砕けて熔けた硝子

 そんな春が訪れたなら、よかったのに。



《――三門市の上空に出現した黒い穴のようなものから現れた未確認生物は、周辺地域を破壊し、さらに市街地へと進行しています。緊急対策本部ではさらなる戦力の投入が決定しました。また、現場の指揮官によりますと、都市の壊滅は時間の問題であるとのことです。周辺地域のみなさんは、警察、消防、自衛隊の指示に従って、速やかに避難してください。繰り返します。周辺地域のみなさんは、速やかに避難してください――》



 鳴り響くコール音が途切れることはない。ただ一言、その静かな声が聴けたならそれだけでよかったのに――鼓膜を震わせるのは機械的なアナウンスだけだった。
「三門市まで」
 足早に空港を駆け抜け、停車していたタクシーに滑り込むなり告げる。初老のドライバーはぎょっとした顔で振り向き、唐沢の表情を見てさらに驚いたように眉を上げた。滴る汗を拭うこともできず「はやく」と衝動のまま唇を動かす。
「でも三門市ってあんた、今は……」
「どうか」
 財布にあっただけの紙幣を押し付けるように渡し、ドライバーを見つめる。乱れた前髪が視界に被って鬱陶しい。苦虫を噛んだように顔を歪めたドライバーが「近くまでですよ」と呟いてハンドルを握った。
「まだあの化け物どもがうろついてるかもわからねえんで」
「それで構いません、ありがとうございます、本当に」
 小さな車体は跳ぶように道路へ出た。慣性が働いてバランスを崩し、強かに肩を打ち付ける。痛みはなかった。そんなものを感じている時間さえ惜しい。携帯端末の短縮ダイヤルを押す。スピーカーを耳に当てれば聞き飽きたコール音が鳴る。一回、二回、三回……繋がることはなかった。業務用の端末が鳴り、舌打ちしながら出る。
「――何か情報は」
『ミスター、どうか落ち着いて』
 冷静な低い声が神経を逆撫でる。嚙みつこうとする自分を押しとどめて「すまない」と囁いた。息を吸い、吐く。己を俯瞰するように心から距離をおけば、平静を取り戻すことは容易かった。器用だなと自嘲することすらできる。
「状況はわかるか」
『はい。未確認生物は沈黙。例の――〝ボーダー〟が殲滅したようです。現在は、自衛隊と消防、民間組織が救助作業を始めています』
「被害は」
『支部は無事です。連絡のとれない構成員は何人か』
「三門の、被害は」
『……引き続き調査します』
 聞き終わらないうちから通話を切る。彼女へかけた電話は、やはり留守電に切り替わっていた。窓の向こうで流れていく空は夕日に染まり、不気味なほどに赤い。微粒子による光の散乱。彼女の声を思い出す。空に赤が生まれる仕組みは理解しているのに、掻き毟りたくなるような胸騒ぎを抑えるすべはなかった。

