焦がれ渇く熱病

 割れんばかりの歓声がスタジアムを覆っていた。呼吸のたびに肺が痛み、沸騰したような血液に心臓がどくどくと跳ねる。
 ――ピピーッ
 甲高い笛の音が試合終了を告げ、その瞬間にどっと疲労が押し寄せた。一歩踏み出すたびに全身がぎしぎしと悲鳴をあげる。
「唐沢ァ! よくやった!」
 威勢のよいがらがら声にばしんっと背を叩かれ、危うく倒れかけた。芝生に食い込ませたスパイクで耐えながら、肩を組んできたキャプテンに「痛いですよ」と返す。「うるせえな」と首に腕をかけられたままラインまで歩いた。それとなく支えられているのがわかって小さく笑みを零す。
「ナイスプレー!」「よくやるよお前は!」
 声をかけながら隣に並んだのは同期だ。正面からは対戦相手が同じようにばらばらと集まってくる。
 空は抜けるような青色だった。秋の空にしては珍しく雲もない。
 熱狂の余韻に包まれた観客席では一足早く互いの健闘を讃える握手が交わされている。その最前列に、彼女を見つけた。
 ばちりと目が合う。唐沢が唇を開くより早く、なまえはぴょんっと跳ねてみせた。いつもの彼女らしくない挙動に驚き、言葉がつっかえる。顔を見るのは夏以来だ。紅潮した頬にはよろこびが溢れていた。感情をあそこまで露わにするのも珍しい。
 ――からさわ!
 やわいくちびるが名前をたどる。観客席からグラウンドへ、静かな声が届くはずもないけれど、確かに呼ばれたのだとわかった。
 ふっと唇が弛む。手を振れば、何故か周りの女の子たちが振り返して眉を寄せた。肝心のなまえはまたぴょんと跳ねる。
「あの跳ねてる子、誰かの知り合い? かわいいなぁ」
 追いついてきた一つ上の先輩が呟く。すかさず口を挟んだ。
「俺の連れですよ」
「うわッ……やめとこ」
「やめとけやめとけ。克己クンはあの子に見てほしくて頑張ったんだもんなァ?」
「そうですよ」
「ハァーッ! やっぱ可愛げねえな!」
 何とでも言えばいい。涼しい顔ができるほどの余裕はないが、他の誰かに目を向けさせる気はなかった。だって彼女は唐沢の応援をするためにやって来たのだから。

 彼女には夏までにレギュラーにあがると宣言したものの、現実はそうならなかった。夏の始めに一軍へ昇格したからだ。コーチは『二軍で試合経験を積ませようとも思ったんだが』と苦笑したが、キャプテンが『唐沢をスタンドオフで使うならハイレベルな試合をさせたほうが絶対いい』と推薦したらしい。
 大抜擢ではあるものの、スターティングメンバーからは遠ざかった。夏休みの間は一軍の練習についていくのが精一杯で、東京を訪れたなまえに試合を見せられなかったのは苦い思い出だ。同期からは『幼馴染みに試合を見せたい』と酔ってキャプテンに絡んだから復讐されたんだと揶揄われたが、そんな記憶はない。
 みっちりと扱かれた夏休みが明けて、暑さが和らいだ秋。このシーズンから試合の後半に出場させるという確約を得て、唐沢はようやくなまえを試合に招くことができた。

 スタジアムの隅、なまえとの待ち合わせ場所へ急ぐ。このあとは大学に戻り、解放されるのは日が暮れてからになる。その前に会いたかった。監督とキャプテンがインタビューを受けている間は自由行動だ。
「からさわ!」
 通路に声が反響する。視線の先でなまえは背伸びをするように踵を持ち上げて、とんっと跳ねた。試合の高揚感をまだ引きずっているらしい。
 駆け足に変えて近寄り、自動販売機で買ったばかりの缶のお茶を火照った頬に押し付ける。びくっと肩が揺れた。
「つめたい!」
「どうだった?」
「すごかった!」
 こんなに語彙がない彼女は初めて見たかもしれない。勢いに一瞬たじろいだが、素直に褒められてうれしくないわけがない。
「見に来てくれてありがとう。おかげで勝てたよ」
「うん、すごい、すごかった。おめでとうからさわ、おめでとう!」
「ありがとう。わかったからちょっと座ろう。落ち着け」
