はての告白

 雨粒がアスファルトに打ちつけられてばちばちと砕ける。雷鳴が灰色の空を裂く。側溝に桜の花弁が溜まっていた。ぴゅうぴゅうと吹く風は冷たく、否応もなく体温を奪っていく。歩むたびに革靴のなかでぐちりと音が鳴り、水気を含んだジャケットは嘘みたいに重い。肌に纏わりつく布地の鬱陶しさについ舌打ちが零れる。そうしたところで状況が好転するわけもないのに。
 白く烟る視界でも、自分がどこにいるのかはわかっていた。どこへ向かおうとしているのかも。わずかに残った良心は引き返せと囁くが、心臓を穿つような熱が疲労に覆われた身体を動かす――どうしようもなく、彼女に会いたかった。

 スーツから滴り落ちる雨が足元に小さな水たまりをつくっている。振り返るとアパートの廊下には唐沢が歩いた跡がくっきりと残っていた。小さく溜息を吐けば、無理を強いた身体のあちこちからぎしぎしと悲鳴があがる。
 ようやく辿り着いた部屋の前で、けれど、インターフォンにかけた指は動かない。指先に力が入らないのは濡れてかじかむせいではなく、ちっぽけな自尊心のためだろう。
 なまえの部屋を訪れるのは三年振りだった。仕事が忙しかったことも嘘ではないが、それだけが理由ではない。正しい距離。疵をつけないための距離を保つ。そのために唐沢はなまえと顔を合わせるのを避けてきた。電話越しの声を聞いたのは一年前が最後で、その後は着信が入っていてもメールだけを返した。ごめん、忙しいんだ、元気にしてる、大丈夫だ。文字でならそんな言葉も容易く吐き出せたから。そのくせ、なまえから送られてくるメールを何度も読み返しては、変わりない様子に安堵した。
 別離の時間を思えば思うほど、どんな顔でなまえに会えばいいのかわからなくなる。約束なんて当然していない。なまえが家にいるかもわからないし、引っ越しているかもしれない。博士課程へ進んだ幼馴染みは限られた時間のなかで自他の研究に追われているはずで、その邪魔をすべきでもない。気の利いた土産ひとつ持っていないどころか、今の自分は迷惑のかたまりだ。脳裏を巡る言葉のすべては、唐沢が今ここにいることを否定する。
 あるいは、なまえのためではなく。こんな自分を見られたくないだけかもしれない。ひとつ自覚すると、それを無視することは難しかった。
 インターフォンから指を離す。濡れたジャケットの内側に入れた財布のことを考えた。その中身。整理するたび取り出すくせに、結局は捨てることのできなかった切符。ふたりで海へ行った記憶のかけら。不意に視界に入れてしまったそれが、唐沢をここへ導いた。彼女に会いたいという衝動を目覚めさせてしまった。
 けれどその衝動は、熱なのだ。かたちのない、暴力と呼ぶべきもの。なまえに疵をつけようとする感情。どれだけ仕事に打ち込んでも、恋人をつくっても、逃れられるのはほんの一時だった。花のほころぶような笑みは楔となって熱を鎮めてくれたけれど、あの笑みが心に残る限り熱も消えることはない。
 ――引き返そう。
 ようやく冷えた理性が告げる。
 雨は幾分か弱まり、視界は明瞭になっていた。ここからまた駅へ戻り、さらに拠点へ向かうのは骨が折れるが、そんな苦労は唐沢だけのものだ。
 ここで立ち去れば、この熱で彼女を焦がすこともない。正しい距離を、これからも保っていられる。誰にも迷惑をかけずに済む。まあ、足元の水たまりだけは乾くのを待つしかないけれど。唇を引きつらせるようにして笑みを浮かべる。
 一歩踏み出そうとしたその瞬間――ぎい、と扉が開いた。
 ばちりと目が合う。
 幼馴染みの、見慣れた静かな表情が、驚きに崩れていく。
「……やあ。悪い、出かけるところだったか。でもやめたほうがいい、こんな日に出かけるのはね」
 唇から滑り落ちていった言葉を、なまえは受け取り損ねたようだった。数秒にわたる沈黙を裂いたのはトラックが水たまりを撥ねる音だ。はくり、と呼吸を飲み込んだ彼女が、ぎゅっと眉間に皺を寄せて部屋に引き返す。
 ばたん、と扉が閉まり、再び開くまで三秒もなかった。唐沢がここを去る決断を下すにはあまりにも短い時間だ。口だけは回ったけれど、頭が追いつくにはまだ少し足りない。
「お風呂までこれでしのいで」
 押しつけるように渡されたバスタオルに水気が移っていく。三枚もあった。呆然と腕に抱えたそれを見下ろしていると、なまえの手が――薄紅色の指先が、ずぶ濡れの手をとる。振り払うことはかんたんなのに、唐沢は手を引かれるまま玄関に足を踏み入れた。水滴がぱたぱたとパンプスに降りそそぐ。なまえは、どこかへ出掛けるところだったのだろう。控えめな化粧に光沢感のあるブルーグレイのワンピース、ハーフアップにした髪はあのバレッタで留めている。
 かちゃりと内鍵を回したなまえが、何か言いたげに唐沢を見上げていた。星屑を湛えた瞳は潤んでいる。少し痩せたな、とぼんやりと眺めた。結局、なまえは何も言わずに背を向けて、洗面所へと入った。シャワーの水音がしたかと思えば、それからすぐにお湯を溜める音が響く。
 ようやく状況を理解した唐沢は、濡れ鼠のまま小さく笑った。掠れた声が呼吸とともに吐き出されていく。運命みたいな偶然は心臓に悪くて、胸も瞳も熱くて痛いから厄介だった。


