ペイル・ブルー

 きぃ、と試着室の扉がおそるおそる開かれる。なまえが一歩踏み出すと、それに従うように水色が揺れた。
 星屑を湛えた瞳が唐沢を捉え、それから気まずげに逸らされる。彼女が着ているのは淡い水色のマーメイドドレスだ。慣れない服装のためか硬い表情だったが、それでも、しゃんと背筋を伸ばして立っている。
「いいんじゃないか」
 しゃらしゃらと星が瞬くまばゆさに、瞳を細めながら囁いた。眩しいと思うのに目を離すことができない。
 淡い水色は彼女の知性を印象付けながらも、常よりもやわらかな雰囲気を滲ませていた。繊細に編まれたレースが胸元から肘までを隠し、膝下で広がるマーメイドラインは儚げにひらめく。
 成人式の艶やかな振袖姿よりも、こっちの方がいい。あのときはかつての同級生たちに囲まれてろくに話せなかったから余計にそう思うのだろう。
「よく似合ってる」
 にやりと唇を持ち上げれば、なまえは消え入りそうな声で「ありがとう」と返した。そして試着室の扉を閉めようとするので「待て待て」と引き止める。
「着替えている間にこっちで見繕っておいた」
 傍らに控えていた店員が心得たように進み出て、煌めくビジューが配されたオフホワイトのショールを羽織らせていく。幼馴染みはされるがままになりながら、途方に暮れたように唐沢を見た。
「ドレスだけ買ってもフォーマルな装いにはならないだろ?」
「それはそうだけれど……」
「靴は慣れたところで買った方がいいかな……きみ、靴擦れしやすいから」
「なんで知ってるの」
「きみのことはきみより知ってる。アクセサリーはお母さんのを借りる予定だったな」
 軽口を飛ばしている間も店員は慣れた手つきでショールを整え、薄紅色の爪先にはドレスと似た色のバッグを持たせる。パンプスも同じ色にして統一感を持たせるのがいいだろう。
「そのつもりだけれど……真珠のネックレスとイヤリング」
「じゃあ、ここはこれだけでいいな」
「……楽しそうだね」
「まあ、思いのほか」
 唐沢の知らないところで勝手にかわいくなったなまえを、今、磨いているのは自分なのだ。胸が弾む感覚に、小さな女の子が着せ替え人形に夢中になる気持ちも少しわかる気がした。
「ああ、肝心なことを聞いていなかった。着心地は? 窮屈なところはないか?」
「……うん、大丈夫だと思う」
 腕を伸ばしたり、腰をひねってみたりと彼女が動くたび、淡い水色の裾が優美に動く。手足を動かして緊張も解れたのか、くちびるにかすかな笑みがのった。
 ――もう少し手を抜いておくべきだったか。
 ちらりと熱が過ぎる。誰にも気づかれないように小さくほぞを噛んだ。これは、幼馴染みとして正しい感想ではない。
「……他のも試着するかい?」
「ううん。だって唐沢はこれが一番いいと思って選んだんでしょう」
「ああ……似合ってると思うよ」
「君の目利きを信じる」
「じゃあ、それで決まりだ」
「うん。着替えてくる」
 試着室の扉が閉まり、店員が勧めてくれたソファーに腰を下ろす。ふう、と細く零れた溜息は疲労と他のものが混ざり込んで熱かった。
 余計な考えを振り払うように頭のなかで算盤を弾く。靴を買いに行っても予算には余裕があるだろう。互いの両親がいくらかの心づけを渡してくれたのも大きく、唐沢が補填する必要はない。そうしても彼女は喜ばないとわかっていたから、予算内に収めたのだ。

 ドレス選びを手伝う約束を交わしたのは、卒論の口頭試問が終わった一月のことだった。無事に院へ進めそうだと電話越しに笑ったなまえは、しかし謝恩会にはどういう服を着るべきかと困り果てた声で続けた。お世話になった教授が出席するから行きたいのに、作法がわからないと。友人たちは早々に実家に帰ったり、恋人との卒業旅行に忙しかったらしい。
『お母さんに言ったら、唐沢に見てもらえば? って……』
 断られることをわかっているような声だった。ちりりと胸が騒ぎ『もちろん、俺でよければ付き合うよ』と返したのは反射だ。
 ――本当は、距離を置こうと思っていたのに。
