銀河と終点

 青い空に紫煙をくゆらせ、煙を吐き出すように溜息をついた。白い入道雲は目に痛いほど眩しく、小さな日陰に涼は薄い。じわりとした汗が浮かんでは肌を伝う。シャツを摘んでばたばたと風を送ったが、生温い感覚があるだけだった。ペットボトルに入った水をこくりと流し込み、渇いた喉を慰める。午前でこうなのだから、正午を迎えてからはまさに地獄のような暑さとなるだろう。
 界境防衛機関ボーダーの本部基地、その屋上。柵もフェンスもない広々とした空の下には無人の街があり、その向こうにまだ営みを続ける街があった。傍目にもその区別ははっきりとしている。侵攻の爪痕を差し引いても、人が住まないだけで街はこうも荒れていくのだ。
 第一次近界民侵攻と呼ばれるあの日から、二度目の夏を迎えていた。みょうじなまえは、先週、死んだ。認定死亡の届けは、申請からそう日を跨がず受理された。遺体は見つからないままだが、葬儀も済んでいる。
『娘はそれを望むでしょうから』と、彼女に似た静かな微笑は紡いだ。一年のうちに整理はつけた、とも語っていた。なまえの両親がそれを選んだのは、唐沢のためでもあったのかもしれない。共に暮らすことを真面目な彼女はきちんと報告していたようだから。
 唐沢は彼女の友人を代表して弔辞を任され、十九年に及んだ付き合いと彼女の人柄を淡々と語り、最後には『なまえさんは残された人間が前を向いて歩くことを望むでしょう』と結んだ。涙を流さなかった唐沢に参列者は『ボーダーの人間は血も涙もない』と言い捨て、幼馴染みの両親は参列者を咎めてくれたものの、心は大して動かなかった。自分が冷徹な人間であることはもう知っている。
 黒い額縁のなかで、なまえだけは静かに笑んでいた。棺には彼女が気に入っていた本と書きかけの論文の写し、淡い水色のマーメイドドレスと花束を納め、すべて灰に還した。
 空の棺で行う葬式は、空葬いと言うらしい。あくまでも仮の葬式とされるが、どんなかたちであれなまえが帰ってこないことを理解していた。いや、理解せざるを得なかった。唐沢はいつまでも夢を見ていられるほど子どもではなかったから。
 ――平和なものだ。
 戦場に似つかわしくない言葉も、煙に覆われてしまえば輪郭を保てない。今もまだ脅威に晒される街は、戦場を内包し日常へ回帰することを選んだ。警報音も巨大な基地も近界民の侵攻さえも、日常の一部へと変じていく。世界はあんがい頑丈で、そうそう壊れることはないのだ。彼女がいた春はあんなにも呆気なく終わってしまったのに。
 唐沢は、この街の歯車の一つとして問題なく回っている。怒りも恨みもない。あれが戦争だったことを理解している。薄汚れた手は、それがどういうものなのかを知っている。近界民とトリオン兵への苛烈な感情もなかった。彼女を救わなかった組織にも。そうする意味がない、と冷静な思考は断じている。
 なまえは――唐沢の世界のすべてではなかったから。
 だから、痺れそうな青い感情と距離を置き、理性に身体を支えられ、自分を俯瞰するように課せられた役割を全うできる。生来、器用な人間なのだ。
 煙混じりの呼吸を止めたのは彼女の声ではなく、仕事用端末の着信音だ。右手で煙草を支えたまま、ちらりと画面を確認する。大口スポンサーの一つの医療機器メーカー。瞬時に思考が切り替わり、感傷は遠く霞んでいく。
「はい、唐沢です。……ええ、いつもお世話になっております――」
 淀みなく紡がれる自分の声を、意識の外で聞いている。どんな状況でも仕事は楽しめるのだからこれは唐沢の天職だ。組織を移ってもやることは変わらない。街を守るヒーローという大義と正当性を付与されてやりやすくなった部分もあれば、それに縛られてできなくなったこともある。悪の組織から正義の味方へ、変化はただそれだけだった。これは一種の現実逃避かもしれないが、役に立つ限り世界はそれを許すだろう。
 通話を終えるころには煙草はすっかり短くなっていた。辛うじて残っていた灰ごと、慎重に携帯灰皿へ落とす。かちりと蓋を閉めれば、底で燻る火もやがて消え失せる。それが真実であることを唐沢は確かに知っていたけれど――自分で新しい火を点けていてはどうしようもない。いつの間にか唇は新たな一本を咥えていた。
『えらい人になったみたい』
 煙草の先にライターの火を近付けるたび、蘇る声がある。まるでマッチ売りの少女だな、と苦く笑みを零した。

