるさまに気負いはない。
「日曜日、持ってただろ。花束」
「あ、……あぁ、あれ、ね」
 ほんのわずかに動揺した。ように、見えた。
「あの花束――」
 警戒区域の民家の傍に置いてあった。『家』に飾ったんだよな。それがどうしてあんな場所にあったんだ。あの花束を、あそこに持ち込んだのは、みょうじか。
 どれを言うべきか悩み、一瞬の逡巡のあとにやっと喉から出てきたのはどれとも違った。
「すごい、きれい、だったな」
「そこは花屋さんの手柄だね。え、歌川くん、花に興味があったり、する?」
 にこ、と笑った顔は、あの雨の日のへたな笑みとは違う。目をさ迷わせる様子もなく、歌川を驚いたような顔で見上げる。
「……そう、だな。教えてくれると嬉しい。どこで買ったんだ? あの花束」
「商店街近くの花屋さんだよ。ほらあの、リースとか飾ってある……」
 ああ、あそこか。頷きながら自問した。どうして今、オレは、言ってしまわなかったのか。早く言った方がいいに決まっている。でも、もうしないかもしれない。いや、するかもしれない。わからないからこそ、手は打たなければならない、はずだ。
 だけれど、そもそも本当に彼女なのだろうか。嘘を言っているようには見えない。同じ花束だと確証があるわけでもなかった。たとえ同じもので、あの『家』と彼女に繋がりがあったとしても、置いたのが彼女である証拠は、歌川の手にはない。

 からからと教室の扉を開きながら、みょうじは「おはよう」と中に入る。歌川も続いたが、教室にはまだ誰もいなかった。廊下よりも落ち着いて話せる絶好の機会だ。さっき訊けなかったのは、誰かが通りがかるかもしれないという危惧があったからで――下手な言い訳であることはさすがに自覚している。
 けれどみょうじといえば、早々と机に鞄を置いて教室を出て行こうとしていた。
「どこか行くのか?」
 思わず引き止める。ちょうど扉の手前でたたらを踏んだみょうじが振り返り、そっと頷く。少しだけ頰が赤くなっていた。
「……お手洗いに」
「……ごめん」
 ううん。返された声はやっぱり澄んだ響きだったけれど、どんな顔をしていたのかはわからない。ちょっと気まずくて、鞄から筆箱やノート、教科書を出すのに集中したせいだった。


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