いつかきみと

 薄紅色の空に紫煙がとけていく。その行方をぼんやりと追っていると、からからとガラス戸を引く音が響いた。反射的に煙草の火を消そうとすれば「いいよ」と抑揚の薄い声がそれを止める。唐沢はひとまず唇から煙草を離すに留めて、数ミリの灰を携帯灰皿へ落とした。
 振り返ると、なまえがいつもの静かな面持ちで唐沢を見ている。夕飯の準備は一区切りついたようだが、シャツはまだ肘のあたりまで折りたたまれていた。今日はハヤシライスにしよう、と張り切った声を思い出して小さく笑みが零れる。
「煙草っておいしいの」
 彼女の瞳にかすかな好奇心が宿っているのを見て、火は点けたままにした。普段なら非喫煙者の前では吸わないが、なまえが関心を抱いているなら別だ。唐沢がここで煙草を吸っていいかと確認したときは『どうぞ』としか言わなかったのに、今になって気になったらしい。
「まあ、うまいよ」
 なまえは裸足のままベランダへ降りてくる。風も穏やかとはいえ、これから冬へ向かおうという時季に。置いてあったサンダルを唐沢が借りているせいだが、それにしても彼女は昔から無頓着なところがあった。無防備といったほうがいいのかもしれない。
「降りるなら履きなさい」
 咎めるように言って、幼馴染みにサンダルを返す。靴下を履いてるだけ唐沢のほうが彼女よりはましだ。薄紅に塗られた指先とは違う、素のままの薄いつま先の前に置けば、小さな足は大人しくすっぽりと収まる。風下に移動して、細くたなびく煙が彼女にかからないようにした。
「ありがとう……綺麗な夕焼けだね」
「ああ。少し雲が出てるけど」
「層積雲かな。雲が多いとこういう色合いになりやすい」
「へぇ」
 なまえはアルミの手摺りにもたれるようにして街を見下ろす。五階建てマンションの三階。眺めはあまりよくないが、普通の民家よりは背が高い。夕日に照らされた瓦がきらきらと輝いて、ちらほらと紅葉しはじめた山々にはやわらかな影が差している。
 下ろしたままの髪は風になびき、さらりと肩を滑り落ちた。彼女が髪を伸ばしはじめてから十年が経つ。その間には昔のように短い時期もあったけれど、たいてい結える程度の長さは残っていた。唐沢が贈ったバレッタを使うためならいいのに、と思う。
「……いつから煙草を吸いはじめたの」
 瞳は街を見つめたまま、色づいたくちびるだけが問いかけた。
「五年前かな……確か、二十三の誕生日だったから」
「意外と遅いね」
「そりゃあきみ、俺は真面目なラガーマンでしたから」
「からだに悪いとわかって吸っているのは不思議」
「そういうものなんだよ」
 右手で支えた煙草を口元へ運ぶ。フィルターを咥え、ゆっくりと肺へ煙を入れる。香ばしさと苦味を味わい、そっと煙を吐いた。可視化された呼吸はすぐに夕暮れへまぎれる。いつの間にか視線をこちらへ戻していたなまえが、唐沢をじっと見ていた。
「吸ってみる?」
「うん」
 冗談のつもりが素直に頷かれて、思わず眉が上がる。驚きになまえを見返したが、真面目な顔つきが崩れることはない。確かに、嫌煙家だとは言っていなかったけれど。
「……本当に?」
「唐沢が嫌でなければ。どうやって吸うのか教えて欲しい」
「それは、もちろんいいけど」
 胸騒ぎにも似た落ち着かない心地がある。なまえらしくないと思うが、彼女が望むなら唐沢は差し出すだけだ。室外機の上に置いていた紙箱から最後の一本を取り出し、薄紅色の指先に渡す。なまえはそれを夕日に透かしたり、くるくると回すようにして観察していた。新しいおもちゃをもらった子どもと同じ反応だ。
「咥えてから火をつける?」
「ああ、軽く吸いながら点ける。炎の先端のほうで」
「温度が高いから」
「そう……あんまり勢いよく吸うなよ。普通の呼吸より弱いくらいで十分だ」
 持ち方はこう、と火が点いたままの煙草を持つ手を見せてやる。細い指がぎこちなく動いて、唐沢の手の形を真似た。別に好きな持ち方でいいのだけれど、そのやわい肌に火傷でもされようものならしばらく自己嫌悪に陥ることになる。
「火が移ったらもう少し吸って、そしたら口から離してすぐ吐き出すといい」
 自分の煙草は咥え、空いた手でライターの蓋をぱちりと弾く。風に火が揺れるのをもう片方の手で守りながら、彼女にも煙草を咥えるように促した。