「流石に吸いすぎじゃないですか?」
 纏わりつく暑気を払うような涼やかな声が頭上から響いたのは、四本目の煙草が息絶える寸前だった。はっと顔をあげれば、そこにはまばゆい青がある。とっ、と青色が軽やかに降りてくる。その気配をかけらも察せられなかったことに気付き、しばし愕然とした。一陣の風が吹き抜けて、わずかに滞っていた紫煙を攫う。
「……驚いた。いつからいたんだい、迅くん」
 灰皿に押し付けるように火を消してから答える。先の春に高校生となった十六歳は、青い瞳を細めてへらりとした笑みをつくった。
「ついさっき。五本目を止めようかと思いまして」
 すぐに嘘と知れる言葉を紡ぎながら、迅は唐沢の隣に並ぶように日陰に入る。いちだん暗い世界の中でも瞳には一切の曇りがない。聡明な光を湛える眼差しに、少しだけ弱かった。幼馴染みを思い出すには十分な要素だから。
「休憩を邪魔してしまったのかな。悪いね、煙たかっただろう」
「いえいえ、お気になさらず」
 彼が唐沢に敬語を使うようになったのは、瓦礫の合間で些細な言葉を交わした日からだ。あるいはあの日が特別だったのかもしれない。ささくれ立った少年らしい棘を見たのはあの日だけだった。
「喫煙室では吸わないんですか?」
「ちょっとした気分転換にね。迅くんこそ、どうしてここに?」
「おんなじような理由です。トリオン体なら暑さもそう感じないし」
「なるほどね」
 口寂しさを誤魔化すように微笑んだ。滲んだ汗が顎先からぽたりと落ちて、シャツに水玉模様をつくる。生身である唐沢は熱中症になる前に引き上げるべきなのだろうが、隣に佇む青年の存在がこの場に留めさせた。彼が何の用件もなく姿を現したとは思っていない。視線で促すと、聡い青年はそれを正確に汲み取る。
「今日の商談、気をつけた方がいいです。具体的にどう、までは視えないんですけど」
 ぽつり、と落ちた声は唐沢を案じていた。大人びた所作と達観した視座に、十六歳の善良さ。危うさを感じる絶妙なバランスで、彼はこの街に立っている。彼にとっては唐沢も駒の一つであり、逆もまた然りだ。それでも、根本的にいい子なのだろうと笑みが落ちる。
「それだけのために?」
「……余計なお世話でしたか」
「いや、疑念が確信に変わってくれるのは有難い。ありがとう、気をつけるよ」
 迅が懸念するに相応しく、今日の商談相手は一筋縄でいく相手ではなかった。
 界境防衛機関ボーダーが所持する未知の技術『トリガー』は、可能性と利益の塊だ。それを餌に金を引き出すのは容易いが、集まる人間が善人ばかりなら世界は動かない。その手の危険は承知の上だった。城戸が唐沢を選んだのはそういう部分も評価してのことだろう。
「さて、それじゃあ俺は行くとするかな。迅くんは……」
「防衛任務に出るならここから降りた方が早そうだと思いません?」
「可能ならね。気をつけて」
 肩を竦めつつ応えた。小さな日陰から出て、夏の太陽に熱されたドアノブを握る。きぃ、と蝶番の軋む音を奏でながら扉を開いた。その敷居を跨ぐだけで幾分か涼しい。外回りに出る前に汗を拭ってシャツを変えて、煙草の匂いも消さねばならない。素早く段取りを組み立てる。
「唐沢さん」
 階段をいちだん降りたところで声が響いた。開いたままの扉から、迅が見下ろしている。逆光のせいか表情は掴めないが、その瞳が唐沢を捉えていることはわかった。まばゆい青が風にふくらんでは靡き、数秒の沈黙を補う。
「……ボーダーを辞めようと思ったことはありますか」
 未来視という稀有な能力を備える迅ならば、問わずとも知れたのではないか。そう考えてから、いや、と否定を重ねた。こうして問いかけることこそ分水嶺だったのだろう。唐沢は真っ直ぐと放たれる問いにも弱い。
「――ないよ。俺の役目はここにある」
 そう言い切れたことに。ほんの少しだけ、薄青い空白があった。
「……役目がなければ辞めてた?」
「……いいや。すまない、ちょっと格好をつけた。面白いことは無視できないたちなんだ」
 面白い、と青年が言葉をなぞる。咎めるような声ではなかったから、彼も間違いなくそうなのだろう。千二百人が死んだ街で、戦場を内包する日常で、それがあまり褒められた感覚でなくとも。使命だけで動けるほどできた人間でもない。
「それと、実はね、俺は昔からヒーローに憧れていたから」
 自分でもそれが嘘か本当かわからなかった。けれど、正義の味方もいいだろうと言った唐沢をやわらかに肯定したなまえを覚えているから、そういうことにしてもいいかと思う。
 唐沢の答えに青年の表情が揺れた。
 笑ったのか、歪めたのか。判別はつかない。吐息が零れ、空気がわずかに震える。最後にひとつだけ、と声が重なった。