 はしゃいで揺れる体は酩酊しているようだった。スポーツ観戦に慣れていない人間がいきなり生で試合を見るとこうなるらしい。興奮冷めやらない様子をもう少し見ていたかったけれど、正気に返ったときに羞恥に落ち込みそうな気もしてベンチへ誘導する。なまえを座らせて、自分は近くの壁にもたれた。
 缶のプルタブを引っ張ってから渡すと、こくりこくりと飲み始める。コンクリート作りの観客席は照り返しが激しい。赤い頬も高揚感のせいばかりではないだろう。
 じんわりと汗をかいた額に前髪が張り付いている。夏休みに会ったときよりも伸びた髪をひとつに結んでいた。七分袖の葡萄色のブラウス、オフホワイトのワイドパンツという組み合わせはチームカラーを意識したのだろうか。爪先はいつもと同じ薄紅色だ。
『かわいいなぁ』
 不意に先輩の言葉を思い出す。かわいい。なまえがそう称されるのを、唐沢は初めて聞いた。おそらく観客席で跳ねるなまえが少女めいていたせい――と理由をこじつけるのも往生際が悪い気がする。
 だからたぶん、なまえはかわいくなった、のだろう。
 唐沢は彼女がきれいであることも、かわいいところも知っているし、それで充分だと思うから認めたくはないけれど、服装も化粧も彼女の魅力を上手に引き出していた。誰が彼女にそうさせたのかはわからないが、少なくとも今日の装いは唐沢のためだ。そう思えば凪ぐ心に素知らぬふりをした。
 ふう、とかすかな吐息が落ちる。
「落ち着いたか?」顔を覗き込めば「うん」と静かな声が応えた。頬に残った熱には多少の羞恥も混じっているに違いない。
「改めて、おめでとう唐沢。すごい、ラグビーの試合って初めて見たけど、色々びっくりした。怪我はしてない?」
「鍛えてますから。試合は楽しめた?」
「もちろん。ルールも予習したし……わからない用語とかは周りの人が教えてくれたから」
「それなら良かった」
 見つめる瞳は星屑を散らしたようにかがやいていた。きらきらと、その眼差しを向けられることがばかみたいにうれしくて頬が緩む。
「唐沢のポジション、スタンドオフ? すごく難しいポジションなんだね。OBだっていう人が褒めてた」
「なまえはどう思ったんだ」
「わたしはラグビーのことよくわからないよ」
「知らないおじさんに褒められるより、きみに褒められた方が俺は嬉しい」
「……とてもすごかった」
「よし」
 変な唐沢、と笑うが、なまえを試合に招くこともモチベーションとして練習に励んだ身としては、チームメイトや監督からの言葉と同じだけの価値がある。 
「……いちばんすごいと思ったのはね、試合が終わったあと、チームの人たちが唐沢に駆け寄ってたところ」
 抑揚の薄い声はいつになく円やかに、やさしく響く。
「あれは挨拶のために集まってただけだよ」
「わたしからは駆け寄ったように見えたもの。信頼されているのが、横から見ててもわかったから、だから、唐沢はすごいなって、うれしくなった。――君の努力のあかしでしょう」
「……ありがとう。流石、着眼点が独特だ」
 羞恥が勝って余計な一言を付け足せば「だからラグビーのことは詳しくないって言ってる」と声が拗ねた。
「褒めたんだよ」
「そう……このあとは大学に戻るの?」
「ああ、ミーティングがあるから。それが終わったら何か食べに行こう……時間があれば、だけど」
「いちばん遅い便にしたから大丈夫。勝利記念にご馳走するよ」
「お言葉に甘えさせてもらおうかな」
 割り勘を主張することは簡単だったし、唐沢がご馳走してもいいくらいだったけれど、素直に受け取ることにした。表情を和らげたなまえに選択の正しさを知る。
「何が食べたいか考えておいて」
「じゃあ寿司」
「……いいけれど」
「嘘だよ。うまいイタリアンがあるんだ、そこに行こう。店の前に……七時に待ち合わせでどう?」
「いいよ」
 書くもの持ってる? と身振りで示せば鞄から手帳と細いボールペンが取り出される。白紙のページに店の名前と最寄り駅からの地図を書き込み、はたと顔を上げた。