 色づいたくちびるがおそるおそるフィルターを食んだのを見届け、その先端にライターの火を近づける。ふっ、と彼女が笑った。炎が乱れて、掠めただけの煙草に火は点かない。
「えらい人になったみたい」
「教授?」
「なれたらいいけれど」
 声はうらさびしく響いた。なまえは一年前に博士課程を修了し、今年の春から大学の研究室の所属となった。博士研究員ポスドクは契約社員みたいなものだよ、と彼女は謙遜めいたことを言ったが、それにしたって一握りの人間にしか与えられない席だろう。上が詰まっている、狭い世界だ。以前に彼女が憂いていたのも覚えている。
「じゃあ、俺は教授に単位をせびる学生かな」
「君、そんなのしたことないでしょう」
「してたかもよ」
「うそだ」
 笑みをたたえたまま、彼女はようやく煙草の先を炎にあてがう。慎重に吸って――ぎゅっと眉間に皺を寄せた。くちびるから煙草が離れると同時に白い煙がこふりと吐き出される。
「上手に吸えたな。噎せなかったし、火もちゃんと点いてる」
 彼女の表情を無視して笑えば、ますます皺が深くなった。子ども扱いしないで、といったところか。両手を挙げて降参を示せば、なまえは訝しげに唐沢を見上げる。
「…………これが、おいしい、の?」
 胡乱なものを見るような目つきは、自分が吸ったものと唐沢が吸っているものは本当に同じなのか、と問うようだ。
「死にかけると美味くなるんだ」
「いつ死にかけていたの」
「真面目に拾わなくていい……そんなにまずかったか?」
「まずい、というか……」
 薄紅色の指先に支えられた煙草は、再び色づいた唇に食まれる。フィルターに薄く移った口紅がちらと見えた。そっと吸って、口だけに煙を留めて、すぐに吐く。なまえの呼吸が空へとけていく。
 その瞳はやわく伏せられ、思考の宙へ旅立とうとしていた。いくら年齢を重ねても、幼馴染みのこの癖だけは変わらない。ずいぶんと上手になった化粧も服装もなまえの魅力を引き出してはいるが、唐沢が惹かれるのはこれだった。
 思考に沈む彼女の横顔。誰からも見過ごされそうなほど小さく、あまねく星々に容易く埋もれてしまうのに、どうあっても目を離すことのできないもの。不意におちる六等星の瞬きのようにかすかで、きれいな――彼女が彼女であるからこそ生まれる輝き。この瞬間は煙草の味さえ無粋に思えて、唐沢はただ空へ煙を流しながらなまえを見つめる。
「……だいじなことから忘れていきそうな味がする」
 静かな声がやっと囁いたのは、唐沢がすっかり短くなった一本を携帯灰皿に押しつけようかというときだった。彼女の煙草は碌に吸われなかったからか、まだ長く命を残している。
「そうかもね」
 灰皿に煙草を押しつけ、指先に伝う熱を感じながら囁く。唐沢が煙草を吸うのは疲労や緊張を感じているときが多い。ストレスから逃げようとすることは、忘れることにも近いのかもしれない。
「よく吸おうと思うね」
「口寂しいからかな」
「鉛筆を齧っていたほうがいいと思う」
「まだ齧ってるのか」
「もう齧ってない。……幼馴染みってこういうとき厄介」
「お互い様だろ」
 唐沢だって幼馴染みには情けない姿を知られているし、そうでなくても弱いのだ。なまえはあまり理解していないようだけれど。
「それ、吸わないならもらうぞ」
 弱々しい火が残った煙草を薄紅色の指先から引き取り、少しだけ伸びた灰を灰皿へ落とす。薄く移った紅を食むように咥えた。
 あ、と。
 なまえのくちびるが開いたが、かすかな声は風に流され消えていく。
 何か。視線だけで問えば、なまえは唐沢から逃れるように少しだけ俯いた。風になびく髪の合間から見えた耳はほのかに赤い。それに――甘く疼いてしまう熱がある。どうしても男性として意識されたいと思っているわけではないのに、その片鱗を見つけると心臓が焦げついた。熱を隠すように紫煙で肺を満たす。傷ついてもいいと静かな声が紡いだ夜を過ぎても、彼女に熱を晒したことはなかった。傷つけたくて傍にいることを選んだわけではないのだから。拗れた熱がどんなかたちをしているのか、直視することの恐れもあった。
「捨てるって意味だと思った」
