薄紅と馨る夜

 コトコトと煮詰める鍋の音とトマトの甘酸っぱい香りが掠めた。ゆっくりと瞼を持ち上げ、くっと腕を伸ばしながら肩をほぐす。どうやら唐沢はベッドを背もたれに眠っていたらしい。レースのカーテンを透かして西日が射し、膝にかけられた毛布は温い。
「起きた?」
 台所から静かな声がかかる。ああ、と立ち上がり、毛布を畳んだ。小さなローテーブルには昨日借りたミステリー小説が置いてある。名探偵が人を集めて謎解きをはじめたあたりで記憶は途切れていた。
「悪い……どれくらい寝てた?」
「一時間ほど。疲れてたんだね」
「疲れさせておいてよく言う」
 白いシャツに包まれた背中へ呆れ混じりに返した。本棚の組み立てを手伝うと言ったのは唐沢だが、それが壁の一面を占拠するようなものだとは聞いていない。なまえが一人で暮らす部屋にはおよそ不釣り合いだった。
 フローリングが抜けるんじゃないかと言ったら、だから一階に住んでいるのだと返ってきたが、一階でも床は抜けると知らないのだろうか。
「しかも買うところからだ。俺がいなかったら運べなかっただろ」
「唐沢がいるから予定より大きなものにした、って言ったら」
「……まあ、いいけどさ。それ、晩メシ?」
「うん、ハヤシライス」
 ちょうどトマト缶を入れたところだったらしい。鍋に水とコンソメと、それからウスターソースを加えていく。昔、唐沢の母がなまえに教えた作り方だろう。実家はカレーライスの方が多いと聞いたことがある。
 台所に立つなまえに昨日の面影は薄かった。白いシャツに黒いパンツスタイルで化粧もしていない。同じなのは鎖骨まで伸びた髪と薄紅色の爪先だけだ。それにまた、面白くない気持ちになる。本棚を作ると決めていたからだろうし、リラックスしてるってことじゃないか、と思考の一部は窘めるが、それを素直に飲み込めるほど大人でもない。
「もう少しかかるけど、耐えられる?」
「きみは俺をいくつだと思ってるんだ……手伝いは?」
「いい。君と並んで料理するスペースはないもの」
 ラグビーを始めてから殆どの服を買い換えることになったのは記憶に新しい。そうでなくとも二人には覆せない体格差がある。
 大人しく完成を待つことにして、残すは謎解きだけとなった小説を開いた。トリックの予想を立てながらぱらぱらとページをめくり、見覚えのある文章を探す。あの切符は挟まっていたページに残したままだった。

 犯人が動機を語り始めるころになると太陽は街に沈み、部屋いっぱいにハヤシソースの香りが広がる。唐沢はなまえと違って小説の世界に没頭することはない。文字を目で追いながらも、片耳は彼女が奏でる音を聴いていた。今はサラダを拵えているらしい。
「ごはんよそってくれる?」
「はいはい」
 ぱたむ、と本を閉じて数秒後、見計らったように声がかかる。読み終えた小説を作ったばかりの本棚に納め、狭い台所に向かう。炊飯器は冷蔵庫横のラックにあった。上段には缶詰やパスタが雑然と置かれている。ふと、視界に引っ掛かったのはチョコレートだ。製菓用のタブレットタイプ――二月の台所にあるそれがどういうものかなんて考えるまでもない。
 なまえが唐沢にチョコレートを渡したのは小学六年生が最後だった。どこでも買えるような板チョコで、きみらしいと笑ったことを覚えている。彼女がそんなものさえも用意しなくなったのは、十四歳の気遣いの延長だろう。
 ――じゃあ、これは誰にあげるんだ?