 彼女に疵をつけたいと思った夜からずっと、正しい距離を保とうと考えてきた。それなのに休みになればなまえのもとを訪れ、ラグビーの試合を応援しにくる彼女にまた来てくれとせがんだ。試しにと恋人をつくってみても、やはり彼女へ向ける熱は薄れない。あの熱が再びなまえを傷つけることこそなかったが、それもいつまで続けられるかはわからない。取り返しがつかなくなる前に離れるべきだった。
 ――でも、頼られたら応えるのは、親友として当然のことだ。
 ドレス選びを引き受けてから、同級生や先輩、母親にまで相談して情報集めに奔走したのも、親友だからだ。嘯きながらチェスターコートのポケットに手を入れれば、こつりと指先に触れるものがある。これも、親友の領分を越えてはいないはずだ。ずっと、そう言い聞かせている。

「唐沢、お待たせ」
 抑揚の薄い静かな声がかかる。顔を上げると、グレーのニットワンピースに着替えたなまえが立っていた。薄紅色の爪先が袖からちらりと覗く。唐沢が選んだ淡い水色のドレスも似合っていたが、冷たさを孕んだ無彩色は彼女が持つ色を艶やかに引き立てていた。
 店員が彼女からドレスとショールを受け取り、足音もなくレジカウンターへ歩いていく。
「急がなくてよかったのに……髪、跳ねてるぞ」
「どこ」
「そこじゃない」
 言うが早いか指を伸ばし、ぴょんと跳ねた髪を宥めるように梳く。かさついた指先をするりと艶やかな髪が撫でていく。なまえは不思議そうにその手を見上げていた。
「ありがとう」
「どういたしまして。さて、精算したら靴屋だな」
「……疲れているならどこかで休む?」
 慮るような視線にぱちりとまばたきし、苦笑する。
「そんなにやわじゃないよ。きみこそ疲れてないか」
「わたしだって唐沢が思うほどやわじゃない」
「はいはい」
 レジウカウンターでは店員が白い薄紙でドレスを包んでいる。支払いのために歩みだした背中を、ゆっくりと追う。
「素敵な彼氏さんですね」
「いえ、彼氏ではなく……」
 律儀にも訂正を入れる彼女の後ろから「幼馴染みですよ」と声をかけた。
「まあ。それは失礼いたしました。あんまり真剣にお選びになっていたので……」
「そうなの」
 振り返ったなまえが唐沢を見つめる。
「仕事は全うする主義でね」
 肩を竦めれば「だと思った」となまえも悪戯っぽく笑った。
 これでいい。自分は、何も間違ってはいない。小さく頬を緩めて、それから吐息を零す。卒業を間近に控えた初春――彼女との距離が開いていく春のはじまりだった。

 ▽△

 壁の一面を占拠した本棚はとっくの昔に溢れたらしく、床には本の塔がうず高く積まれていた。十にも及ぶファイルは授業のレジュメか、あるいは論文のコピーだろう。唐沢も卒論には苦労したが、理系のなまえはそれ以上だったらしい。
 背表紙を視線でなぞる。この活字たちが彼女の言葉や思考をかたちづくっているのだと思うと、無造作に抜き出すことは躊躇われた。崩れかけた書類の山から目を逸らし――ベッド脇に置かれた写真立てに気付く。
「この写真……」
 小さな木製のフレームに収まっているのは唐沢とチームメイトだ。雑誌の切り抜きらしく、真っ白い雲に裏の文字がうっすらと透けている。
 見覚えのある写真だった。ラストシーズンの決勝戦。序盤から攻めあぐね相手にリードを許し、逆転のチャンスが訪れたのは試合が終わる数秒前。この指から放ったパスの感覚。高く鳴り響くホイッスルと同時に勝利を知った。歓声に包まれたスタジアムの中央、唐沢のもとにチームメートが集まってきて、堪らず互いの肩を組み、笑いあった瞬間。もう随分と遠いことのように思えたが、写真を見ればまだあざやかに蘇る。
「だめだった?」
 静かな声に遠いスタジアムから小さな部屋へ引き戻される。なまえはドレスをハンガーにかけて皺を伸ばしているところだった。淡い水色が彼女の腕で揺蕩う。素直に答えれば、自分の写真が飾られていることに不思議な感覚だけがあった。うれしいと言えばうれしい。けれどこの部屋のすべては、彼女をかたちづくるものであるはずだから。