 途方もなく巨大なとある組織の金集め。唐沢の仕事を言葉にするとそういうことになる。
 やることは単純で、誰かの役には立っているのだろうがそれを実感することはない。はじめは目新しかった桁の多い小切手も、アタッシュケースに敷き詰められた札束にも、すぐに慣れる。けれど、言葉ほど退屈な仕事でもなかった。
 企業、時には国さえ相手に駆け引きを重ね、より良い条件で、より多くを引き出す。正攻法を仕掛けることもあれば、悪どく裏をかくこともあった。手段を問わない世界は責任の分だけ自由だ。培った洞察力や交渉力が活かせるだけではなく、そのプロセスを楽しめるという点において、金集めは唐沢の天職だった。順調にキャリアを伸ばし、内外から一目置かれるようになるまで時間はかからなかった。
 ――その結果が、このざまだ。
 じくじくと痛む右足首は湯船につけず、温まった指先で青黒い痕をなぞった。折れてこそいないが、ここまで歩いてこれたのが不思議なほど腫れ上がっている。栄誉の負傷、とは呼びたくないケアレスミスが招いた負債で死にかけた。悪徳を重ねた相手を油断した唐沢の失態だ。それでも五体満足で生きているのだから運がいい。報告した上役にはしばらく休んでよいと言われたが、叱責はなるべく早く受け取りたいところだ。そう――明日にでも。
 今日はもう、きっとどこにもいけないから。
 なまえの顔を見た瞬間に、やわく崩れてしまったものがある。だから会いたくなかったのに、会いに来たのは唐沢だから始末に負えない。
『会おうと思えば会えるよ』
 嘘ではなかっただけの言葉を、とうとう真実にしてしまった。襟足から滴る雫が背骨を伝い湯船へ落ちていく。彼女の部屋の浴室は、やっぱり唐沢には狭かった。