「……皿は?」
 本当に聞きたいことは飲み込んで訊ねる。これ使って、と深めのパスタ皿と濡れたしゃもじが手渡された。炊飯器の蓋を開けると、蒸気がもわもわと立ち上る。視界を塞ぐようなそれを散らして、黙々と白米を盛り付ける。チョコレートの行方なんて唐沢には関係がないのだから。
「ぜんぶ盛ったの?」
 静かな声が珍しく跳ねた。手元の皿となまえを見比べると、食べられません、と言うようにふるふると首を横に振る。
「少食だな」
「普通だよ。ずっと運動部のヒーローだった君とは比べられたくない」
 ふむ、と頷きつつ片方の皿の白米を半分くらいに減らした。パスタ皿を渡すと、彼女の手によってつやりと煮込まれたハヤシソースがかけられる。
「……なまえの手料理を食べるのは小学生以来だな」
「そういえばそうだね」
 悪足掻きのような言葉が零れたけれど、なまえはいつもと同じように静かに笑うだけだ。それ以上は何も言えず、サラダとコップをテーブルへ運ぶ。
 とん、となまえがハヤシライスをテーブルに置いた。飴色に炒められた玉ねぎと牛肉はトマトベースのソースに煮込まれて見るからにやわらかく蕩けている。きっちと半分に分けられた白米との境目が彼女らしい。
「いただきます」
 斜め横になまえが座るのを待って、ぱちりと手を合わせスプーンを突き立てる。いただきます、少し遅れた静かな声が呟くのを聞いてからひとくち食べた。玉ねぎの甘みとトマトの酸味が重なり、ウスターソースと赤ワインのコクと香りが広がる。牛肉は噛めば旨みが染み出し、ときどき玉ねぎのしゃくりとした食感に行き当たる。白米との相性は言わずもがなだ。
「うまい」
「それはそうでしょう。おばさまのレシピだもの」
 確かに食べ慣れた味には違いないが、なまえがつくったものはより甘い。それを正直に告げると原因を考え始めそうだったので「自分でつくったときはこうはならなかったよ」と賞賛を畳み掛ける。
「そうだ、レシピのお礼を伝えておいてくれる? みんなにも好評だったって」
「……ああ、伝えておくよ」
 ちょうどひとくち食べたところでよかった、と思う。他に誰がこれを食べたんだ――油断するとそんな言葉が零れ落ちそうだった。

「洗い物やるよ」
 食べ終えて、空いた皿を重ねる薄紅色の爪先にそう声をかけた。
「きみはゆっくり休んでいるといい」
「こちらの台詞。家主はわたしだよ。君はお客様」
「お客様に本棚を作らせといて、今更だろ?」
 食器をひとまとめに攫って立ち上がれば、頑固なところのある幼馴染みも立って後をついてくる。
「やるってば」
「俺がね」
「……唐沢は頑固だ」
「きみが言うか」
 フッ、と鼻で笑ってシンクに皿を置き、水で軽く汚れを落とす。濡らしたスポンジに洗剤を垂らしてくしゅりと泡立てた。
「もったいないだろ」
 なまえの顔を見ずに告げる。
「せっかくきれいなのに」
「きれい」
「爪」
「つめ」
 まろい声が反芻するように呟く。唐沢の言葉をうまく飲み込んでいない様子が新鮮で、でもやっぱり面白くなかった。その無頓着さが、昨日の服装も薄紅色の爪先も唐沢のためではないと証明するようで。
「……よく、気が付くね。爪なんて人間のからだのうちの、ほんのひとかけらみたいなものなのに」
 数秒でいつもの調子を取り戻したなまえが感心するように言う。
「昨日は服の感じも違っていたから」
 なるべく感情を滲ませないように言葉を紡ぎ、洗い物に集中する。乾いたハヤシソースは汚れが落ちにくい。
「そう……本当に洗い物を任せていいの?」
「ああ」
「ありがとう」
 礼を言いながらもなまえは唐沢の隣に立って、洗い終わった端から布巾で拭きはじめた。すぐ近くにある熱がちらちらと動くので、水が跳ねないように少しだけ蛇口の勢いを弱める。
「やっぱり狭いね」静かな声が囁いた。
 全て洗い終えて、スポンジに残った泡を流す。ぎゅっと握り込んで水を切ればじんと指先がかじかんだ。なまえは最後のグラスを布巾で包み、そっと水気をとっている。
 その背後にあのチョコレートが見えた。かすかに漂う甘い香りが、心をざらりと撫でている。どろりとした熱が心臓に流れ込んでいく。
「……仲がいい男がいるのか?」
 言葉はついに零れた。けれど、どうして、という言葉を期待していたのだと思う。どういう意味かわからない、という反応を求めていた。