「いや……自分の写真があると思ってなかったから」
「毎日見ていたら記憶の劣化が防げるかと思って……そのときの感情も」
 あの決勝戦にはなまえも応援に来ていた。試合終わりは慌ただしく話す暇もなかったが、観客席の最前列、両親の隣で応援していた彼女を覚えている。
「感情って、泣くほどの感情のことかい」
 両親が言うには、なまえは試合が終わった直後、はらはらと涙を零したらしい。伝え聞いただけなので、たしょう誇張された表現なのだとは思うが。
「……待って、なんで、そのこと知って……」
 ばっと唐沢を見た彼女が、はくはくとくちびるを震わせた。夜に見る猫のように丸まった瞳に「なんでも何も」と返す。
「きみの隣にいたのは誰の親だと思ってるんだ」
「そ、それはそうだけど、だって唐沢は何も言ってこなかったし、聞いてないのかと」
「……きみが恥ずかしがるかと思って黙ってた」
「どうしてそれを墓まで続けてくれないの」
「さあ、なんでだろうね」
 言いながら、部屋の隅に置いた荷物を開いた。いつもなら帰っている時間だが、今夜はふたりきりで飲み交わす約束をしている。十年を越える付き合いのなか、なまえと夜を明かそうとするのは初めてだった。友達とやってみて楽しかったから、と告げる彼女の声が電話越しでも寂しげに聴こえて、気がつけば頷いていた。夜が深まる前に行儀よく帰ってきたこの二年は、今の唐沢をせせら笑っているだろう。
「ちなみに、どんな感情だったか訊いても? 泣くなんてよっぽどだ」
「……感動とか、よろこびとか、そういうものが溢れただけだよ。それに、わたしの他にも泣いてる人はたくさんいた」
 静かな声は意地を張ったように硬い。ドレスとショールをかけたハンガーをクローゼットに収め、ぱたむと戸を閉めたなまえの耳はほんのりと赤かった。よほど恥ずかしいらしい。
 なまえの涙を見たことは、そういえば一度もなかった。幼馴染みを遠ざけ傷つけた中学生の頃も、それよりも幼い小学生の頃も。
「ところで、バスタオルは貸してくれるんだよな」
 この会話は終わりだ、と示せば、なまえは「うん」と部屋を出て浴室へ向かう。きみのところは狭いからなどと理由をつけて銭湯に行くことは言ってあった。
「バスタオルと髪用の、一枚ずつでよかった?」
「助かる。ありがとう」
 戻ってきたなまえからタオルを受け取り、着替えと一緒に手持ちの鞄に詰める。
「もう行くの?」と彼女がぱちりと瞳を瞬かせた。
「長湯する方なんだ。二時間は戻らないからきみもゆっくり入っててくれ」
「わかった」
 疑いもなく頷いたなまえにこの気遣いは伝わっていないだろう。他の男にもそうなのではと心配したくもなるが、今も唐沢より仲がいい男はいないらしい。彼女の興味は目下のところ星と宇宙に占められていて、それに安堵する自分も変わっていなかった。
「あ、待って。鍵を」
 玄関で靴を履いていると、なまえがぱたぱたと近寄る。出られないかもしれないから、と薄紅色の指先が銀の鍵を差し出した。短く礼を言ってポケットに鍵を滑り込ませる。

 外に出れば、きんと冷えた空気が肌を刺した。二月はやっぱり冬なのかもしれない。夜に白い呼吸がとけていく。この寒空のもとで二時間は長すぎただろうか。
 どこで時間を潰そうか、いっそランニングでもと考えて、ラグビーのためにトレーニングする必要はないことを思い出す。鍛えることは悪いことではないが、必要ではなくなった。十六年も自分を縛った学生という肩書きはあと一ヶ月もすればなくなるのだ。
 人気のない道を歩きながら、いつか彼女とそうしたように天を見上げた。住宅街の狭い空に芥子粒のような星がいくつか瞬いている。
「……どう言ったものかな」
 就職先について、なまえにはまだ言っていない。三門ではなく東京で就職することは伝わっているようだが、どんな仕事をするのかという話題は避けてきた。あまり褒められた仕事ではないから。身も蓋もない言い方をすれば、法の隙間を突くような金集め。あるいはもう少し汚れた役目かもしれない。リスクを理解しながらも、自分に向いているという確信が背を押した。