 小さな窓の向こうが仄かに明るくなる。雨は淑やかな白雨になっていた。
 覚悟して浴室を出たものの、なまえの姿はどこにもなかった。扉にぺたりと貼り付けられた付箋には『服を買いにいきます。待っててください。ベッドつかっていいから』という走り書きが残されていて、シャツも靴下も洗濯機でくるくると回っていた。無惨なほど濡れそぼったスーツは水気だけ絞られて玄関にかけてある。洗面所には辛うじて難を逃れた下着と新しいバスタオル、毛布だけが置いてあった。これで凌げということらしい。
 素肌の上から毛布を被ると、懐かしいにおいに包まれる。彼女の家のにおいだ。小学生のころに遊びにいったときの記憶がくすぐられるように蘇った。はじめてなまえと話した日から十五年も経つ。人生の半分はもう過ぎていた。
 床が抜けなくてよかったなと壁一面の本棚を眺める。室内は雑然としていた。いつも本が多いと思っていたが、あれでも片付いていたらしい。小説やエッセイのたぐいは減って、分厚い専門書や図録らしきものが増えていた。いくつも積み上がった本の塔に、広げられたままの論文。唐沢の荷物――財布に煙草、携帯端末は二つ――はローテーブルの上に並べられていて、そのために追い出されたらしいノートや文房具が床にある。複雑な数式が綴られたルーズリーフがひらりと落ちていた。この部屋を見るだけで、なまえがどれだけ忙しくしているのかわかる。
『お星様がいつ死ぬかを考える』
 いつかの声が鼓膜の奥で響く。彼女は星の死期に辿り着けたのだろうか。
 吐息を零し、ベッドにそっと腰掛けた。気はひけるが、腫れ上がった足首は立っているだけでも痛みが酷い。それに床で転がっていようものならきっとなまえに叱られるだろう。毛布とシーツのクリーニング代、いや新しく買ったほうが早いか。それならマットレスも、なんて考えた。瞼は重く、起きて彼女を待とうと思うのに閉じていく。
 疲労と痛みに身体は限界で、心はとっくの昔に明け渡している。呼吸を刻むたび満ちる眠気に抗うすべは、どこにもなかった。

 ▽△

 意識がゆっくりと浮上する。朧げな視界に入り込んだ本の山に、ほんの一呼吸だけ混乱して、すぐに思い出す。この幼馴染みの部屋は夢でも幻でもない現実だ。心臓から広がる熱がじんわりと滲みて、瞳に集う。
 穏やかな風にレースのカーテンが揺れていた。雨はあがっているらしい。薄紅と群青を分かち合う空から、夕間暮れの光が部屋のなかに差し込んでいる。そのまばゆさに身動ぐと、枕元からかしゃかしゃと音がする。正体は量販店のビニール袋で、中身は男物のスウェットだった。
 台所に続く扉は閉められていたが、耳を澄ませば物音がする。包丁とまな板がふれる軽い音、重なった陶器が奏でる音、コンロはかちかちと火を起こす。なまえがなにかつくっているのだろう。
 ぐっと腹筋に力を込めて起き上がり、ずきりとはしった痛みに眉を寄せる。右足首の打撲を忘れていた。
 涙を滲ませながら状態を確認すれば、毛布から飛び出た足首には湿布が貼られている。状況から考えて、なまえが手当してくれたに違いない。ローテーブルには鎮痛剤とバンデージが並んでいた。テーピングを試みたようだが、経験のない彼女には難しかったのだろう。無理だと判断して潔く湿布だけにしたなまえは、あまりにも唐沢の知るなまえだった。
 手早くスウェットに身を包み、自分でテーピングを仕上げる。無理をしたせいで悪化はしているものの、後遺症が残るほどの重傷ではない。鎮痛剤の封を切り、一錠を噛み砕いた。すぐに効くものでもないが、奥歯を噛んで立ち上がる。右足を庇いながら歩いて、台所との間にある扉をノックした。しん、と物音が静まり、それからドアノブが回る。
「待て、いま扉を開けるとぶつかる……」
「――からさわ」
 わずかに開いた扉の隙間から、静かな声が滑りこんだ。少しだけ震えている。なまえの声を忘れたことは一度もなかったのだと、不意に気付いた。
「……ああ、」
 答える声も震えそうになって、呼吸を呑む。その先の言葉は見失っていた。何を言うべきか、どんな顔をすればいいのか。こんなにわからないのはなまえに対してだけだ。扉があってよかったと思う。物理的に隔てられていなければ、衝動が突き動かすまま、言葉よりも早くこの腕のなかに閉じ込めていただろうから。
 沈黙は夕日に包まれ、永遠にも感じられるほど続いた。焦燥がじわりと熱を強めていく。それが破裂してしまう前に、とにかく唇を開く。
「……その……久しぶりだな」
 言うに事欠いてそれか、とは自分でも思った。謝罪と御礼が先だろう、と。けれど扉の向こうで空気が揺れ、なまえは小さく笑みを零す。
「ああ、うん、そうだね……とても、ひさしぶり」
 あんまり元気そうじゃないね、と。静かな声がやわらぐ。ご覧の通り。とけた熱が集う瞳を持て余しながらささやいた。