 指先を冷水に晒したまま隣を窺う。ぱちりと瞳を瞬かせたなまえは、しかし予想を裏切り「ああ」と頷いてみせた。
「よくわかったね」
 沈黙はどうにか一秒に抑えられた。
「……チョコレート、棚の上の。この時期に、それも製菓用を買ってあるなんてそういうことじゃないかと思ってね」
「名探偵みたいだ」
「証拠を隠しもしない犯人には褒められたくないな」
 痺れるほどの冷水で手を洗う。泡が残っていないことはわかっていたけれど、まだその温度に触れていたかった。
 なまえが隣にあることを許した男はどんな男だろう。彼女が求めたのはどんな存在だろう。少なくとも自分より優しくて、頼もしくて、彼女を守れて、甲斐性があり、彼女の性質を理解している人間でなければ許せない――でも、自分よりも何もかも優れている人間であっても、きっと祝うことはできない。
「モリアーティの才能がないのかもしれない……でも、唐沢はひとつ見落としている」
 薄紅色の指先が蛇口をひねり、水を止める。差し出されたタオルを払うわけにもいかず、受け取って滴る水を拭った。
「何を」
「わたしと仲がいい男のひとは君くらいしかいない」
 タオルに埋もれた手がびくりと跳ねる。ばっと顔をあげれば、淡く頬をゆるめるなまえがいた。分かりきった、知り尽くした真理を語るように、彼女はそれを紡いでみせる。
「……じゃあ、チョコレートは?」
「友達と交換するのが最近のはやりだよ」
「それは中学生のときから流行っていたけど」
「そうなんだ」
 唐沢の動揺をかけらも気にせず一人だけ平淡な様子は面白くない。面白くはないが、奇妙な安堵が勝った。君くらいしかいないは、君しかいない、ではないけれど。彼女にとって己が特別であると知るたびに、くらやみはやさしく照らされる。
「友達っていうからには俺の分もあるんだろうね」
 正しく軽口として紡ぐ。なまえは不思議そうに瞳を瞬かせた。
「嫌いなんだと思ってた」
 彼女の思い込みは予想の範疇だ。やっぱりか、と納得すれば余裕も出てくる。ひとつ深呼吸をしてから笑みをつくった。
「昔の話だよ」
 じっ、と視線が絡んだ。慮るような色を瞳に見つけ、綺麗につくったはずの微笑みが苦笑に変わる。唐沢が思っていたよりも、なまえは重く考えて心配していたのかもしれない。それこそアレルギーのようにでも受け止めていたのか。
「……でも」
 睫毛が、かすかに震えた。
「でも、高校生のときだって受け取っていなかったでしょう」
「ああ……そのときは付き合ってた子がいたんだろうな」
「唐沢もそういうことを考えるんだね」
「きみは俺を何だと思ってるんだ。不義理なことはしないさ」
「君が言うと白々しくなるのはどうしてだろう」
「さあね……こら、真剣に考え始めなくていい」
 思考に沈みかけたなまえを呼び戻す。そんなことさえ考える対象とする彼女があまりにもらしくて、自然と笑みが浮かぶ。なまえは不服そうに眉をちいさく寄せ、それから冷蔵庫の扉を開いた。白い光が溢れて、薄紅色の爪先がそれを取り出す。
「……ほんとうに、食べる?」
 皿の上にあったのはブラウニーだ。長方形に切り出されたチョコレート色の地層に、化石のようなクルミが散らばっている。切り口は、すこしいびつだった。
「……きみがつくったのか?」
「練習に。まずくはないと思うけれど、美味しいかはわからない……無理には、食べなくていいけれど」
「食べるよ」
 彼女の言葉が終わらないうちから噛みつくように告げる。
 ほっとしたような、呆れたような淡い笑みが頰を撫でた。機微に聡い自負はあれど、それがどのような感情に拠るものなのかいまいち判別がつかない。
「……紅茶を淹れるから座っていて」
 静かな声が促す。狭いと言われる前に台所を出て、ローテーブルの傍らに腰を下ろした。
 だから、耳に集った熱は気付かれずに済んだはずだ。

 フォークへ伸ばした指先を、なまえは緊張した面持ちで見つめていた。ハヤシライスのときにはあった自信もブラウニーにはないらしい。
 小さめに切り分けて放り込めば、濃厚なチョコレートの甘みが広がった。しっとりとした食感に、さくさくと香ばしいクルミがアクセントを加える。ざらざらと舌に残る砂糖を、あたたかな紅茶で流す。
「……うまいな」
 唐沢には甘過ぎて胸が焼けそうだが、まずくはない。練習というからには評価を気にしているだろうなまえに贈るべき言葉だと思った。フォークと小皿が触れ合い澄んだ音を奏でる。
