白波に星をさがして

 カタンコトン、カタタンと列車が揺れる。
 古い暖房はごうごうと音を立てながらふくらはぎのあたりを熱していた。夕闇が微睡む車内に乗客は少なく、会話もない。斜め前の親子連れはすやすやと眠っていた。列車が奏でる音のほかには、時折、隣からページをめくる音が聞こえる。
 唐沢はシートにもたれながらぼんやりと流れていく景色を眺めていた。沈みかけた太陽が弱々しくも西の空を薄紅色に染めている。東の空には夜が訪れ、群青色の街にぽつぽつと光が灯る。
 過ぎ去っていく光を追うふりをしながら隣を窺った。肩に触れない長さに整えられた黒髪、タータンチェックのマフラーと紺色のダッフルコート、まるで他人のように隙間を空けて座る幼馴染み。唐沢をこの列車に乗せた張本人は、静かに本を読んでいる。
『海へ行こうか』
『星がきれいだから』
 抑揚の薄い平淡な声が紡いだ言葉を思い出す。繋いだ手のあたたかさも。
 幼馴染みは出会ったときから変わらない。それを厭わしいと感じた瞬間は確かにあった。けれど、彼女が変わっていなくてよかったと、今の唐沢は思っている。
 鞄から取り出した水筒の蓋をきゅるきゅると回す。口をつけないようにお茶を飲んだ。温かいそれをこくりと嚥下しほっと息を吐く。もうどこにもチョコレートの甘ったるさはなかったけれど、あの香りを思い出すだけで嘔吐きそうだった。