 ▽△

 迷ったら左に行くといいですよ。
 脳裏に描いた青年の声と波の音が重なる。真夜中の矢番海岸は夏といえど無人だった。砂浜にまで降りると積み上げられた砂山や花火の跡が残っていたが、それだけだ。しゃくしゃく砂を踏む音と、潮騒ばかりが鼓膜を震わせる。
 ひとりで、この海辺に来たのは初めてだった。ここを訪れるとき、唐沢の隣には必ずなまえがいた。十四歳のあの日から、彼女に情けない告白をしたあの夜から、何度も足を運んだというのに。なまえがいなければ、こんなところに来る理由などなかったから。
 心身を削るような商談の帰路、案内標識に書かれた『矢番海岸』という文字を見かけてぐらりと感情が揺らいだ。青年の言葉を思い出したのは偶然で、それがなければ訪れることはなかっただろう。運命のような偶然も、青年に言わせれば唐沢の選択なのだろうけれど。
『上を』
 いつかの声が蘇る。その静かな声に従って天を見上げれば、ちらちらと星が瞬いていた。視界に映る星が少ないように思えたのは、月明かりのせいか、疲労のせいか――きみがいないからか。答えはそのどれでもなく、まだ目が暗がりに慣れていないせいだ。しばらくぼんやりと夜空を見つめていると、やがて芥子粒のような星屑たちも判別できるようになった。天の川らしき星の集いが見え、光帯の輪郭をつかめばその岸辺にベガとアルタイルがある。
『二つ星と称されるけれど、ベガとアルタイルの距離は約十五光年、光のはやさで十五年かかる。地球よりは少し近いけれどね』
 そんな会話をしたのは数年前の七夕だった。なまえはかつてと同じように星々の物語を紐解き、そこに講義を挟んだ。隣り合っているように見える二つの星が、本当に隣接していることは殆どないのだと。オリオン座の三つ星もそうかと訊いた唐沢に、よく覚えていました、と微笑んだなまえを覚えている。
 無意識のうちに煙草へ手を伸ばしていたことに一本取り出してから気付いた。まあいいかと咥えて、ライターの火を灯す。夜を照らすにはか弱過ぎる光が手元でちらちらと揺れる。潮風のせいで点けにくい。ようやく生まれた煙を吸い、吐き出す。もう味もしないのになぜ吸うのか、となまえは問うだろう。その答えを伝えるすべはない。
 なまえがいなくても生きていけると、ずっと前から思っていた。幼馴染みは間違えようもなく特別だったけれど、家族でも恋人でも運命共同体でもなく、世界のすべてではなかったから。互いにひとりでも過不足なく生きていけるのだと信じていたのだ。でも。
 ――ほんとうにきみがいなくても生きていけるなんて、知りたくなかったよ。
 波音にまぎれるような声が煙とともに吐き出される。
 唐沢は、生きている。なまえがいなくても。紫煙に頼った呼吸を繰り返し、変わらず動く心臓の拍動を聞いている。笑っていられるし、悲しみや怒りに理性が侵されることもない。それがこの状況において歓迎されるべき強さであることはわかっていても、すこしだけ持て余していて――さみしいのだと言ったら。彼女は笑うだろうか。笑ってくれるのなら、いくらだって無様な姿を晒すのに。
『……ごめん』
 波間に少年の声が響く。瓦礫に埋もれるような一言が忘れられない。守れなくてごめん。間に合わなくてごめん。選ばなくてごめん。いくつもの生命を背負おうとした小さな背中へ唐沢は『いいんだ』と答えた。
 もしも彼らがなまえを救けていたら。もしもトリオン兵があの位置に出現しなければ。もしもなまえが予定通りクルーズに出かけていたら。もしも唐沢が別の手段を選んでいたら。一緒に暮らそうなんて言わなければ。隣にいることを諦めていれば。出会わなければ。なまえは今も生きていたのかもしれない。幾つものもしもを考えても、ここにあるのはただ一つの選択と結末だけで、それは少なくとも彼だけが負うべき傷ではなかった。
「……誰のせいでもないよ、とか……言うんだろうな」
 ツンと鼻の奥が痺れる。泣くのか。己の胸に問いかけたけれど、瞳に熱は集っても雫が落ちることはない。彼女を失った夜も、別れを告げた葬式でも涙は流さなかった。それでいいのだ。行き場のなくなったかたちのない熱を、かけらほども手放してやるものか。
 ――わたしが船に乗らなかった。それだけのことだもの。
 彼女が言いそうなことを思い描いて、ふっと笑みが落ちる。渡し船には乗ったけれど、とか。そういう全く笑えないような冗談を付け足して笑うだろう。言われる方だって困るだろうに、不器用だから。それでも誠実だから。誰のせいにもしないのだ。
「でも、ここは俺に花を持たせてくれ」
 みょうじなまえの死は、唐沢だけが負う疵だ。
 そうであればいい。これは責任でも自傷でもなく、傲慢な独占欲だろう。彼女を、誰とも分かち合いたくはない。彼女の疵になることもなかった熱は、それでも自分と彼女だけの繋がりを求めている。その生死はこの熱を失う理由にはなれない。
 しばらく波の音を聴いていた。ときどき通り過ぎていく車のヘッドライトが海岸線を照らして、その度に眩んだ目で星を探した。本当に見たいものはもうどこにもないのに。天球に数え切れないほどの星が輝き、銀河には光の帯に見えるほど星が集おうとも。天のはてで瞬く六等星だけは、この世界から欠けてしまった。
 けれど――たとえ天になくとも、このちっぽけな身体には残っている。
 思考の海に潜る彼女。その横顔。目元にかかる睫毛の影。静かな笑み。世界の片隅で瞬いた光。くらやみを越えていくための、ささやかな特別。淡く色づいたくちびるがゆっくりと開いて、静かな声で言葉を紡ぐ。