 動揺はほんの一瞬で、澄ました顔に戻ったなまえが囁く。宇宙に焦がれる幼馴染みは、やっぱり熱からは遠いところにいた。唐沢も煙草を支えるついでに口元を隠して、滲みかけた感情が伝わらないようにする。
「まだ半分以上残ってたから」
「……新しいの買ったのに」
「いいよ、ストックはあるから」
「一日にどれだけ吸ってるの」
「ふつうくらい」
「……吸いすぎはからだに悪いよ」
 案じるような声がくすぐったく心を撫でていく。肩をすくめて応えると、なまえは部屋のなかへ引き返す。そう間をおかず戻ってきた彼女の手のひらには、大きなみぞれ飴がいくつかのっていた。個包装に包まれたパステルブルーの飴玉を、薄紅色の指先がつまむ。
「口寂しいなら」
 どうぞ、と。眼前にもたらされた飴に笑みが落ちる。こういうとき、唐沢が仕事で遭遇するような女性なら唇を塞ぐ口実にするのだが、なまえはそんなこと露ほども考えていないだろう。なんたってふたりは幼馴染みで、親友で、恋人という名称でくくられる関係ではない。
「ありがとう」
 あとで食べるよ、と飴玉を受け取り、それはそれとして煙草は吸い続ける。いつもより甘い、なんて気のせいでしかないのに。なまえは諦めたのか呆れているのか――あるいは、なぜかさみしそうにも思える――海の底にも似た瞳に、ただ唐沢を映していた。

「なにか悩み事でもあるのかい?」
 口の中の飴玉はもうずいぶんと小さくなっている。昔のアパートよりは広いシンクで洗い物をしながら、隣で食後の珈琲を淹れる彼女に訊ねた。滴り落ちる雫を見ていたなまえが顔を上げ、ぱちりと瞳を瞬かせる。
「どうして」
「何となく。あえて言えば、いつもより物憂げに見えたから」
「ものうげ」
 静かな声で言葉をなぞりながら、なまえはケトルを傾けて萎んできた珈琲粉にお湯を注ぐ。唐沢も最後の器をすすぎ終え、スポンジと手に残った泡を流した。戸棚からマグカップを二つ出し、ついでに牛乳とキャラメルソースも出しておく。頭脳労働に勤しむなまえの最近のお気に入りはキャラメルカフェオレらしい。
「……唐沢の会社、男女比はどれくらいなの」
 不意に紡がれた問いは予想外のものだった。これまで彼女が唐沢の仕事について触れたことは殆どない。記憶を浚って答えを探す。
「割合で見たら……まあ、女性は多くないな。管理職には何人かいるはずだけど」
「そうなんだ」
 彼女がマグカップにお湯を入れてくれたので、くるくると回して器を温める。もう一つも同じようにしてから湯を捨て、片方には牛乳を入れた。キャラメルソースは固まりやすいので珈琲を注いでからだ。
「悩みの種は研究か? 学閥は男社会と聞くけど」
「ううん……いや、ある意味ではそうなのかな――お見合いを受けることになって」
 バタン、と音を立てて冷蔵庫の扉が閉まった。つるりとした白が震えるのを手のひらで感じながら、呼吸とともに熱を押し込める。そういう大事なことは早く言えと思うが、それはなまえにとっての大事おおごとであって、唐沢には関係ないことだともわかっていた。その事実にまた熱が滲むのだから、この執着はどうしようもない。それでも、昔よりは随分と大人になれたはずだ。笑みを繕ってからゆっくりと口を開く。
「へぇ、見合い。結婚を前提にした、あの?」
「あのお見合い。親戚にそういうことが得意な方がいて。おばやいとこたちの縁談を次々にまとめていらしたの」
「それで、次はきみの番、って?」
「父が世話になった方だから断りにくくて……気乗りはしないけれど」
 なまえがケトルを置き、珈琲の抽出を見つめる。その背中は唐沢とは比べるまでもなく華奢なのに、いつもしゃんとしていた。一人でも立っていられるのだと知らしめるように。それが、今は少しだけ脆く揺れている。
「……相手は、きみが家庭に入ることを望んでる?」
「唐沢は何でもお見通しだね」
 振り向いた彼女は笑みを浮かべていた。唐沢の知るなまえなら義理があろうと断っていただろうに、よほど仲人の勢いが強かったのか。それとも――彼女が弱っていたのか。
「……何を言われた?」
「大したことは。唐沢が怒らなくていいのに」
「怒ってないよ」
「そう。ありがとう」