 ▽△

 ぱたぱたと誰かが駆けていく音がする。薄暗い放課後の校舎にはしゃいだような高い声が木霊していた。それを耳にするたび内臓がキュッと縮こまる。半ば物置と化した屋上へ続く扉の前、掃除用具や余った学習机と椅子が雑然と置かれた踊り場で、唐沢はじっと時が過ぎるのを待っていた。
 詰襟のカラーが首筋を掠めて痛い。ピーコートは寒さから身を守ってくれたが、つま先から心臓へ駆け上るような冷気には無力だ。かたかたと震える体が嫌だった。音を出すと見つかってしまいそうで、緊張が神経をがりがりと削る。けれど、ここでしばらく耐えていれば殆どの生徒は下校するはずだった。学年末テストを前に部活は禁止となり、校舎に長く残ることはできない。ここに隠れる理由となった女生徒たちも。
 また足音が聞こえる。息を殺し、耳を澄ませてその音を追った。一人だ。音が軽いから男ではない。すたすたと気負いなく歩く様子から、自分を探しているわけでもなさそうだ。
 そっと息を吐く――カタン、と。身動いだ拍子につま先が椅子を小突いた。足音がぱたりと止まり、ヒュッと息が詰まる。
 来んな、と思った。来るな、来るな、来るな!
 頭に鳴り響く声を口にすることはできなかった。ただ呆然と、一段ずつ階段を上る音を聞いていた。逃げ場がないところに陣取ったのは悪手だったと冷静な部分が告げる。足音は階段の半ばまで上り、顔が見えた。
「……唐沢?」
 現れたのはなまえだった。小学五年生のときに出会い、それからの二年は他の誰よりも話した静かで物知りな女の子。紺色のブレザーに、校則が定める長さのプリーツスカート、ブラウスのボタンを一番上まで閉じている。同じ中学校に進学したものの、一緒にいると揶揄われるのが嫌で、クラスが分かれたことをきっかけに距離を置いた。
「どうしたの、こんなところで」
「……来んな」
 低く唸るような声に近付きかけた足が止まる。久しぶりに顔を合わせたなまえの表情は硬かった。あるいは唐沢が彼女の気持ちを読み取れなくなったのかもしれない。
「……顔色が悪いよ」
 静かに潜められた声が落ちる。放っておいてほしいのになまえは立ち去らなかった。他の女生徒ならいつもと違う唐沢の様子に怯んでくれただろうに。いや、他の誰かが相手だったら、こんなぞんざいな追い払い方をしなかったかもしれない。
「体調が悪いなら、保健室に行った方がいい」
「……いいから帰れよ」
「……唇が青いね。どれだけここにいたの」
「帰れって」
 声量を抑えながらも力強く言い捨てる。臆することのない真っ直ぐな瞳は、ただじっと唐沢を見ていた。それから逃れるように踊り場の隅を見る。彼女の瞳に今の自分が映ることがひどく堪え難かった。
「――ねえ、そこで何してるの?」
 高い声は響いたのはそんなときだ。ぎしりと体が強張る。同じクラスの女子だ、と声だけでわかった。なまえを見やれば、振り返って階下を見下ろしている。
「もしかして、そこに、克己くんいる?」
 なまえが答える前に問いが重なった。彼女の表情は見えないが、唐沢は知っている。なまえは嘘を吐かない。その不器用なほどの正直さが好きだった、けれど。
 喉のあたりがキュッと締まる。息もできないような緊張がきりきりと内臓を絞った。
「……唐沢くん? 見てないけど、探してるの? 手伝おうか?」
 落ち着き払った声はふてぶてしいほど清々しく嘘を紡いだ。吃驚して声を出しそうになり唇を噛んで口を閉じる。
「いっ、いいよ、別に。見てないならいいの。じゃあね」
 高い声が響いて、慌てたような足音が遠ざかっていく。キュッと上履きが擦れる音がしたかと思えば「見かけたら教えてねっ!」と元気な声が付け足す。
 足音が十分に離れたのを見届け、なまえが振り返った。視線が交わる。嘘を吐いた彼女を、唐沢は初めて見た。
「……何で……」
 掠れた声が漏れる。なまえは何も言わない。唐沢を見つめていたかと思えばふいっと顔を逸らし、上ってきた時と同じように淡々と階段を降りていく。
 行かないでくれ、と声をかけそうになった。どこかへ行って欲しかったのに。唐沢は確かにそう思ったのに、サイズの合わないブレザーに覆われた華奢な背中が離れていく瞬間、心臓に痛みがはしった。なんだよ、と誰に向けるべきかもわからない悪態が滲んでいく。
 あの頃に戻りたい――冷えたつま先を上履きのなかで曲げながら思った。ほんの二年前までは、なまえと毎日のように遊んでいた。縄跳びのコツを教えて、ボードゲームをして、彼女の父親の書斎で昼寝して、唐沢の母と一緒にハヤシライスを作った。仲の良いクラスだったからか、二人の仲が変に注目されることもなかった。
 中学生になってからだ、と毒を吐く。制服が与えられて、なまえはスカートを履くようになり、まわりの人間関係もすべて変わった。揶揄うような噂に気付いて彼女を避けた。そのうちに唐沢の声は低くなり、手足はアンバランスに伸びていく。変化が落ち着いたかと思えば背がぐんと伸び始めて、それからだ。異性から好意を向けられることが急に増えた。
 最初はそう悪い気もしなかった。なまえのことを忘れるくらいには浮かれもした。求められると疲弊することを知らなかったからだ。望まれるまま振る舞うことも苦ではないと思っていたが、実像から懸け離れた期待は重く、身勝手だった。
 いつからか鋭いガラス片の切っ先を向けられているような感覚があった。熱っぽく窮屈で、言葉ひとつで容易く尖る危うい感情は、男友達が羨むほどいいものではない。今まで唐沢がなまえから受け取り、渡してきたものとは違う。
「……帰れって言われたぐらいで帰るなよ」
 しんと静まった踊り場で、小さくちいさく囁く。情けなくて瞳に熱が篭った。
 なまえと話したのは二年ぶりだ。入学した春はまだ会話も多かったが、やがて唐沢の方から避けるようになった。彼女の戸惑ったような視線を思い出して、きしぎしと心臓が軋む。
 揶揄われるのが嫌なら、そうさせないように立ち回ればよかった。正直で不器用な彼女には無理だろうが、唐沢ならできたはずだ。なまえを傷つけずに済んだかもしれない。
 だいたい唐沢ってなんだ、唐沢くんって。昔は克己くんって呼んでただろ。
 名前を呼ばなくなったのは自分が先なのに。それをわかっているから口にはしない。代わりに、ごめん、と掠れた声が落ちた。
 心から謝ったら、彼女は許してくれるだろうか。また前みたいに友達になってくれるだろうか――あの危うい感情を持たないまま、傍にいてくれるだろうか。
 見捨てられてから考えることじゃないよな、と自嘲が漏れた。