 高速道路からでも街が甚大な被害を受けていることは窺えた。タクシードライバーは三門市立総合病院まで唐沢を運び「お気をつけて」と余分な紙幣を返して去っていく。
 夜は更けていたが、病院のロビーは開いていた。大人から子どもまで身を寄せ合ったかたまりが、待合のベンチを埋めている。非常灯の頼りない光がリノリウムに反射し、唐沢が歩くたびゆらゆらと揺れる不安定な影を生み出した。受付にいた看護師が唐沢に気付き「どうかされましたか」と潜めた声で話しかける。
「ここに来た人のリストはありますか。人を、探しているんです」
 看護師は一瞬、悼ましげに目を伏せたものの、すぐに「お名前をお伺いしてもよろしいですか」と真摯に問いかけた。唐沢は幼馴染みの名前を告げ、看護師が戻るのを待つ。携帯端末には彼女からの折り返しも、メールの返事も、なかった。
 新しく用意したばかりの端末を立ち上げる。未確認生物。黒い穴。ボーダー。深々とした傷跡の残る、鋭利で冷淡な視線の男。正義の味方。戦争。頭の中でぐるりと混ぜ合わされたそれらを、正しく認識することができない。
 こんなはずではなかった。
 こんなはずでは、なかったのだ。春になったら。春になればここで。きみと、ふたりで。たのしみだと言っていたのに。きみは、わらっていたのに――なぜ。
「こちらにはいらしていませんでした」
 看護師の声にはっと顔をあげる。そうですか、声が他人事のように響いた。
「南部の避難所には、各所のリストが集積されているようです」
 付け足された言葉に短く感謝を伝え、踵を返す。
 おかあさん。まだ幼い子どもの声がロビーに響き、すすり泣く音が重なった。
 終電の時間はとっくに過ぎている。そうでなくとも交通機関が動いていることは期待できないだろう。歩くか、と踏み出した足音に電子音が重なる――着信だった。三つ目の端末。組織でも私用でもない、新しい職場のために用意したもの。
「……唐沢です」
『仕事を頼みたい』
 電波を介して届く声は疲弊していた。その背後でガラスの割れる音や、重機の稼働音が響く。端末を耳にあてながら空を見上げたのは何故だろう。澄んだ夜空に月があった。東の方角が明るいのは、夜明けではなく蹂躙された街から市民を救出するためのサーチライトの輝きだ。煌々としたその光のもとに、この男はいる。
「何を」
『瓦礫をどかす手が足りない――動かせるだろう』
 低い声はどこまでも身勝手なのに、疑いようもない信頼を孕んでいた。本当に、なんて勝手な男だ。最後の一滴に至るまで冷たい血が流れているに違いない。胸の奥で悪態を吐いてみても、男の鋼めいた意志は揺るぎなく、その重みが変わることもない。
 電波の向こうの男は、唐沢が今どんな状況にいるのか確かめもせず、事情を慮ることもなく――けれど、唐沢が今できる最適解を示してみせた。冷静な思考であれば辿り着いて然るべき、自分にしかできないことを。そういう男だからこそ、唐沢は彼が統括する組織に加入することを了承したのだ。
「……すぐに」
 通話を切る。端末を持ち替えて、直近の支部へ連絡を入れる。慰撫するような静かな夜には人も車もない。数コールもしないうちに繋がった相手へ、端的に告げる。
「車を一台回してくれ。東京へ戻る」
 口の中に広がる血の味を噛みしめる。痛みだけが、理性を繋ぎとめてくれる。
 未確認の化け物に蹂躙された三門市へ向け、救援部隊と物資が予測を大幅に上回り派遣されると決定したのは、夜が明けるころだった。

 ▽△

 家族水入らずで旅行でもいってきたらどうだい。いや、実は仕事でクルーズの招待券をもらってね、でも引き継ぎだ何だと暇がなくて。とか、なんとか。
 三門を襲うとされる脅威について耳にしたとき、唐沢がまずはじめに考えたのはなまえの安全の確保だった。彼女には洗いざらい全てを話す手もあったが、秘密は誰を守るためにあるのか考えれば口は噤むしかない。聡明な視線が真意を図るように頰を撫でたときも、唐沢は無言を貫き、彼女は何事か感じとったのか素直に頷いた。ちょうど、代休や有給休暇がたまっていたのだと。帰ってきたら一緒に家を探そうと、あの静かな声で微笑んで。
 それが、ほんの些細な偶然で綻び――あの日、なまえはまだ三門にいた。彼女の両親が涙にくれながら『なまえがまだ三門にいるの』と連絡してきた瞬間、真っ白になった頭はまだ痺れを残している。
 彼女の両親は今も船上にいる。次の寄港地から飛行機に乗ると言っていたが、あらかたの生存者が救助されても三門に帰ってくることは叶わなかった。ある意味ではそれでよかったのかもしれないし、更なる苦痛を生み出しているのかもしれない。
 革靴でブルーシートを踏むと、くしゃりと間抜けな音がする。
 己の役割を全うし、三門に戻った唐沢を出迎えたのは、体育館に並べられた真新しい棺と遺留品だった。霊安室はとっくに埋まっている。
 なまえの所在は掴めなかった。連絡もとれない。通話はもはや留守電に切り替わることもなく、電波の入らないところにいるか電源が切れていると機械的な音声が告げるだけだ。
 発表された死亡者のリストに彼女の名前はなかったが、一縷の望みにかけることは状況が許さない。
 集められた棺はすべて身元不明のものだった。唐沢は一つひとつ棺の窓を開き確認しながら歩く。小学校のバスケットゴールはこんなに低い位置にあったかと、ときどき余計なことを考えた。そうでもしなければ立ち止まってしまいそうだった。
 体育館の隅では、警察署から派遣されたらしい似顔絵描きが、何枚も何枚も死者の顔を写している。棺を開いて歩く唐沢の背中を、様々な人々が遠巻きに眺めていた。
 ――なまえの姿は、どこにもない。
 胸に落ちたのが安堵なのか悲鳴なのかわからなかった。痺れた頭は幸か不幸か冷静さを保ち、心よりも早く答えを見つけている。あるいはもう、心なんて砕けてしまったのかもしれない。理性だけが唐沢を動かす。信じたいのに、信じることができない。
 棺の合間を抜けていき、体育館の端へ辿り着く。分類のできなかった発見物が地域ごとに並べられていた。疲労も、空腹も、睡魔も感じていなかった。ただ少しだけ霞んだ視界でそれらを眺め――視線が止まる。
「あ……」
 滑り落ちた声がその先を見失って消えた。ブルーシート、雨と泥と血にまみれた物たち。服や靴、鞄、傘。それから。黄色いカゴに入れられたアクセサリーや本にまぎれて。
 切符があった。
 ぱちり、と使用済みの印が刻まれた、小さなちいさな紙片。
 弓手町駅から矢番海岸駅までの、十四年前の二月十四日の、切符。
 くしゃりと皺が寄り、薄紅うすあかく汚れたそれが――何を意味するかなんてわかっている。
 涙は零れなかった。
 熔けそうなほど熱い瞳でも、それを見ることはできた。伸ばした指先が震えている。指のはらに、ざらりとした紙が触れる。ちっぽけなそれを拾い上げる。
 どうしてか、唐沢はわらった。自分がわらっていることも、気付きはしなかったけれど。