 なまえは何も訊かなかった。三年もまともに連絡を取らなかった友人が急に、それも雨にしとどに濡れて現れたというのに――何も訊かないことを選んでくれた。だから、唐沢も空白なんてなかったように振る舞える。
 出来上がった卵雑炊を食べながら、なまえは「もう恒星が死ぬ時期の研究はしてないんだ」と近況を話した。今は宇宙空間における衝撃波の観測について研究しているらしい。そう言われても理解は及ばないが。
「何が起こっているかわからない宇宙で、どう光るかもわからない衝撃波についての研究だから……上手な説明が思いつかない」
「つまり、ほとんど何もわかっていない?」
「そう。誰にもわからないから楽しい」
「きみが楽しく宇宙と付き合っているなら何よりだ」
 木の匙でとろりとした米粒をすくいながら呟いた。程よく効いた塩が米の甘みを引き出し、鶏肉を噛めばじわりと出汁の旨味がしみる。あたたかな料理は緊張を緩めてくれた。
「……まあ、何の役に立つかと訊かれると答えられないような研究だけれど」
 自嘲するような声になまえを見る。瞳の下には化粧で隠しきれない隈が残っていた。少し痩せたと思っていたが、やつれたと言った方が的確なのかもしれない。時間は、誰にとっても平等だ。疲弊するのは唐沢だけではなく、未だ学生の身分にいる彼女だってそうだ。一般には理解しがたい研究に圧し潰されそうなときだってあるだろう。
「宇宙物理学の研究は、何かの役に立たなきゃダメなのか?」
「え、いや……そういうわけではないけれど、よく、訊かれるから」
「きみは、役に立たない研究なんてしたくない?」
「……ううん。役に立つか、立たないかなんて関係ないよ」
 だろうね、と笑う。そんな理由で探究心を自制できるなまえだったら、きっとこうも惹かれはしなかった。窮屈な良識に縛られているようで、彼女は唐沢よりもずっと自由で素直だ。
「どうしてわかったの」
「きみのことだからかな」
「今どきドラマでもそんなこと言わないよ」
 呆れたような視線さえ愛おしい。駆け引きのない会話は軽やかで心地よかった。翳りのない無垢な信頼が言葉や仕草から滲むたび、熱がとけてやさしくなれる気がする。
「それに何もわかっていないなら、役に立つ可能性もあるってことだろ。今度そんなこと言われたら意味深に笑って見せればいい」
「唐沢と映画俳優だけだよ、それをやって様になるのは」
「……褒めても何も出ないぞ」
「見返りがほしくて褒めたわけじゃない」
 心外だと眉をひそめたなまえに、知ってるよ、と返した。もしも欲しがってくれたなら――唐沢はいくらでも与えることができたのだ。