「……いや、」
 それだけじゃないな、と夜に囁く。
 ――これで彼女との距離を保てると、思ったから。
 あらゆる企業や組織と交渉する仕事は国内外を飛び回る。息つく間もない忙しさにかまけていれば、その間は彼女のことを考えずに済むだろう。職務を明かせば彼女に火の粉が及ぶ可能性だってある。秘密は誰のためにあるのか考えてごらん、とは勧誘に居合わせた先達の言葉だ。中学生のころとは違う、距離を開けるに相応しい理由まで手に入る。
 この熱が彼女を焦がすことのない、疵をつけないだけの距離が欲しかった。そのためなら自分の首を自分で締めることだってできる。
 彼女はかすかに瞬く六等星だ。ただかがやいていてくれたなら、それでいい。
 離れていても唐沢にとって意味のあるひとであることに変わりはないのだから。
 なまえが自分の写真を部屋に飾るように、その光を胸に留めていられたなら。いつか、なまえの幸せを心から願える人間になれる気がする。
 胸の奥で疼く痛みとも熱とも知れない衝動を、眠りにつかせるようにゆっくりと歩いた。


「おかえり」
 二時間と少しを過ぎてから部屋に戻れば、扉を開けるなり彼女の声が響いた。
 ふわりと跳ねた馴染みのない言葉に少しだけ浮つくような感覚がある。まだ一滴も飲んではいないのに。深呼吸をして平静を手繰り寄せた。
「……ただいま。いい匂いがするな」
「つまみをいくつか」
 ドライヤーで乾かされたあとの少し湿った髪を揺らし、台所に立ったなまえが言う。気の抜けたグレーのスウェットに強張った身体が和らぐ。フライパンの中で砂肝がじゅうじゅうと焼けていた。
「意外だと思ったでしょう」
「まあ、そのままでも食べれるつまみを買ってあったし」
「味気ないかと思って……それに、わたしも成長するということ」
「みたいだな」
 食生活を心配されたことを覚えているのだろう。唐沢だって覚えているから、なんでもないやり取りがくすぐったく、少しだけ寂しい。
 互いに道を譲るようにしながらすれ違い、洗面所に入る。濡れたタオルを洗濯機に放り込む。それから部屋に戻れば、細々としたものは片隅に寄せられ、実家から持ってきたのか布団が敷かれていた。唐沢が出ている間に片付けてくれたらしい。
 ローテーブルには二人分のグラスと、ジャーキーやスナック菓子が置いてあった。点けっぱなしのテレビからタレントの笑い声が漏れる。
「何か手伝うことある?」
 部屋と台所をつなぐ扉にもたれるようにして問う。菜箸で砂肝を転がしていたなまえがちらと唐沢を見て、溜息を吐いた。
「お客様らしくしていて。唐沢は働きすぎ」
「そういう性分なんだ」
「過労死するからなおしたほうがいい」
「言い切るな」
 苦笑を浮かべれば「いいから座っていて」と重ねられる。相変わらず抑揚が薄く、静かな声だったが、有無を言わさない圧があった。
 かといってそれに大人しく従うほど素直でもない。そのまま壁にもたれながら、なまえの手元を見つめた。フライパンを揺すり、満遍なく焼き色をつけている。危なげなく手慣れた動きには習熟が窺えた。
「見ていて楽しいの」
「楽しいよ」
 気まずげななまえに微笑みを返す。それならいいけど、と言いつつもほんのわずか表情がゆがんだ。恥ずかしがるようなことがあるだろうかと思っていれば、しばらくの沈黙のあとやわいくちびるが開く。
「君が付き合ってきた人たちほど上手じゃないと思うけれど……」
 もつれるように囁き、なまえはやっぱり後悔したように口を噤んだ。ぱちり、と瞳を瞬かせてなまえを見るも、そこにはいつもと同じように澄ました横顔だけがある。
「……どうだろうな。あんまり手料理って食べないんだ。何が入ってるかわからないだろ」
「それを料理している横で言いますか」
「きみが差し出すものなら毒だって皿だって食べるよ」
「勉強しておく。化合物と陶芸」
「言葉の綾だったんだが」
「そう」
 小さく笑って、薄紅色の爪先がコンロのつまみを回す。砂肝を皿に盛って、フライパンはシンクへ。調理はこれで終わりらしい。まな板の横にはポテトサラダもあった。