 ――きみと、俺以外に。
 だれが、こんなものを、だいじに持っているとおもうんだよ。

 心臓を穿つような痛みだけが、唐沢をその場に立たせる。
 堰を切ったような慟哭も、理不尽な暴力への怒りもそこに現れることはなかった。彼女の声と同じように。そのかすかな瞬きが、決して誰かを傷つけることがなかったように。唐沢はただ静かに、どこへも行けない小さな切符を丁寧に仕舞って、かつての校舎を後にした。

 ▽△

 荒涼とした風が頰を嬲る。瓦礫の合間を、夜に生きる野ネズミが這い回っていた。じゃりじゃりと靴底から響く音に、男が振り返る。否、唐沢が近付く前から、気配を察していたのだろう。男の背後には一刀のもとに切り伏せられた白い化け物が転がっていた。
「感謝する」
 男は、視線を合わせるなりそう告げた。
「迅速な政府との交渉。私では成し得なかった」
 月は雲に隠れ、街灯は無残に折れ、ただ男が持つ剣だけが煌々とあたりを照らしている。鋭い眼光は前髪にばらばらと遮られ、記憶にあるよりも男が纏う空気を和らげていた。
 トリガー、弧月、トリオン、近界民、あちらの世界、こちらの世界、侵略、侵攻、掠奪、蹂躙――戦争。巡る言葉を噛み砕き、腑に落とし込める。
「仕事は全うする主義でして。どうやら、期待には応えられたようですね――城戸さん」
 司令、とお呼びした方がいいですか。自分の唇から生み出される言葉と声が穏やかなことに、かけらほど残った感情が僅かに揺れた。城戸は光り輝く剣を鞘に収める。ふっ、と暗がりが戻った。
「これからだ」
 瓦礫を踏みしめながら、城戸が言う。唐沢を組織から見つけ出し、自分の組織に加入して欲しいと言い放った、鋭利と冷淡を描いたような男の顔で。
「唐沢くんにも、力になってもらう」
「……ええ、そういう約束ですから」
 城戸の視線の先には空がある。何を見ようとしているのか、唐沢は知らない。けれど雲に覆われた天球に星はなく――もしも、星が、きれいに見えたなら。
 そうしたら、唐沢は。彼女のために泣くことだってできたのかもしれない。
「あなたは」
 くらやみを見つめたまま囁く。
「あなたたちだけは――どんな手を使ってもヒーローにしますよ」
 男は、何も言わなかった。
 唐沢は、これは根付さんの方が言いそうなことだなとか、そんなどうしようもなく益体のないことを考えて――ふと、ジャケットの内側に入れた煙草のことを思い出した。意識せずとも動く手が紙箱から一本を取り出し、唇へ咥えさせる。ライターの炎は、瓦礫を照らすにはあまりに儚く、煙草に火を移してすぐに役目を終える。
 息を吸って、吐く。ただ呼吸するためだけにそうした。味はしなかった。
 甘過ぎたブラウニーも、キャラメルカフェオレも、パステルブルーの飴玉も――星の瞬きも。何もかもが、はるか彼方にあった。


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