 ベッドに横たわりながら、論文を読み進めるなまえを見つめていた。深い集中に落ちた彼女は不躾な視線も気に留めない。
『そこから動かないで』
 食事が終わるなり唐沢をベッドへ追い立て、なまえはきっぱりと告げた。それに逆らうほど自分の状態がわからないわけでもない。いつもは無理やり奪う洗い物もなまえに任せ、昔のように小説を借りて暇を潰した。いくら幼馴染みで怪我人といえど、付き合ってもいない男がいるなか風呂に入り寝巻きに着替えるのは忠告すべきか――床に布団を敷く背中に悩んだものの、結局は口を噤む。彼女の傍から離れる理由を見失っていたかった。心臓を穿った熱が、やさしくとけて大人しくしている今だけは。
 本に囲われた春の夜は静かで、部屋にはかすかな呼吸とページを捲る音だけがある。なまえの瞳孔は活字を追って揺れ動き、薄紅色の爪先が照明の光を受けてちらちらと瞬いていた。湯上がりの湿った髪が肩からするりと零れ、丸い襟元から覗く鎖骨にかかる。
 思考の海に潜るなまえは、やっぱり、きれいだった。
 掌に収めてしまえば途端に潰えるかすかな炎のように、天から零れ落ちた星のかけらのように。触れることを躊躇わせる清廉さは、もしかしたら自分の狡猾さをわかっているからこそ感じてしまうのかもしれない。相応しくないのはいつだって自分の方だ。
 いっそこの部屋をかたちづくる本の一冊にでもなってしまえたらいいのに。そうしたら疵のつけようもなく、それでいて彼女のためになれる。
 ばかなことを考えているのは自分でもわかって、ふっと呼吸に紛れた笑みが落ちた。視線を天井へ逸らした拍子に、スプリングがぎしりと軋む。思いのほか大きく響いたせいか、視界の端でなまえが顔をあげた。
「――もう寝るよね。電気、消そうか」
「いいよ、明るいままで。まだ読み終わってないんだろ」
「ありがとう。これだけは今日のうちに読んでおきたくて……もうすぐ読み終わるから」
 言いながら、なまえは眠気を散らすようにまばたきを繰り返した。短針は真夜中に差し掛かるところだ。その意識が再び沈む寸前に唇を開く。
「……忙しいときに来て悪かった」
 囁くような声だったのに、それは確かに彼女の鼓膜を震わせたらしい。星屑を散らしたような瞳が唐沢をじっと見つめ、やさしく細まる。
「お礼が先だと思う」
「あぁ……助かったよ、ありがとう」
「どういたしまして」
 満足そうに頷いてみせたなまえは中学生のころから変わらない。けれど――この三年で唐沢の知らない彼女が生まれているのも、確かだろう。
「……予定を台無しにしてすまなかった」
 開かれた扉の先にいた彼女を思い描く。光沢感のあるブルーグレイのワンピースに、結われた髪には真珠とガラスのバレッタが飾られていた。化粧こそ控えめだったが、何か特別な用事があるような装いだった。たとえば、誰かとデートでもするような。想像して、煮えたぎるような衝動が生まれないことをひそかに安堵する。少しは大人になれたらしい。
 そろりと横目で窺ったなまえはもう唐沢を見てはいない。文字と数式で描かれた宇宙へ思考を旅立たせるようにしながらも、やわく色づいたくちびるはゆっくりと動く。
「気にしないで……わたしがそうしたかっただけだもの」
 おんなじことが百回起こったとしても、百回とも、そうするとおもうよ。
 泡沫の夢のようにとけていく言葉が、何もかも嘘だったらよかった。ほんのひと時の慰めであったなら。けれど、そこに一つとして嘘がないことを、唐沢は誰よりも信じられる。
 きみの、そういうところだ。声もなく呟き、胸に埋もれた熱を逃がした。