 校舎全体を震わせるようにチャイムの音色が響く。扉に嵌め込まれた磨りガラスから窺う空はまだ明るい。下校時刻にはなっていないだろうなと溜息を吐いた。
 チャイムが鳴り止み、敵を迎え撃つような気持ちで階段に視線を戻す。
「からさわ」
 かちりと目が合った。静かな声に名前を呼ばれ、はっ、と呼吸とも声ともつかないものが零れる。
 なまえが立っていた。タータンチェックのマフラーとダッフルコートを纏い、上気した頬はやけにあざやかに映る。なまえは手に持った靴をかたりと置いた。唐沢の外履きだ。もう片方の手にはおそらく自分のローファーを持っている。よく見れば足元は靴下だった。
「生徒玄関は人がいるから、裏口から出よう。下駄箱のところで待っていた人には、別のところに居たって言っておいたけど、また戻ってくるかもしれない。上履きは持ち帰って」
 淡々とした声に息切れがかすかに混ざる。廊下を走ったのだろう。校則をきっちり守って制服を着るような幼馴染みが、唐沢のためだけに。
「……なんで……、なんで戻ってきたんだよ」
「そうして欲しそうだったから……チョコを受け取りたくないんでしょう」
 どうしてそんなことを訊かれるのかわからないと言いたげに小首を傾げる。それから「お茶は持ってないの」と訊ねられた。まだ呆然とした心地のまま頷けば、なまえは自分の鞄から水筒を取り出して唐沢に差し出す。
「声がかすれてる。喉を痛めるよ」
 焦れたように言って、唐沢に水筒を受け取らせる。立って、となまえは唐沢の手を取った。熱っぽい体温がすっかり冷えた手と混じりとけていく。強張っていた体がぱきこきと音を立てて動く。立って並ぶと、身長差が随分と開いたことに気付いた。
「行こう」
「どこへ」
 噛みつくような言葉はわずかに残った虚勢だった。冷静に考えれば、唐沢たちには家と学校のほかに行く場所なんてないのに。なまえは悩むように視線を惑わせ、静かな声で告げる。
「……海へ行こうか」
「なんで」
「星がきれいだから」
 なまえが微笑む。瞳の熱が溢れてしまいそうだったけれど、ぐっと唇を噛んで耐えた。
 たとえどんな答えが返ってきたとしても、唐沢はどこへでも行っただろう。なまえが一緒にいてくれるなら、どこへだって。

 ▽△

 誰にも見られないように学校を出て、やっぱり隠れながら弓手町駅へ向かった。自動券売機で切符を買って、列車に乗り込んだのが数十分前。斜め前に座っていた親子連れが降りるのを見送りながら、扉の上の路線図を確認する。二人の目的地はまだ先だ。冬の太陽はいよいよ西へ落ち、宵闇があたりを包んでいる。
「……体調は大丈夫?」
 隣に座ったなまえがぽつりと呟く。その視線は開いたページを撫でていたが、彼女なりの気遣いだろう。
 弓手町駅のホームで唐沢はチョコレートを捨てた。色とりどりにラッピングされた、既製品も手作りも混ざったバレンタインデーのチョコレートだ。
 下駄箱の中に入っていたもの、机に紛れ込んでいたもの、呼び出されて渡されたもの、その場で食べるようにお願いされたもの、断れば泣かれて、口に入れるしかなかったもの――その全てを捨てた。身勝手な期待が形となったようなそれを、とても持っていられなかった。もしかしたら優しさや善意も含まれていたのかもしれないけれど、見分けることすら苦痛だった。
 唐沢がチョコレートを捨てたことに対して、彼女は何も言わなかったし、訊かなかった。へたくそな素知らぬふりが今は心地よい。
「……ああ。少し、気分が悪かっただけだ」
「そう」
 安堵したような吐息は扉が閉まる音に紛れる。列車は再び揺れ始め、二人を海へ運んだ。