「持ってくよ。きみは酒を頼む」
 素直に渡された砂肝とポテトサラダの皿を持ってテーブルに戻る。それと帰りにコンビニで買ってきた天然水のペットボトルを出しておく。彼女のほうは缶のビールとチューハイ、日本酒を持ってきた。
「飲める?」
「いま聞くのか……味の好き嫌いはないよ」
 下戸ではあることはまだ言っていなかった。迷惑をかけないよう、いつも以上に慎重に飲んでいかなければならない。どれを飲む? と訊ねるように視線を送られたので、ひとまずビールに手を伸ばす。薄紅色の爪先はライムのチューハイを選んだ。それぞれでグラスに注ぐ。とくとくと涼やかな音を立てて、あっという間に満たされていく。
「今日はありがとう」
 グラスを持ち上げたなまえがかすかにくちびるをゆるめる。その瞳が一瞬だけクローゼットに流れて、ドレス選びのことだと気付いた。
「よく似合ってたよ。……卒業おめでとう、お互いに」
 唇を持ち上げながら言えば、なまえも「おめでとう」と笑みを深める。彼女と夜を明かすのは今日が初めてで、きっと今日が最後だ。
「乾杯」グラスを合わせれば軽やかな音が鳴った。

 ▽△

「唐沢……?」
 静かな声が聞こえた、ような気がした。ゆっくりと瞬きを繰り返しながら、揺らぐ視界の焦点を合わせる。
 ――なまえが覗き込むようにして唐沢を見つめていた。
 びくりと肩が震え、思わず身を引けばなまえが唐沢へもたれるようにバランスを崩す。いつになく近い位置にある瞳が困惑に彷徨っている。なぜ。答えはすぐに出た。唐沢が彼女のやわい手を握っているせいだ。あたたかな体温はいつかと変わらず、けれどあの頃よりもすらりと大人びている。薄紅色の爪先が痺れるようにかすかに動いた。
「……悪い、寝てたか?」
 言いながら、ゆっくりとなまえの手を解放する。どうして手を握っていたのか、自分でもわからなかったがひとまず謝った。彼女の頬に差した朱色が酒のせいなのか唐沢のせいなのかはわからない。静かな表情に嫌悪はなく、小さく安堵の息をもらす。
「すこし……寝かけていた、が正しいかもしれない。水、飲む?」
「ああ……」
 唐沢が頷く前からなまえは立ち上がって、台所へと向かう。買ってきたペットボトルは空になって床に転がっていた。拾い上げようと動かした手は自分でもわかるくらい赤くなっていて、アルコールが全身に回っていることを理解させる。
「お酒、あまり得意ではなかった?」
「いや……今日はいつもより酔いやすかった、みたいだ」
 水はマグカップに入っていた。いつもより力が入らない手でも飲みやすく、気遣いが有り難くも恥ずかしい。滑り落ちていく冷たさに酔いを醒ましながら、テーブルに並んだ空き缶を数える。日本酒が目減りしていることを差し引いても、ラグビー部の飲み会のときよりは飲んでいない。
「疲れていたのかな……今日は連れ回してしまったから。ごめん」
「きみが気にすることじゃない。……もちろん、他にも色々要因はあるだろうって意味で」
 心配そうな顔に笑いかける。そのくらいには快復していた。
 チェイサーとして水も飲んでいたはずなのにこれだけ回るのが早かったのは、どちらかといえば気疲れが出たせいかもしれない。あるいは――なまえの部屋だからこそ気が緩んでいたのか。彼女は、こころのやわらかなところに住まわせているひとだから。
「吐いたりとかはしてない、よな?」
「うん。ふわふわはしてたけど」
「ふわふわ?」
「覚えてないんだね」
 空いた皿やグラスをてきぱきと片付けながらなまえが穏やかに笑う。
「あんまり見たことのない感じだったけど、面白かった」
「俺は何を……いや、やっぱり言わなくていい……」
「そんなに気にするようなことじゃないよ。爪を褒めてくれてただけ」
「つめ、」
 なまえの指先を染める薄紅色を褒めたのは、三年前のこの部屋だ。思えばそのときからずっと、彼女の爪はその色だった。
「そう、謝恩会のときはどんな爪にするのかって訊いてきたり……あとはきれいとか、形がいいとか、そういうことを」
「……覚えていない」