 豆電球のわずかな明かりのもとで、ふたり並んで呼吸する。蓄積された疲労が眠りへと誘おうとはするものの、そのまま意識を手放すには妙に目が冴えている。なまえもそうなのか、時たま寝返りを打つ音が聴こえた。彼女を起こして夜を明かすまで語り合いたいような、このまま眠りに落ちてぜんぶ夢にしてしまいたいような。ふわふわと浮つく心臓を、かすかな呼吸で諌めてやり過ごす。
「……唐沢、ひとつだけ、きいてもいいかな」
 ぽつりと雨がひとつぶ降るように、なまえの声が夜に落ちた。唐沢を起こしたいのか起こしたくないのかわからない、囁くような声だった。彼女も半分くらいは睡魔に思考を奪われているのかもしれない。
「……いいよ。ひとつだけなら」
 狸寝入りで躱すこともできたのに。なまえに背を向けたまま、暗い壁を見つめながら問いを待つ。出来るだけ誠実でありたいとは思うが、この三年間や怪我に関して答えられることは少なかった。秘密は、彼女を守るためこそあるのだ。いくつもの悪徳に触れるうちにどれだけこの手が汚れたかということも、なまえにだけは知ってほしくない。
 ひとつだけね。ほとんど吐息に紛れてしまうような声が漂う。
 数拍の沈黙を、静かな声が破った。
「いつ……」
 波間に消える泡のように、言葉は儚くとける。
「……わたしは、いつ――君を傷つけてしまったの」
 震える声だ。ああ、と唇から熱が溢れる。きみはどこまで。どこまでも――きみなのか。彼女に自分の姿が見えていなくてよかった。指先から心臓へ滲みる、痺れるような痛みもなまえに伝わりはしない。ちっぽけな自尊心を、どうにか守っていられる。
「……違う」
 距離を開けた三年を思った。薄青い喪失を抱えていても唐沢は上手くやれていたし、なまえもそうだろう。今ここにこうしているのはただの偶然で、この夜がなくてもお互いひとりで生きていけるはずだ。
 けれど、それなのに。ふたりでいられたらと、きっとふたりして思っているから。
「違う、それは。きみは……何も、悪くない」
 なまえが言うように、唐沢は傷ついていたのかもしれない。彼女が一言も告げず三門の大学に進学すると決めたときも。八年の腐れ縁を偶然と信じ切っていたことも。壊すことも壊れることも許さない無垢な信頼も。唐沢のしあわせを祝福するという優しくて正しい友愛も。彼女がこの熱を持たないことを妬んだ一瞬も。確かに傷にはなっていたのかもしれないけれど――それが、きみのせいなんてばかなことがあるかよ。