「きみはどこへ行くんだ? 科博?」
「うん。一人で知らないところに行って迷わない自信がない」
「賢明だね。そっちへの行き方も書いておくよ」
「ありがとう」
 ざらざらとペンを滑らせる。唐沢には軸が細過ぎて書きにくい。
 なまえはこくりとお茶を飲んで待っていた。仰いだ拍子に見えた生白い首の細さがちりりと意識を奪いかける。きめの細かな、ふれたことのない肌だ。
「あっ、克己くん! ここにいた!」
 すんでのところで気を逸らしたのはマネージャーの声だった。――面倒な。反射的に思って、それから笑みを繕う。振り返れば通路の向こうからたったったっと駆けてくる。
「克己くん、そろそろバスに乗る準備してね」
 ぱしん、と軽く背を叩く。にっこりと笑ったマネージャーは同学年で、学部が同じこともあってよく話している。小さな体のわりにスタミナがあり、丁寧な仕事ぶりはチームでも評判だった。その視線がなまえへ流れる。
「妹さん?」
「いや、幼馴染み」
 なまえはくちびるを綴じたままぺこりと頭を下げた。昔から少し人見知りなところがある。
「まだ決勝じゃないのにわざわざ? 仲がいいんだね」
「まあね。ああそうだ、他のやつらが自販機の方にいたから、念のため声をかけてきてくれないか?」
「あ、うん。じゃあ……また後で」
 ああ、と頷いて背を向ける。まばたき一つ分の静寂が落ち、それからすぐ足音が離れる。
 なまえは去っていく背中を見つめていた。カコ、と缶が凹む音がかすかに響き、ペンが紙面を滑る音が重なる。
「いまのひと」
 睫毛の影が落ちる瞳は通路の先へ向けられたままだった。ふたりきりの空間に静かな声が落ちる。
「唐沢が好きなんだね」
「……よくわかったな」
 悪いことをしているわけでもないのに、心臓がきしきしと痛んだ。疚しさ、と言うべきかもしれない。なまえは軽く小首を傾げてみせた。
「君の恋人をどれだけ見てきたとお思いで」
「四人」
「正解。彼女がいまの恋人?」
「違う。大学では誰とも付き合ってない」
「忙しいんだね」
 見当違いのことを言う。
 俺が恋人をつくらないのは――言いかけて、その先の言葉を失った。言ってはいけない、と自制が働く。なまえは唐沢の友人だ。唐沢が、そうであることを願った。
「……まあね。いてくれたら、楽しいかもしれないが」
「次こそ長続きすることを祈ってるよ」
「きみは……それでいい?」
 ぱちりと瞳が瞬く。これが己に許せる限りの問いだった。いいも何も、と言いたげな顔が予想できて視線を手帳へ戻す。馬鹿なことを訊いたものだと見えないようにほぞを噛む。
「祈るべきは自分の幸せじゃないかと思ってね」
「ああ、そういう……」
 じりじりと焦げるような沈黙があった。
 熱を感じているのは自分だけだという確信もあって、それがまた薪となる。なまえは海の底でこの熱を知らずに生きているのだろう。
「でも、唐沢」
 静かな声が呼ぶ。
「わたしは――」
 星はやわく微笑む。
「――親友のしあわせを祝福したいよ」
 溢れ落ちた光はあまりにまばゆかった。その優しさには疵のひとつもなく、これ以上ないくらい正しくて、息が苦しい。
「……親友か」
 細いボールペンをノックして、手帳と一緒に返す。なまえは眉を少しだけ下げて、心細そうに唐沢を見上げた。
「出会ってもう十年になるから……だめだった?」
「六年前に思ってたよ」
 ふっと吐息を零してやれば、なまえも頬をゆるめる。
「先を越されてた」
「俺の先を行こうなんて百年早いな」
「百年後は死んでいると思う」
「生きてるかもしれないだろ。ぎりぎり」
「……だったら、百年先も君と親友だったらいいな」
 ああ――そうかい。
「ギネスブックに載るね」
 ちっとも面白くないのに笑みを浮かべている。息苦しさを誤魔化すように呼吸を熟す。燻る熱が胸を焦がした。

 ▽△

「何かあったの」
 抑揚の薄い声が、それでもどこか気遣わしげに響く。唐沢は注文を済ませたメニュー表を閉じながら首を傾げた。