 ざあざあと波の音が暗がりに響く。
 海に近い矢番やつがい海岸駅は無人駅だった。なまえが言うには、夏の間だけ有人駅になるらしい。改札の回収箱を横目に通り抜け、街灯の少ない道を黙ったまま歩く。すれ違う学生は見たこともない制服を着ていた。隠れる必要はもうない。
 ほんの数分で防波堤に辿り着く。その向こうにあるはずの海はひたすら暗く、遠くに船の灯りが見えた。波の音とベタつくような潮風だけが海岸沿いであることを主張する。
 ひゅるる、と風が高く鳴いた。頰に触れる空気はきんと冷えている。なまえの髪は風に乱され、その隙間から赤くなった耳がちらちらと見える。
 夜の海を、唐沢は初めて訪れた。ぽっかりと口を開けたくやらみが延々と広がり、風は内地よりも強く冷たい。何か恐ろしいものがくらやみを裂いて出てきそうだ。頭を過ぎる妄想の怪物を馬鹿らしいと笑いたいのにできなかった。心細いとはこういうことをいうらしい。
「上を、」
 一歩前を歩くなまえが人差し指をすっと天へ向けた。風に攫われそうな声をそれでも拾う。導かれるままに見上げて、あぁ、と吐息が零れる。
 星が瞬いていた。
 数えきれない、とまでは言えない。人里離れた山の頂ならともかく、灯りが少ないだけの海岸線だ。潮風がスモッグを散らしてくれるとしても、プラネタリウムの方がよっぽど多くの星を見れる。けれど――きれいだと思った。二人で学校を抜け出して、列車に揺られて、海にまできて見上げた星は、今まで見たどんなものよりも、きれいだった。
「この先に座れるところがある」
 歩き出した紺色のダッフルコートの隣に並ぶ。後ろを付いていくだけでは夜に紛れて見失ってしまいそうで。
「……暗いな、このへん」
「街灯の数が少ないのは夏しか人が来ないからかな……」
「いつもこんな時間に来てるのか?」
「一人では来ないよ。たまにお父さんが連れてきてくれる」
「ああ……おじさん、海が好きだもんな。生き物にも詳しいし」
 なまえの父親は海に関する研究をしているらしい。二人が昼寝に使っていた書斎もそのためのものだった。
「……夜の海、わたしは少し苦手だな」
「好きなんだと思ってた」
「嫌いなわけじゃないけど……たまに恐いから」
「今も?」
「今は、別に」
 わずかにゆるんだ微笑みが何を意味するのかはわからない。けれど、唐沢もそうだった。隣になまえがいるのなら、このくらやみも優しいものだと思える。
 座れるところ、とは砂浜に降りるための階段のことだった。腐食したポールの向こう側、潮風で劣化したコンクリートはぱらぱらと表面が剥がれている。街灯もあるにはあったが、故障しているのか暗いままだ。手摺りのない階段は降りず、その一段目に座った。寄せては返す波が緩やかな曲線を砂浜に残す。
「今日は三日月だね。星がよく見える」
 東を見たが月はない。
「西南西の方だよ」
 なまえが笑った。指差す方を見れば、低いところに笑う月がある。もう沈むところだね、と囁き声が付け足した。
 なまえは鞄を枕に寝転んだ。危ないぞ、と忠告を送れば、見やすいよ、と返ってくる。そういう話をしているんじゃないと言えば、歩道とは区切られているから、と静かな声が意固地に答えた。大人しそうな見た目をしておいて、外で仰向けになることに抵抗はないらしい。溜息を吐いて同じように寝転んだ。一人で首を痛めるのも面白くない。
 ちらりと隣を見れば、思いのほか近い位置に顔がある。唐沢のことなんて気にしていないように真っ直ぐと天を見ていた。頬も鼻先も赤く、呼吸だけが白白としている。
 波の音を聴きながら天を見上げた。しばらくそうしていると、目が慣れてきたのか暗い星も見えるようになった。小さな光の粒がちらちらと瞬いている。
「……星の名前、わかるのか?」
 なまえの方から話す気配がなかったので、唐沢から訊いた。うん、とかすかな声が応える。
「北極星がどこにあるかわかる?」
「いや……探したこともない」
「それなら、オリオン座のほうがわかりやすいかな。三つ、等間隔で並んでる星を探して。このあたり」
 天へ伸びた指がくるりと円を描く。その先を辿れば、なまえが言う星はすぐにわかった。
「見つけた」
「そこが砂時計のくびれになっている。横に倒したような……左下の、赤い明るい星がベテルギウス。そのまま少し下に視線を移して……あれがプロキオン、二つを結んだ線の真ん中から横に行って、いちばん輝いているのがシリウス。これが冬の大三角」
「ああ、あれか。授業でやった」
「そう。ここからうさぎ座も辿れるよ。君の、ねこ座も見える」
「どこ?」
「オリオン座に戻って探すのがいいかな」
「へえ……すごいな、詳しい」
「知ってるものしか言ってないから」
 悪戯めいた声が応える。少し意外に思えて隣を窺えば、なまえも唐沢を見る。くちびるをゆるめただけの微笑み。
「十二星座と、代表的なものだけ」
 星を宿したような瞳だ、と思った。ずっと眺めていた星が空から移ってしまったんじゃないか、とか。誰かに聞かれれば笑われそうな考えが過って気恥ずかしい。
「……十二星座っていえば、みかづき座ってなんであるんだろうな。月はもうあるのに」
「……確かに。星座は神話が元になっていることが多いけど……どうだったろう……」
 そういえば、この幼馴染みは思考の渦に落ちる癖があった。隣で寝転ぶ彼女が別の世界に意識を飛ばし始めたことに気付いたが声はかけない。かけられない。唐沢の他愛のない一言を、ひたむきに考える横顔から目が離せなかった。
 肩につく髪は切るか、結びましょう、と生徒手帳には書かれている。スカートは膝が隠れる長さで、靴下は白か黒か紺色の無地。ブラウスのボタンは一番上まで留めて、セーターはブレザーからはみ出さないように。それら全てをきっちりと守る彼女は、野暮ったいと言われればそうなのだろう。男友達との会話のなかで彼女の名前があがったことは一度もない。唐沢もおそらく、なまえをかわいいと思ったことはなかった――けれど。
 きれいだな。
 ぽつりと胸に落ちた言葉が熱となって広がる。星ごと夜を映した瞳も、それを縁取る睫毛も、赤らんだ頬も、白く烟る吐息でさえ。なまえをかたちづくるもののすべてが、きれいだと思う。ふれることを躊躇うような清廉さは、真っ新なノートを前にしたときの気持ちに似ていた。
「……ごめん」
 掠れた呼吸とともに言葉が落ちる。いま言わなければ一生言えない気がした。神話を紐解くのに忙しかったはずのなまえが、ぱちりとまばたきを零して戻ってくる。
「靴を持ってきたお礼が先じゃないかな」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 なまえが笑う。静かに、けれど確かに。
 それだけで、彼女のなかで自分はずっと友達だったのだとわかった。
 ふっと緩んだ唇から熱い吐息が空へとける。じんと滲んだ瞳を隠したくて星を見上げた。深まる夜のなか、星はさらに輝く。
「ねこ座だっだよね」
 爪先が星を指す。北極星はいらなかった。その静かな声と爪先さえあれば。知らないうちに重なる呼吸が、このままずっと続けばいいのにと思った。

