蛇は星を呑むか

 三門市は今日も呆れるほどに平和だ。世界の裏側で起こる戦争も策謀も遠く、住宅街に佇む喫茶店には穏やかな空気が満ちている。唐沢はカウンターの真ん中、この店の特等席に座りながら、ぼんやりと窓の外を見遣った。梔子の白い花が風にそよいでいる。甘い香りのそれが咲いているときに来るのは、そういえば初めてだった。
 なまえが見つけた喫茶店はいつの間にか唐沢にとっても行き着けの場所となっていた。けれど隣にいるべき彼女の姿はない。数日前に受け取ったメールには、学会でギリシャに行くとあった。宇宙に関することは、今でも天文学と深い繋がりのある地で行われるらしい。
 それを知っているから――万に一つも再会することはないとわかったから、唐沢はここを訪れた。なまえと最後に会ったのは一年前になる。二人で夜を明かし、東京へ戻る唐沢をなまえが見送ってくれた日だ。
 忙しさを理由に避けることは簡単だった。正しい距離を保つことが、できている。それがうっかり崩れてしまわないように、唐沢は細心の注意を払っていた。
「それで、あの若造は何と?」
 カウンターの内側で珈琲を淹れる老紳士が悪戯っぽく問いかける。幼馴染みの誘いがなくともここを訪れる理由の一つが、この店主だ。かつて唐沢と同じ組織に所属していたという老爺への連絡係。知っているなら話が早いと任命されたのは、試用期間を満了したころだった。唐沢が組織の実態を理解した時期とも一致する。
「あなたの判断にお任せします、とだけ」
「了解。それだけの伝言で、わざわざすまないね」
「いいえ。ちょうどここの珈琲を飲みたいと思っていたところなので」
 それは嬉しいことを言ってくれる、と老紳士は上機嫌に笑い、淹れたての熱い珈琲を給仕する。さっそくカップを持ち上げれば「ああ、ミルクを」と皺の刻まれた手がピッチャーを置いた。珍しい、と思う。唐沢の記憶にある限り、彼が珈琲と一緒にミルクを出したのはただ一度。初めてなまえとこの店を訪れたときだけだった。
「お土産もありがとう。あとで孫と食べるとするよ。あの子もチョコレートは好きだから」
「ああ、いえ……美味しいと評判らしいので、ぜひ」
「しかし、本当に渡したい相手に贈らなくてよかったのかな?」
 何気なく付け足された一言に手元が狂って、ミルクピッチャーの中身が勢いよく珈琲へ降りかかる。カップを飛び出てソーサーにまで滴った白い雫を、老紳士は楽しげに見つめた。
「プレゼントの横流しはよくないよ」
 木苺のジャム、ガラス細工の器、古い時代の画集、隕石のかけら、春色のストール、有名店のショコラ。唐沢がこの店に持ってきた手土産の殆どは、元はなまえを思いながら手に取ったものだった。老紳士には事情を話さずともお見通しだったらしい。ついに咎める気になったのは、唐沢がこれからも横流しを続けるように見えたからだろう。会う気もないのに買ってしまうのは、自分のことながら理解できない。
「……すみません」
 ミルクがたっぷりと入ってしまった珈琲をスプーンでかきまぜながら、素直に謝罪を口にした。カップに満ちた黒は濁り、濃褐色へと移ろう。組織の先達ということもあって、この老紳士は食えないところがある。まともに立ち向かおうというのが間違いだ。
 心を宥めるようにカップへ口付け、ひとくちを飲み込む――懐かしい味がした。あのときの珈琲だ、と、なぜだかわかる。こくりと飲んで黙った唐沢に、老紳士は黒い瞳を三日月のように細めた。
「珈琲の澄んだ黒は美しいが、ミルクが入っていても悪くない。そうは思いませんか?」
 大らかで深い声が問いかける。すぐに頷くことはできなかった。組織の人間が纏う喪服のような黒服の意味を、唐沢はもう知っている。この手は既に他人の生死を転がせる。けれど組織のせいでそうなったわけではなく、自分は元からそういう人間だったというだけのことだと理解していた。善も悪もなく、必要なことを成せる。
「……いえ、個人的には珈琲とミルクは別がいいですね」
 にこりと笑えば、老紳士はこれ見よがしに悲しげな顔をつくってみせる。芝居がかってはいたが、彼が唐沢を――唐沢と幼馴染みを案じてくれていることは、わかった。
「お天道様の下だって君なら歩けるだろうに」
 皺の刻まれた手でグラスを磨きながら、店主は溜息混じりに呟く。
 いいえ、と首を振った。
 それでは駄目なのだ。なまえを傷つけないためには自制が必要だった。危険と隣り合わせの仕事はそういう意味でも都合がいい。巻き込みたくないという正しい感情が、勝手になまえとの距離をつくってくれるから。
 彼女が彼女として生きていてくれるのなら、唐沢はそれだけでよかった。傍にいられなくても構わない。そういうことにすると決めたのだ。六等星のようなかすかな瞬きを守れるのなら、星の光も届かないようなくらやみにだって沈んでいける。
 ことりとカップを置くと同時に、カウンターに置いた携帯端末がメッセージを受信した。プライベート用の端末だ。表示された名前に指先が痺れる。中身は見ない。そうやって少しずつ、すこしずつ、距離を開けていく。熱を鎮めて、衝動は他で発散して、何でもない顔で笑う。唐沢ならできるはずだった。なまえよりもずっと器用で、嘘つきだから。
 ああけれど。
 さようならを言わなかったのは――ずるかったかもしれない。
 濃褐色の水面に生まれた細波を見つめる。グラスを磨く老紳士は「どうあれ、後悔は必ず訪れるものだよ」とだけ囁いた。


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