「どうしてそう思う?」
「そういう答え方をするなら当たってるみたい」
「おっと、墓穴を掘った」
 大学から少し離れた場所に佇むイタリア料理店は、落ち着いた雰囲気が彼女好みだろうと前から目星をつけていた店だ。隣席の話し声はほどよく音楽が包む。店内を柔らかく照らす橙色の光は『料理と恋人を美しく見せる』とイタリア人のシェフが言っていた。
「ラグビーのこと?」
「まあ、そんなとこ」
「それは嘘」
「なんでわかるんだよ」
「何となく」
 薄紅色の爪先がグラスにうまれた結露をちりんと弾く。水滴はコースターを飛び越えて木目に小さな染みを残した。表情はさほど変わっていないものの、唐沢が嘘を吐いたので拗ねているらしい。子どもっぽい仕打ちに同じく水滴を飛ばして応えた。
「……そういえば、専攻は何にするんだ? 色々あるんだろ、物理学にも」
 真っ直ぐとした瞳から逃げるように言葉を紡ぐ。彼女はくちびるを開きかけて、それから閉じた。吐息が零れ、グラスを撫でた爪先が涼やかな音を立てる。
「……宇宙物理学にしたよ」
 抑揚の薄い声が音楽の合間を縫うように届く。あからさまな誘導にそうとわかって乗ってくれる生真面目な優しさに救われる。ほんの少しでも揺らいでしまえば途端に何もかも溢れてしまいそうだったから。
「宇宙物理学」
「天体物理学と言うこともある」
 言葉をなぞるように返せば、なまえもやわく笑みを浮かべる。ほっと緊張が緩み、渇いた喉を冷水で慰める。グラスに満ちた水からはかすかにレモンの香りがした。
「どういうことをするんだ?」
 理系分野に関しては高校までの知識しかない。大学で学ぶようなこととなるとお手上げだった。なまえもそれをわかっているのか「少し待って、説明が難しい……」と悩むように瞼を下ろす。ややあって、そろりと睫毛が震えた。
「……お星様がいつ死ぬかを考える」
「極限まで易しい説明をありがとう」
 専門用語を省くとそうなるのだろう。前提知識がなければ理解できないと判断したなまえは正しい。
「それが卒論のテーマ?」
「そうなると思う。ある恒星の活動の過程を、理論計算で解明しようという試み。宇宙物理学ではメジャーな研究だけれど、わからないことも多いから面白い」
「なるほど、とか言ってもまあ理解はしていないんだが。きみにとって楽しい研究ができるなら何よりだ」
「……うん。唐沢は?」
「希望が通ればミクロ経済。きみが宇宙全体のことじゃなくて一つの星について考えるのと同じようなものかな。……就活も春休みからはじめようかと思ってる。きみは進学だろ」
「よくわかったね」
「わかるさ」
 きみとの距離がこれからも離れていくことくらい。
 やっぱり声には出せなかったけれど、高校生のころほどの痛みはなかった。ささくれのような未練は今もあるが、自分の選択を悔いてはいない。三門で学び続けることを選んだ彼女もそうだろう。お互いに相手の選択を捻じ曲げることなんてできないし、もしもそうしていたら、きっと唐沢は今頃ひどく後悔していたとも思う。
「……まあ、進学だ就活だとか言う前に単位と卒論なんだが」
「唐沢は大丈夫だよ。要領がいいうえに努力家だもの」
「だといいんだけどな。でも今はラグビーが最優先だから」
 ぱちり、となまえは星を宿したような瞳を瞬かせる。小首を傾げた拍子に艶やかな髪がするりと肩を滑った。
「就活よりも?」
 そういえば、ラグビーを始めたときになまえへ並べた御託はそれだった。矛盾を指摘した彼女が思考に耽るのを唇を弛めながら見守る。はじめはそうだったけれど、それだけで続くほど楽な競技ではない。それでも続けている理由はひとつだろう。彼女が答えへ辿りつくのにそう時間はかからなかった。
「……ラグビーが、好きなんだね」
「ああ。面白いからね」
 なんてことのない一言だ。言葉にして初めてそうだと気付けたような、その程度のもの。
 なのに。
「そう――よかった」
 静かな声がほどけた。