「よかった」
 静かな声がぽつりと落ちる。くちびるはかすかな笑みをつくり、安堵の吐息がおりた。
 なまえは、唐沢が弓手町駅のホームで捨てたチョコレートのことをずっと覚えていた。贈る立場だった彼女は、あれをどんな気持ちで見ていたのだろう。十四歳の唐沢は、気遣われているとはわかっても、彼女を気遣う余裕はなかった。後悔がちくちくと胸をつつく。
 いつもより少しだけ心許ない沈黙をチョコレートの甘みで埋めた。隣り合う肩がふれることはなく、ふたりの呼吸も鼓動も重なることはない。熱とも言えない温もりが、何もない空間に揺蕩っている。
 ――なまえといられる春は、あとどれだけ残っているだろう。
 不意に浮かんだ問いへの答えを出したくはない。けれど事実として、同じ制服を着て、同じ教室で、同じ授業を聞くことは、もう二度とないのだ。
 真面目に授業を受ける横顔を、こっそりと見るのが好きだった。彼女が見つけた書庫をふたりだけの隠れ家にして、ときどき一緒に過ごした。ひとりで使うときもあったけれど、そこには必ず彼女の気配があった。
 もしも同じ大学に通っていたなら。それでも、早いか遅いかの違いでしかない。道はもう分かたれていて、あとは離れるばかりなのだとわかっていた。


 二月が春なんて嘘だ。寒々とした空気が肌を刺し、骨にまで滲みるようだった。凍えるような寒さにかえって口が回る。
「明日は映画館の前で待ち合わせでいいか?」
「うん。映画を見たあとは?」
「そうだな……今度は俺の買い物に付き合ってくれ」
「わかった。役に立てるかはわからないけれど、荷物持ちくらいにはなれる」
「持たなくていいから」
 抑揚の薄い声は夜の静寂に過不足なくとけこむ。明日は三門から少し離れた大きな商業施設に行く予定だった。
 すっかり暗くなった住宅街を二人で歩く。バス停まで送っていくと言って譲らなかったなまえにはどうしたものかと思ったが、幸いにもバス停までは徒歩三分で、夜もそれほど深いわけではない。それよりもバスを逃して部屋に長居する方が問題のような気がして、唐沢が折れるほかなかった。彼女はそんなこと気にしてもいないだろうが。
「おめかししておいでよ。昨日みたいにさ」
 軽い口調で告げた。なまえのあの装いはきっと唐沢のためではなかったけれど、それでも自分のためだと思えれば癒えるささくれがある。
「おめかし……子どもに言うみたいだね?」
「子どもと話したせいかな」
「いつ」
「喫茶店できみを待ってる間。マスターのお孫さんがやってきてね」
「そうなの。どんな話を?」
「マスターの作るケーキが美味しいって話。きみは食べたことある?」
「あるよ。……マスターの手作りだったんだね。お孫さんがいることも知らなかった」
「可愛い子だったよ。ちょっと背伸びしててさ」
 喫茶店の孫娘と話した時間を思い出すと、少しだけ緊張が解けた。少女をかわいいと思ったのは、出会った頃のなまえを思い出すからかもしれない。年齢ぐらいしか共通項はないが、くすぐったく思い出をなぞられた。
「唐沢はいろんな人と仲良くなれるね」
「きみも含めてね」
「……そうだね、唐沢は人のよいところを見つけられるひとだから、何も不思議じゃない」
 思いがけず真っ直ぐと褒められて、言葉がでてこない。まあね、と答えながら視線を下げた。歩幅を合わせるのが苦でないのは彼女だからだ。
「友達もたくさんできたでしょう」
「おや、嫉妬かい?」
「どうして嫉妬するの、友達に友達ができて」
「冗談だよ」
 だって俺はきみの友達に嫉妬する人間だから。と、言えたら楽だが、なまえには理解しがたい感覚だろう。昔から唐沢に恋人ができても『そう』と頷くだけで、嫉妬なんてものとは縁がない人間だ。彼女の正しさは、いつも胸の奥で燻る熱をやわらかに拒絶する。 
「向こうにはいつ帰るの」
 明日の予定を訊くような声音だった。唐沢も努めて平静に返す。
「明後日の夜には」
「慌ただしいね」
「ラグビーの練習が始まるんだ」
「そう……応援している。次に帰ってくるのは、また春休み?」
「多分ね」
 歩道の内側に囲ったなまえをちらりと見ながら頷いた。横顔は街灯に照らされ帳に隠れ損なっている。寂しげな表情は傍にいたころは殆ど見たことがなかった。
「でも会えるだろ。三門じゃなくても」
 励ますようににやりと笑えば、そうだね、と囁き声が応える。