 笑うなよ、と思う。けれどそれを口にすることはできず、わずかに残っていた飴玉を噛み砕く。彼女がマグカップに珈琲を注いだ。唐沢はどうする? とキャラメルソース片手に問われ、半ば自棄になって入れてくれと返す。カフェオレにした方がいいと言うので、閉じたばかりの冷蔵庫を開けて牛乳を渡した。ぐるりと黒と白が渦巻いて、マグカップの中身はやわらかな色合いに落ち着く。
「断れたらよかったんだけどね」
 リビングに移動し、クッションに埋もれるように座りながらなまえは囁いた。両手で支えたマグカップにゆっくりと口付ける。こくりと飲みこんでひとごこちついたのか、表情が淡くゆるんだ。
「すこし、嫌なことが重なっていた時期だったから……押し問答も面倒になってしまって」
「……断りにくいなら手を貸すが」
「気持ちだけ。会って断るか、会う前に断るかの違いでしかないから」
 はっきりと意志を示すなまえに安堵が広がる。受けるつもりだ、なんて言われてたら自分は何をしでかしていたことか。わかるからあまり考えたくはない。
「断るのは決めてるんだな」
「うん……役に立つか、立たないか。その尺度しか持っていない人とは、きっと仲良くなれないもの。家庭に入れと望むのも、そういうことなんでしょう」
 彼女とその研究をないがしろにする男へ腹が立つと同時、損得と利害で動く仕事を生業としている唐沢も耳が痛い。それに目敏く気付いたのか、なまえは微笑む。
「君は、自分と他人の大事なものを、どちらも大事にできるひとだと知ってるよ」
 ああ――彼女には敵わない。本当は勝てるはずなのに、負けることを楽しんでしまうからだめなのだ。これはもう一生そうなんだろうな、と情けなくも幸福な心地が胸を支配する。
「……もしもその相手が、研究を優先していいって言ったら受けてたかい」
「どうだろう……」
 キャラメルカフェオレにうまれた細波ごと飲む。ほのかな熱と、香ばしさ、まったりとした甘み。いつかのブラウニーと同じく唐沢には甘過ぎる。なまえは何事かを悩むように目を伏せ、それから細く息を吐いた。
「わからない……恋愛だとか結婚だとか、わたしには本当に向いていないから」
「……きみがそういう風に考えているとは知らなかった」
「変かな」
「それこそ窮屈な尺度だろう。改めて訊いたことはなかったな、くらいの感想だよ」
 向き不向き以前に興味がないのだと――そんなこと考えもしていないのではないかと思っていたくらいだ。彼女がその結論に至った道筋を知らないことはほんの少し胸を刺したが、それだけだった。そういう関係にはなれないと示されたところで、そんなことはもうずっと前からわかっている。
 幼馴染みで親友。そう名付けられた関係の方が、なまえにとっては気安く、心地よいのだ。彼女がそれを望むなら、この熱を飼い慣らしながら傍にいる努力は惜しまない。
 唐沢が、好きで、そうしたいと思うから。
「しなくてはいけないも、してはいけないも、ないよ。いつもと同じだ。きみの思うようにしたらいい。俺は、そういうきみが好きだよ」
「……唐沢は、下手をしなくても親よりわたしに甘い」
「きみも、よっぽど俺に甘いけどね」
 ぱちり、と星を宿した瞳が瞬く。そうかな、と小首を傾げた拍子に滑り落ちた毛先を何とはなしに追いながら、そうだよと囁いた。

 ▽△

 矢番海岸は昔よりも寂れた雰囲気が強かった。防波堤にもたれるように並びながら、ざあざあと鳴る波の音に耳を傾ける。十四歳のころに感じたくらやみへの恐れはすっかり薄れていた。唐沢が大人になったということなのか、それよりもずっと恐ろしいものを知ったせいなのか。後者だろう。
 天を見れば、きんと澄んだ空に星が瞬いている。いつか彼女に教えてもらったオリオンを探し、そこから冬の大三角、ねこ座とうさぎ座を辿った。ちゃんと覚えていることが自分でもおかしくて笑みが滲む。
 三が日も幾分か過ぎた初詣へ、なまえに付き合ってもらった帰りだった。助手席に座った彼女が『星がきれいに見えそう』と呟いたので車を停めたものの、二人のほかに人影はない。潮混じりの空気を肺に入れると、冴え冴えとした冷気が満ちる。吐息は白く烟り、かじかむ指先を自動販売機のコーンポタージュで温めた。なまえはミルクティーをちびりと飲み、その熱さに目を細めている。さすがにもう、地べたに寝転ぶ年齢ではなくなった。