 淡く色づいたくちびるが、花ひらくようにほころぶ。呼吸を忘れて息が詰まる。
「君の、そういうところが好きだよ」
 星の瞬きのような笑みだった。
 なまえはいつのまにこんな顔をするようになったのだろう。唐沢さえも知らなかった彼女が不意に現れて、少しだけ混乱した。いつも滲ませるようにしか感情を表現しないなまえが、このうえなくうれしそうに笑っている。
 それはやはり華やかさとは縁遠く、淡く儚い六等星の瞬きではあったけれど。それでも、唐沢が見てきたどの彼女よりも――きれいだった。
「……念のため訊くけど、褒められてるんだよな、俺は」
 見惚れていたのだと思う。視線がまじわり、はっと正気に戻る。掠れそうな声で確かめれば「もちろん」と静かな声が紡ぐ。ぱちりとまばたきをした次の瞬間にはもう彼方へ消えていたけれど、あの笑みを忘れることはできそうにない。何がそこまでなまえの琴線に触れたのかわからなくて「そうか」とだけ頷く。心臓から駆け上ろうとする熱を抑えるだけで精一杯だった。
 好きだよ。その言葉にきっと他意はない。なまえの言葉と視線に焦げるような熱はなく、そこにはやわらかな温もりだけがあった。優しくて、きれいで、正しい、幼馴染みへ向ける情だけが。
「……待ち合わせに、遅れた理由なんだが」
 だめだ、と思ったときには遅かった。溢れた熱が防波堤を越えて言葉となる。
 七時の約束に唐沢は十分ほど遅れて店に着いた。なまえへの謝罪はデザートを分け合う約束で決着して、話を蒸し返したって仕方ないのに、誠実な彼女はそれに耳を傾ける。
「おおかた、ラグビー部の人に引き止められたんでしょう」
「そうなんだけど、何の用事だったかは言ってないだろ」
「わたしが訊いても意味がないのでは」
「そうかもな――告白されてたんだ。さっきのマネージャーから」
 ぱちり。瞳が瞬く。橙色の光をなめらかに反射した虹彩に極小の唐沢が映っていた。
『あの子が好きなの?』
 チームメイトとして尊敬しているし、友人として信頼もしているけれど、誰かと付き合う気はない。できうる限りの誠意で答えた唐沢に、マネージャーはそう問いかけた。彼女が行動を起こしたのはなまえの存在を知ったからだろう。
 唐沢は『好きだよ』と頷いて『けど、君が思っているような意味じゃない』と訂正を入れた。この熱がそんな簡単な言葉に収まってくれるなら、それほど善いことはないのだと。
「そう」
 なまえは頷くだけだった。背筋を伸ばし、平然と座る彼女はやはりこの熱を知らないのだ。星が人を知らないまま瞬くように。
 なぜ、と思う。
 なぜなまえだけはこの熱を知らないのか。なまえが唐沢へ向ける優しくてきれいで正しい友愛が――どうしてかひどく妬ましかった。
「おめでとう」
 静かな声が祝福を紡ぐ。
「きみに祝われる筋合いはないよ」
 冷ややかに落ちた言葉をついに取り戻せない。
 刺を孕んだ声だったと自分でも気付いている。きしりと体を硬らせたなまえに、どこか胸のすく思いがあったことも。
「……唐沢?」
 戸惑った声が、視線が、頰をそうっと撫でる。
 瞳に宿る星が曇り、罪悪感が波のように押し寄せて熱に穿たれた穴を沈めていく。
「……断ったんだ。祝うことじゃない」
「それは……ごめん、早とちりをして」
 いや、と言葉を濁す。
 ――きみを傷つけるための言葉を選んだ。
 衝動が主導権を握っていた。名前のない熱に浮かされるようになまえを傷つけた。傷つけてみたいと、思ってしまった。
「……俺も言うべきことじゃなかった。彼女にも失礼だったし……忘れてくれ」
 声が逸る。喉が嫌な感じに渇いていた。グラスを持ち上げればコースターに滲んだ円環が残る。融けて小さくなった氷が胃へ滑り落ちていく。
「うん。ごめん」
 やわいくちびるはそれきり鎖されて、視線は木目に流れる。
 数秒の沈黙が落ちた。いつもは心地よいはずのそれが、きりきりと指先から心を蝕む。
「……君が誰かと付き合ったり、付き合わなかったりしても、関係がないのはそうだから」