「寝ぼけていたんでしょうね」
 かすかに笑った声が離れていく。洗い物をはじめた水音に代わると言いたかったが、顔の熱が引かないことには彼女も譲らないだろう。
 かちゃかちゃと陶器とガラスがふれあう音を聴きながら、ぼんやりと部屋を眺めた。
 カーテンの隙間から忍び寄る夜は深く、静かだ。壁一面を覆う本が、この静寂を生み出しているのかもしれない。積み上げられた書籍たちと同じように時が停滞しているような錯覚がした。たぶんまだ自分は酔っている。
「もう寝る?」
 抑揚の薄い静かな声が響いた。洗い物を終えたなまえが台所から部屋を窺っている。
「いや……」
 反射的に口を開いた。言われてみれば眠気はあるが、まだ瞼を持ちあげていられる。もともと今日は寝ないつもりだったし、脳が状況を正しく認識できるようになれば寝るなんて無理に決まっている。深呼吸をして肺にたまった酒の匂いを本と紙に塗り替える。
「まだ大丈夫だ。きみは? 眠いならもうお開きにするし、飲み足りないなら付き合うよ」
「……おなかはいっぱいですか」
「……デザートは別腹じゃないかな」
 その言葉を望んだのがなまえだったのか自分だったのかはわからない。かすかに微笑んだなまえがまた台所に引っ込んだのを見て、気怠い身体をどうにか動かして自分のコートに手を伸ばした。ポケットの中に押し込められていた小箱はリボンがすこし崩れている。
 形を整えた小箱をことりとテーブルに置き、それからてのひらで顔を覆う。アルコールにおかされた頭では上手な言葉が思いつけない。
「無理に食べなくてもいいから」
 いつかと同じようなことを言いながら、なまえが運んできたのはいつものブラウニーだ。唐沢にはすこし甘過ぎる、地層のようなブラウニー。粉砂糖が舞い散るそれは、あるいは夜空かもしれない。そうなるとクルミは化石ではなくて月と金星だろうか。
 纏まらない思考をつらつらと泳がせていれば、なまえの瞳がテーブルの上の小箱を捉えた。
「……ホワイトデーのお返し」
 考える前に言葉が落ちる。数秒遅れで卒業祝いと言わなかったことを褒めた。彼女がそれを用意していなかった場合、余計な気を遣わせていたから。
「わたしに?」
「きみに」
「……高そうな気配がする」
 薄紅色の爪先が慎重に小箱を持ち上げる。箱に刻印されたロゴはなまえも知っているだろうブランドのものだ。
「向こう十年分と思ってくれ」
「ブラウニー職人になれそう」
「毎年思ってたけど、別にブラウニーじゃなくてもいいんだよ」
 彼女もそれなりに酔っているのかもしれないな、と思う。潤んだくちびるから紡がれる言葉はどこか浮き足立っていた。
「開けてもいい?」
「ご自由に」
 そうっと解けていくリボンから目を逸らし、目の前に置かれたブラウニーに逃げる。フォークで突き刺せばさっくりと割れて、口に含めばやっぱり甘い。
 わぁ、と吐息にも似た声がとける。悩んだ末に選んだのはバレッタだった。ガラスでできた透明な花と真珠が品よく並び、今日買ったドレスにも似合いそうだ。日常でつけるにはたしょう派手かもしれないが、服を選べば悪目立ちすることもないだろう。
 薄紅色の爪先がバレッタを光にかざす。きらきらと瞬くバレッタを見つめる横顔を窺ってほっと息をつく。なまえの好みはわかっているが、渡すまでの不安は拭えない。
「ほんとうにもらっていいの」
「謝恩会につけていくといい」
 あたりまえだろ、きみのために選んだんだから。
 言葉を飲み込むための、ふたくちめのブラウニーをかじる。星屑を湛えたような瞳が静かにまばたきを繰り返し、やわい手がきゅっとバレッタを握った。
「……ありがとう。髪飾りは盲点だったから、とてもうれしい。ドレスも唐沢に相談してよかった」
「どういたしまして。きみの役に立てたならうれしいよ」
 半ば自分に言い聞かせるように呟く。彼女はバレッタを小箱に戻し、丁寧にリボンをかけ直した。それをクローゼットにしまってから隣に座り、フォークを手に取る。その指先に収まる薄紅色を見つめて、ふと口を開く。