 例の見合いは無事に破談となったらしい。神社へ向かう道すがらに訊いたことだった。しかし『研究を続けたいので』と具体的な理由をつけたのが悪かったのか、仲人は『あなたのお仕事を認めてくださるひとを探すわ』と張り切ってしまったのだという。また組まされそう、とぼやいたなまえは傍目にも疲れていた。
「……唐沢は、結婚したいと思う?」
 星を眺めるなまえがぽつりと呟く。宇宙物理学の研究者には星の観測に興味がない人も多いと聞くが、それはなまえには当てはまらないようだった。
「どうした、急に」
「訊いたことがなかったと思って」
「……ここできみと星を見ていることが答えだとは思わない?」
「なるほど」
 くすりと笑みを零し、星を宿した瞳が唐沢を捉える。しばらく、何かを確かめるような視線が頰をなぞった。
「嘘ではないにしても、そういう言い方はどうなの」
「嫌だった?」
「ううん。世の女性たちが放っておかない理由がわかっただけ」
「放っておいてくれていいんだけどね、俺としては」
「持つ者の余裕だ」
 波に転がるガラスのように丸くとけた笑みが鳴る。白い吐息が夜へとけていく。余裕なんてないよ、と言ってしまいたい。
「……次の見合い、もう話はきてるのか?」
「釣書だけ送られてきたよ。……とても、よい条件なんだと思う」
 なまえは空と海の境界を探すように視線を彷徨わせた。ぴゅうぴゅうと鳴く潮風が彼女の髪を攫い、マフラーに埋もれたくちびるが小さく開く。
「……お相手は安定した職についていて、三門から離れることもなさそう。わたしが仕事を続けることは歓迎しているし、家事も分担してくれる。子どもは二人くらい、とか……親戚は、とても穏やかな方とも言っていたかな。天体観測がすきなんだって」
 静かな声から感情を読み取ることは難しかった。ざあざあと繰り返す波の音がノイズのように声を覆っている。それは諦めているようにも羨望しているようにも響き、ただ彼女が疲弊していることは確かだと思えた。訥々と紡がれた言葉は、棘のように心臓へ滲みていく。
「俺よりもいい男かな」
 囁けば、ふっと空気が揺れた。なまえの横顔が静かに笑んでいる。
「君よりいいひとなんてハリウッドくらいにしかいないでしょう」
 それが本心なのか、大袈裟に褒めているだけなのかわからなかった。降りそそぐ言葉の一つひとつに、理性は為すすべもなく敗北している。指先からじんと痺れるような熱が、喉元にまでかかる。
「……そういえば、転職の話が出ていてね」
 会話の向きを変えてやれば、なまえが窺うような視線を投げる。唐沢はコーンポタージュのプルタブを引っ張り、やや温くなったアルミに口付けた。渇いた喉を潤すには粘ついているが、どうにか飲み込む。
「今の仕事、楽しそうにしていると思っていたけれど」
「まあね。楽しいし、向いてる。そう思うよ」
 だけど――唐沢はやっぱり、なまえの幸せを心から祝福できる人間にはなれなかったから。
 彼女を傷つけたくないのは本当だ。同時に、奪われるくらいなら疵をつけてでも傍に縛りつけたいと思う熱はまだ残っている。それが今どんなかたちをしているのか、確かめることへの恐れもある。それでも。
『――きずついたって、そばにいたかった』
 震えた声を思い出す。そこに嘘も強がりもなかったことを、いとけなくやわらかな覚悟があったことを、唐沢は覚えている。だから、奥深くへ埋もれた熱を、そっと拾いあげることにした。薄汚れた手が彼女の正しさに灼かれる日がくるとしても。どうか、これがきみをきずつけることがありませんように、と白波の星々に祈る。
「でも、似たようなことはどこでもできるから」
「……もう転職先の目星はつけている?」
「ああ。悪の組織ときたからには正義の味方がいいだろう、とかね」
「悪の組織だったの……?」
「まあ、それは冗談として。春くらいにはここで――三門で、働けると思う。まだ不明瞭……未確定な部分も多いけれど」
 そう、と。なまえがいつものように応える。唐沢の意志を柔らかに肯定するとき、彼女はこの素っ気ないとも言える返答を好んだ。
「それで、一つ提案なんだが」
 隣を窺うと、なまえも唐沢を見ていた。天の星を映したような瞳が、くらやみのなかでもかすかに瞬く。潮風に冷えた頰が赤くなっていた。街灯に照らされた瞼は品の良いブラウンのアイシャドウで飾られ、淡く色づいたくちびるは花の蕾のように閉じている。