「そろそろ帰ろうか」
 と、なまえが穏やかな声で告げる。
「あんまり遅くなると怒られるし」なんて暢気に言うので「もう遅いだろ」と笑った。
 吐き出す呼吸は夜に馴染んで、肌はつめたくなっている。不思議と寒さはそれほど感じなかった。
 矢番海岸駅に戻り、公衆電話からそれぞれの家に連絡を入れる。思った通りに受話器から叱咤が飛んで、唐沢は笑ったがなまえはしょんぼりと眉を下げた。ごめん、と絞り出すような謝罪は唐沢に向けられている。自分のせいで唐沢が叱られると思っているらしい。逆だろうと苦笑しながら列車に乗り込んだ。連れ出させたのは唐沢だ。
 列車は殆ど貸切だったが、どちらからともなく隣に座る。扉が音を立てて閉まり、車輪は滑らかにレールを辿る。カタンコトンと響く振動に眠気が顔を出すが、寝過ごすわけにもいかない。弓手町駅には家族が待ち構えているだろう。駅に着くまでに上手い言い訳と謝罪を思いつきたいところだ。
 なまえはやっぱり姿勢正しくシートに座り、ぼんやりと路線図を見上げていた。駅名の意味でも考えているのかもしれない。
 唐沢も、なまえのことなんて気にしていないみたいに窓へ目を向ける。
 白白とした蛍光灯の光が遠く外へ広がり、ガラスは夜に二人を映していた。


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