「夏なら行けるかな」
「それまでにはレギュラーにあがっておくよ」
「簡単に言いますね」
「目標は高いほどいいって言うだろ」
「……楽しみにしてる」
 なまえもくちびるを持ち上げる。声と同じ静かな笑い方が好きだった。
 何となく、矢番海岸に二人で行った夜を思い出す。小説に挟まれた切符がずっと瞼の裏に残っていた。なまえも同じ夜を思い描いていたらいいのに。
「唐沢、上」
 不意に、なまえが人差し指を天に向けた。あの夜のように。
「星?」
「ううん、梅の花。咲いてる」
「ああ……本当だ」
 指差した先は民家の塀の向こう側。少しだけ外に出た枝はくねりと曲がり、薄紅色の梅がぽつりぽつりと夜に浮かんでいる。そうと意識すれば馨しい香りがあたりに漂っていた。
「もう春だね」
「にしては寒いけどな」
「でも、梅が咲いたなら春でしょう」
「そういうものですか」
 やわく笑みを浮かべた横顔にそれ以上の言葉は慎んだ。
 唐沢にとって春は苦いものだ。なまえとの距離が遠く離れる、憎らしい季節。けれど、彼女がそれをよろこび――あの夜も春だったと言うのなら。ほんの少しは好きになれるかもしれない。四月が来てなまえの周りに唐沢の知らない人間が集うのは、さほど仲がよくないとしてもやっぱり嫌だけれど。
「……ずっと二月だったらいいんだけどな」
「唐沢の誕生日が来ないね」
「それでもいいよ」
 そしたら、なまえを残して東京に戻らなくていい。
 言葉が音になる前に揃って足を止めた。バス停に辿り着いたからだ。街灯が一つと案内表示板があるだけの簡素なつくりだった。
「だめだよ」
 と、なまえがくちびるを尖らせる。
「誕生日プレゼントが渡せない」
 咎めるような声音に唇が弛んだ。冗談でしょうと笑うでもなく、真正面から拗ねている言葉だ。ずっと二月だったらいいと、半ば本気で思ったことが彼女には伝わったのだろうか。
「……それは大変だ。俺の誕生日を二月にしよう」
「生年月日の変更ってできるのかな。戸籍に関わることでしょう」
「冗談だ。真面目に返すな。……バス、あれかな」
「そうみたい」
 ちょうど、角からバスが曲がってくるところだった。ヘッドライトのまばゆさに目を細める。重たげな車体をぐらりと揺らして、バスが目の前に停まった。車内にはそれほど人もいない。空気の抜ける音とともに扉が開く。
「じゃあ、また明日……おやすみ」
 別れの挨拶としては不思議な感覚だった。修学旅行の夜以来に紡いだ言葉はふわりと二人の間を跳ねていき、微睡む夜に消えていく。おやすみ。その言葉は、何かやさしい熱を灯している気がした。
「おやすみなさい」
 扉が閉まる直前、抑揚の薄い円やかな声がそれを紡ぐ。頬はわずかに薄紅色に見えたけれど、寒さのせいだと笑うように二月の風が吹き込んだ。

 ▽△

 夢と現実のあわいで昔のことを思い返していた。
 十四歳。ふたりで、どこまでへもいけると信じた日。星を移してきたように瞬く瞳、神話を諳んじる静かな声、天へ伸びた指先、重なる呼吸。ずいぶんと遠い夜のこと。
 東京へ向かう列車は彼女と二人で乗った矢番海岸行きよりもずっと速く、景色はすべてを置き去るように流れていく。隣にいた彼女もいない。
 長いトンネルに入った。ごうっと音が曇り、暗闇に十九歳の唐沢が映る。
 友人という言葉の意味を、繰り返し考えた。そこにあるべき感情の名を指折り数えて、自分となまえの間にあるものと照らし合わせる。
 家族ほど人生に食い込んではいない。高校時代に付き合ったどの恋人に向けた感情とも違う。彼女の言葉はくらやみを照らしてくれるけれど、いなければ生きていけないわけではない。なまえは世界の中心ではなく、運命共同体でもないのだ。
 けれど――友人と呼ぶしかなくとも、名前のつけようのない熱があった。嫉妬と呼べるのかもしれない、独占欲と言うべきかもしれない、ただ恋とするには重すぎる、まだかたちのない熱。
「……きみは、」
 きみは、この熱を知らないだろう。
 ささやく声は轟く風と振動が隠してくれた。そうしていられる限り、きっとなまえはただひとりの特別な――どこまでも近くいつまでも遠い友人でいてくれる。
 トンネルを抜けた空に星はなく、薄く広がる雲の向こうにかすかな月影だけがあった。


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