 思考に沈む彼女をきれいだと思ったのは、この海辺が最初だった。あのときに見つけたかすかな六等星の輝きは心から離れず――唐沢が彼女のもとへ帰る導となってくれたから。

「一緒に暮らさないか」

 ぱちり、と瞳が瞬く。波の音は鼓動に覆われて、星の光は彼女を前に霞んで消えていく。
 なまえは、ぽかんとくちびるを開けるだけで何も言わなかった。頰に集った熱を持て余しながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「肩書きはなんだっていい。ルームシェアでも、同棲でも同居でも共同体でも、きみの好きなように。きみの研究の邪魔はしないし、俺がいれば見合い話もやってこない。よその大学や図書館へ参考文献を借りにいくことだってできるよ。天文台へ星を見に行くのもいいね。夜の運転もけっこう好きなんだ。……いい条件だとは、思わない?」
 睫毛の影がやわく目元へ落ちていた。はるか遠い空の彼方で瞬く星よりもかすかな六等星は、思考の宙へと旅立つ。なまえは今、なにを考えているのだろう。唐沢のことだけを考えていてくれたらいいのに。
 それだけで――この熱はやさしくとけていく気がするから。
「……ことわる」
 やわらかなくちびるがひらく。
「と、……唐沢は、どこかへ行ってしまうの」
「……いいや。きみが望まないなら、どこにも行かない。約束するよ。あっちへ行けって言われても、きみが呼んだら世界の裏側からだって駆けつける」
「また、ドラマみたいなことを言う」
「性分なんだ。嫌なら改めるけど」
「いいよ、もう」
 ぱちぱちとまばたきが繰り返され、次第にその瞳が潤んでいく。凍てつく寒さも気にならないくらい、頭のてっぺんから指先まですべてが熱い。
「……唐沢はわたしのために転職するの?」
 静かな視線が頬を撫でた。波のようにさざめきながらも思慮深く澄んだ瞳は何かを確かめようとしている。
「それが、そういうわけじゃない。転職の話が先に出て、だったら、と考えた結果だ。実のところもう新しい仕事も初めていて、拠点の必要性を感じていた。だから言い方は悪いが、ちょうどいいと思ったから提案したというのが本音。……怒っていいよ」
 正直に答えれば、なまえは「それなら、いいの」とくちびるをゆるめた。きみのためだと言っていれば、きっと彼女は顔を歪めただろう。選択するにあたりなまえの存在が背を押したことは嘘ではないが、彼女はなまえの人生のすべてではない。唐沢となまえは、正しくひとりとひとりだ。自分の人生は自分で背負っていける――それでも、ふたりでいたかった。
「……返事は?」
 掠れた声で訊ねた。空気が揺れる。花の蕾がほころぶ。星が瞬くように、なまえが笑みを浮かべる。
「断る理由がないとわかってるでしょう」
「……まあね」
 そっと手が伸ばされる。薄紅色の指先が握手を求めていた。抱きしめるでもくちづけでもないところが、やっぱり彼女らしい。幼馴染みは、きっと唐沢とそっくり同じ熱は持っていないけれど――互いが特別であることに、疑いはなかった。
 手のひらを重ねる。あの寒々とした校舎で唐沢を立ち上がらせた手よりも嫋やかで、ほっそりとしている。けれど、そのあたたかさは変わらない。何が変わろうとも、それだけは。
「よろしくお願いします」
 抑揚の薄い声は軽やかに告げた。はにかむようにくちびるをゆるめ、瞳は星屑を散らしたように輝いている。よろしく、と短く返した。

 風邪を引く前に車へと戻り、夜の海岸線を走らせる。カーラジオから流れるノイズ混じりの音楽に耳を傾けるだけで、さほど会話はなかった。一世一代の告白をしたというのに、緊張さえも滲むようにとけていく。こうすることが当たり前だったみたいに。
「……こんなに楽しみな春ははじめて」
 過ぎ去っていく海と星を見つめながらなまえが囁いた。エンジン音にかき消されてしまいそうな、本当にかすかな声だ。素直に頷くには羞恥が勝る。応える代わりにアクセルを緩め、少しでも長くこの時間が続くよう願った。


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