 ――からさわ。

 彼女に呼ばれる自分の名前が好きだった。距離を開けた中学生を境に『克己くん』と呼ばれることはなくなったけれど、いつかもう一度、名前で呼んでくれる日を待っていた。
 家族でも、恋人でも、伴侶でも、運命共同体でもなくとも、隣にいたかった。
 ふたりでならどこへだっていけると、信じていたかった。
「……子どもの夢より無茶だったな」
 ざあざあと波が鳴る。生温い潮風が頬を撫で、流された煙が瞳を覆う。少しだけ視界が滲んだのはそのせいだ。泣かない、泣けない、泣きたくない。涙を流さないことで彼女の喪失が軽んじられたとしても。
 だって――きみはそれを望んでいるだろう。
 なまえは、自分のことは瓦礫と過去に置き去りにしていいと思っている。
 悲しませたくない、誰かを憎む理由にはなりたくないと願っている。
 残された人間が前を向いて歩いていくことを祈っている。
 最期に立ち会わなくても、遺書も伝言もなくても、わかる。誰よりも、痛いほどに。唐沢はなまえの幼馴染みだから。
「……きみの願いは何だって叶えてやりたいが、難しいこともある」
 誰へともなく呟いた。
 彼女が誰のせいでもないと言うならそういうことにしておくし、唐沢は敵も味方も自分も憎まない。彼女が好きだと言った唐沢らしく生きていくことも一生かけてやり遂げる。
 それでも――きみを置き去りにはできない。
 疵を抱えて生きていきたい。
 きみがそれを望まなくても、俺の我儘として。

 ――――いいよ。

 それはいつかの記憶の再生だ。星と波の囀りだ。けれど、なまえは、唐沢が本心から紡いだ言葉だけは否定しないと知っているから。
 ありがとう、と囁く。短くなった煙草を携帯灰皿へ押し込めて、息を吸って吐く。煙の混じらない呼吸を熟す。それから、しゃくしゃくと砂辺を歩いて車に戻った。
 あの星がどこにもなくても、くらやみを照らし夜を越えていくための光は、唐沢のなかにある。ふたりではもうどこへも行けなくても、唐沢には行くべきところとやるべきことがある。潮風が背を押していた。それがあたたかいのは夏という季節のせいで――そうわかっているのに、心臓が痺れるように痛んだ。


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