 一つずつ確かめるように音が連なる。静かな声が並べる事実は胸を抉った。それがどんなに正しい友愛だろうと、なまえにだけはその正しさを肯定して欲しくなかった。言葉は、そのまま跳ね返るから。なまえが誰かと付き合ったり、付き合わなかったりしても、そこに唐沢は関われない。
 わたしと仲がいい男のひとは君くらいしかいない。君の、そういうところが好きだよ。
 そう言ったなまえは、同じくちびるでいつか誰かへの愛を語るのかもしれない。それを止める手立てはどこにもないのだと、突きつけられるようだった。
「そう、関係がないから……だから、誰と付き合ったとしても、友達で、いてくれる?」
 幼馴染みが丁寧にていねいに考えて導き出した言葉であることを、唐沢はきっと誰よりもわかっていた。思考の海に沈みながらも、唐沢が投げ込んだガラスの破片を掴もうとしてくれたことは。ただ、なまえはそれで傷つかないというだけのことだ。
 酸素を肺に満たし、二酸化炭素と熱を吐き出す。それから、唇をにやりと持ち上げた。
「……親友じゃなかったのか」
「……親友でいてくれる?」
「もちろん」
 それ以外に何と言えばいいのだろう。
 唐沢はなまえを友人として、なまえは唐沢を親友と呼んだ。ふたりにはただそれだけなのだ。いっそ、本当に、恋人になりたいという一言に収まってくれたら善かったのにと思う。けれどこの熱の正体はそういう初心なものではないから。
 ただ、なまえのいちばんになりたい。かすかに瞬く星のいちばん近くにいたい。他の誰にも譲りたくない。譲るくらいなら――いっそ深々と残る疵にでもなってやろうか。ひどく傷つける方法なんていくらでもある。信頼を裏切るのはかんたんだ。生白く細い首に手をかけ、色づいたくちびるに噛みついてしまえばいい。そうしたら、きみは俺を忘れられない。
 ちりん、と薄紅色の爪先がグラスを弾く。
 その音が、かろうじて正気を引き戻した。頭の奥がじんとしびれている。自分が考えていたことの意味を噛み砕いて、ぞっと薄ら寒さが駆け上る。これを、暴力と呼ばずに何と呼ぶのだろう。
 ――なまえから離れたほうがいいのかもしれない。
 いや、きっと、絶対に、そうだ。唐沢はいつか彼女を傷つける。心臓の奥に潜む熱はそういうたぐいのものだ。鋼が融けるような、痛みさえ伴う熱。なまえが知ることのない、知らないままでいてほしい熱病。
「ありがとう」
 ほっとしたように微笑むなまえがグラスに口をつける。緊張を解いたやわらかな雰囲気は唐沢へ向ける信頼を言葉よりも雄弁に語っていた。たったいま自分を傷つけた男を、彼女はすでに許している。それはたぶん、自惚れでなければ、唐沢だからだ。なまえの幼馴染みで、親友である自分だから。
 揺らぐことのない無垢な信頼は頼もしく、だからこそ甘えるわけにはいかない――そうであるべきだろうと、思う。この信頼は、花のほころぶような笑みは、決して疵をつけていいものではなかった。
 キッチンから出てきたウエイターが二人分のグラスとオードブルを持ってくるのを確認し、悪戯っぽく笑ってみせる。
「じゃあ今日の乾杯は友情記念とでもしておくかい」
「いや、今日は唐沢の勝利記念だよ」
 なまえが笑みを浮かべると同時に、ウエイターがテーブルに二人分の飲み物を置いていく。ライムが添えられたノンアルコールのモヒートだ。若々しいミントの葉が細かな泡と慎ましく踊る。テーブルに並んだ生ハムとサラダは華やかに盛り付けられ、沈んだ気分を少しだけ上向かせた。
「……そういえば、唐沢はノンアルコールでよかったの?」
 このあと三門に帰るなまえは酔いつぶれるわけにはいかない。下戸なんだ、と白状するより先に「一人で飲んでも楽しくないからね」と口が勝手に言葉を紡ぐ。当て付けに聞こえただろうかと思ったものの、なまえは「次は一緒に飲もうか」と微笑むだけだった。


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