「俺が、きみを傷つけるんだ。……だから、だめなんだよ」

 永い沈黙のはてに、ようやく、告白した。
 なにそれ、と静かな声がまるくとける。怒りも苛立ちもなく、ふしぎだ、と小さな子どもが呟くように。寝言といっても差し支えのないような曖昧な声色は、なまえが抱えた疲労を知るには十分だ。明日の朝にはこの会話も忘れてしまっているのかもしれないと思って、小さく笑みが浮かんだ。忘れてほしい。こんな情けない告白は。
「そのままの意味」
「……わからないよ」
 思考に沈むにはあまりに短い沈黙のあと、なまえはそう囁いた。
 わたしは、と、幼い声が震える。
「――きずついたって、そばにいたかった」
 夜はすべてを隠していた。涙も、痛みも、何もかも。
 けれど、星は。夜にこそ輝くのだと知る。
 ばかなこというなよ。きみが、許すなよ。俺が許さなかったものを。言葉の代わりに流れた雫がシーツへ染みていく。いつもそうだ。妬んだはずの正しさでさえ、彼女のそれは唐沢をすくいあげる。
 この熱でなまえに疵をつけないためには、なまえを傷つけてでも離れたほうがいい。星の瞬きさえ届かないくらやみに潜んでしまえば、いずれ目も翳って六等星のかすかな光なんて見つけられなくなる。そう信じて離れたのに。ほろほろと熱がやさしくとけていく。唐沢さえも受け入れなかったそれを、よりにもよってなまえが、よいと言う。
 もしも――きみと。どこまでも近くいつまでも遠い、天のはての六等星のようなきみと、いられるなら。
 きずさえも、愛おしむことができるのなら。
「……からさわ、は?」
「……そばにいたいよ」
 無垢に問われれば、偽りのない答えだけが溢れ落ちた。
 取り戻せない呼吸が夜を震わせ、後悔と安堵が入り混じる。それを言葉にしたのは初めてで、かたちを与えた途端に手放し難くなる。わかっているから言わなかったのに。疵をつけるとどれだけ理性が叫んでも、目に灼きついた光を忘れられなかった。繋いだ手のあたたかさも、白波に探した星々も、思考に沈む横顔の美しさも、丁寧に紡がれた言葉の数々も、花のほころぶような笑みも。与えられたささやかな特別を、忘れることなんてできない。
 ――認めよう。唐沢は、彼女の言葉でしか呼吸したくない。
 欺瞞のない無垢な言葉は今の唐沢からあまりに遠く、その距離に打ちのめされる日がくるとしても。ひとりで、生きていけるとしても。彼女のかすかな瞬きが、帰る場所をいつまでも示してくれるから。
 そう、とおだやかな声が笑う。なまえが笑っていることだけは、どんなくらやみでもわかってしまう。唐沢は言葉も痛みも押し殺し、かすかな寝息が聴こえるのを待った。

 ▽△

 ――思ったより元気そうじゃないか。
 執務室を背に、上役から告げられた言葉を思い出す。彼は唐沢の顔を見るなりそう告げたのだ。唐沢はそれには答えず、ただ仕事の報告を済ませ、大人しく叱責を受けるに留めた。
 右足を松葉杖で庇いながら地上へ向かう。陽の光を避けるような地中の奥深くは、少しだけ空気が淀んでいる。それを組織に言ったなら、最新鋭の空調設備を整えていると反論されるだろうけれど。
 地上に出て、携帯端末を見れば着信が数件入っていた。その殆どがなまえからだ。
 まだなまえが眠っている早朝に、書き置き代わりのクリーニング代だけ置いて出て行ったことをきっと怒っているだろう。心配している、かもしれない。彼女のことだから。
 少しだけ悩んで、それから折り返す。数コールのあと、ぷつりと音が途切れて、その瞬間に唇を開いた。
『からさ――』
「来週はニューヨークに行くんだが、お土産は何がいい?」
 電波の向こうでなまえが息を呑む。はてしなく永い沈黙を数えながら、つきりと痛んだ心臓に熱がとけていくのを待った。暴力と呼んだ熱のすべてを自由にすることはなくとも、それを抱えていることは許せるようになるだろう。この熱をやさしいものにすることも、いつかは。きずついたって傍にいたいと、なまえが望んでくれるから。
 後悔は、ある。何に対する後悔かもわからなくらい、たくさんの後悔が。どんな選択をしたとしても、彼女が彼女であり、唐沢が唐沢である限り、それはこれからもかたちを変えて訪れるだろう。彼女が変わったように、唐沢ももう彼女が知るだけの人間ではないし、その正体を知ったら彼女は離れていくのかもしれない。それでも。
『……何でも、いいよ。君がかえってくるなら』
 静かな声が震えている。
 ああ、と頷いた。――きみは知らないだろうけど、知らなくていいけれど。俺は、きみが願うことはなんだって叶えたいんだ。
「帰るよ。なまえのところに」
 春のうららかな陽に、ふっと唇をほころばせた。風に散らされた薄紅色の花弁がどこからかやってきてひらりひらりと視界を横切る。そろそろ引っ越すから気をつけてね、と、なまえが滲んだ声で笑った。


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