「それで、謝恩会のときは爪をどうするんだ?」
「……それ、また訊くの」
 呆れているのか辟易しているのか、なまえはくちびるをもにょりと曲げた。
「自分が訊いたことなのに覚えていないのは恥だろ」
「その恥を涼しい顔して自分から被りにいけるのは唐沢のすごいところだね」
「ドレスの色と合わせてもいいんじゃないか。飾りもつけて」
 嫌味のような言葉だが、なまえは素直にそう思っているだけだろう。先輩に連れられて顔を出した合コンにはきらきらしく爪を飾った女の子もいたな、と思い出しながら返した。
「かえないよ。このまま」
 頬張ったブラウニーを飲み込み、なまえが呟く。唐沢が小さく首を傾げると、なまえは瞳を伏せるように自分の指先を見つめた。
「……0・12ピクセルでも、人によって意味はあるということ」
「ふうん?」
 その意味を捉えようとする前に思考が霧散していく。酔いが抜けきるにはまだ時間がかかりそうだった。
 ぱきり、とかすかな音が響く。彼女がフォークの先でクルミを割った音だった。ちらりとその瞳が唐沢を見つめて、やわいくちびるがゆるやかに開く。
「君の就職先、どんなところなの」
 やはりそこに触れられるか、と覚悟を決める。正直に告げる覚悟ではなく、彼女をこれから先ずっと欺いていく覚悟だ。幼馴染みに嘘も隠し事もなく生きていけたらよかったのだろうけれど、この熱がある限り難しかった。今更、ひとつ増えたところで変わらない。
「投資会社が近いかな。伸びそうな企業を探して投資、基本はその繰り返しで……海外出張も多そうだ」
「忙しそうだね」
「ああ。でも、なかなか面白そうな感じだよ」
「そう……唐沢ならきっとうまくできるよ」
「ありがとう」
 面白そう――それも嘘ではないけれど、こう言えばなまえは応援してくれるという打算も含んでいる。こういうことだけは酔っていてもできるのだから、身にしみた器用さには感謝するしかない。
「仕事は忙しいと思うけれど、からだには気をつけて」
「きみのほうこそ、研究にかかりきりで食べるのを忘れないように。それから――悪い男には気をつけて」
 彼女の傍を離れるということは、彼女に危険が迫ってもすぐには守れないということだ。本当になにか起これば唐沢はあらゆる手を尽くして駆けつけるけれど、用心してもらうに越したことはない。彼女なら唐沢の忠告を受け入れてくれると信じて、何もかも微笑で覆って告げた。自分がいちばん悪い男かもしれないと思いながら。
「相変わらずお母さんみたいなことをいう」
「きみが大切だから心配になるんだよ」
 ぱちり、と瞳が瞬いた。唐沢の真意をはかるように黙り込み、思考の海へと沈んでいくのを眺める。あらゆる物事について思索するなまえが、唐沢のことだけを考えてくれている時間が、ずっと好きだった。
 やがて浮上したなまえは、いつになく神妙な顔をしている。濡れた睫毛がぱちりとまばたきを落とし、星屑を散らした瞳は唐沢をじっと見つめた。アルコールのせいか、熱い紅茶のせいか、赤く色づいたくちびるがゆっくりと開く。
「……唐沢、また会える?」
「どうした、急に」
 心臓が少し早まるのを感じていた。
 距離を置こうとしていることを、全く気付かれていないとは思っていない。離れきることは出来なかったけれど、線引いたのは確かなのだ。だから忙しいのなら仕方ないと思うように誘導して、開いた距離になまえが傷つかないようにしてきた。
「何となく……いつになく素直だったから」
「俺が素直じゃ悪いか」
「悪くはないけれど……」
 冗談めかして返せば、なまえも気が抜けたように言葉を濁した。確信のない言葉を紡いだことに自分でも戸惑っているらしい。
「……会おうと思えばいつでも会えるよ」
 嘘ではないだけの言葉を紡いだ。気もそぞろにブラウニーを食べるなまえは、それに気付かないでいてくれる。また思考の海に沈もうとしているのだろう。その横顔を見つめながら、これが最後だと甘い夜空を噛みしめた。


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