六等星のきみ

「一人暮らしには慣れた?」
 慎重な手つきで珈琲にミルクを落とし、幼馴染みは唐沢に問いかけた。抑揚の薄い静かな声は誰も訪れない書庫で紙片をめくる音に似ている。薄っすらと埃の積もったそこは高校生のころの隠れ家だった。
 ほんの一年前に別れを告げた場所を思い浮かべながら「まあね」と返す。ことりと置かれたミルクピッチャーをたちまち攫って、残った分を自分のカップに注いだ。備え付けられたスプーンでぐるりと混ぜる。
「なまえこそどうなんだ?」
「まあ、おおむね。唐沢と違って実家も近いし」
「ちゃんと食べてる?」
「……お母さんみたいなこと言う」
「お母さんみたいな心配させないでくれ」
「……善処します」
「頼むよ」
 円やかな色合いとなった珈琲に口付ける。まだ熱く舌がじんと痺れた。なまえもカップを持ち上げたので「熱いよ」と忠告を送る。
 わかっている。そう言いたげな視線が刺さって小さく笑った。
 なまえがふうふうと珈琲を吹き冷ます。淑やかなジャズと珈琲の香りが沈黙を覆っていた。カウンターの内側では老紳士がグラスを磨き、常連客らしき男と話している。客が少ないのは平日だからだろう。カレンダーでは春を迎えた二月、学生にのみ許された春休みの真っ只中だった。住宅街にひっそりと佇む喫茶店は、唐沢が三門を離れている間に幼馴染みのお気に入りとなったらしい。
 ようやく珈琲に口付けたなまえが頬をゆるめる。美味しいものを食べるときに一番いい顔をするのは変わっていない。――けれど。カップを支える指先を見た。整えられた楕円形は淡く薄紅色に染まっている。唐沢の記憶にない艶めく色だ。
 伸びた髪は丁寧に梳られ、ほっそりとした鎖骨にかかっていた。柔らかな素材で仕立てられた春色のワンピースも、防寒性に乏しいフラットパンプスも、全てが見慣れない。カップに薄く移った口紅にさえちりりと胸が騒ぐ。
 ――俺といたときはそんな格好しなかったくせに。
 気を抜くと棘の生えた声が溢れそうだった。誰のための装いなのかと問い詰めたくなるが、困らせるだけなのでやめる。それが自分のためと思うほど自惚れてはいない。
 なまえが唐沢を友人と定義していることは知っていた。小学五年生の出会いから高校まで同じ校舎で過ごしたことも偶然だと信じている。小学校と中学校はともかく、三門にいくつ高校があると思っているのだろう。
「大学の方はどうなんだ? 理系って忙しそうなイメージあるけど」
「そうでもないよ」
 カップを置いたタイミングを見計らい声をかける。なまえは市内に理系キャンパスがある大学の物理学部に在籍している。対して唐沢は東京の私大の社会学部だった。彼女がそうと信じた八年の腐れ縁は、呆気なく断ち切られたのだ。他ならぬ彼女の手によって。唐沢の通う大学にも物理学部はあったのに。
「一年生は般教と語学が中心だったから」
「どこの大学も初めは同じだな」
「基礎ゼミは実験とレポートがあって大変だったけど……唐沢の方が忙しい気がする。授業の他にラグビーもあるし」
「まあ、それは確かに」
 唐沢が大学でラグビー部に入ったのは将来を見越してのことだ。大企業の重役にはラグビー部出身が少なくない。後輩を支援する慣習が根強く、学生の身ながら伝手を得ることもできる。そう説明したときの『さすがだね』という素直な感嘆が後ろめたかった。幼馴染みがいない春の喪失感に半ば自棄になっていたのだ。夏休みに帰省もできないほど練習を詰められて少し後悔した。
「調子はどう?」
「まあまあだよ。次のシーズンからベンチ入りだ。二軍だけどね」
 軽い調子で告げる。なまえはぱちりと瞳を瞬かせ、不思議そうに小首を傾げた。
「……おめでとう?」
「ありがとう」
「ラグビーには疎いけれど、すごいこと、では」
「大学から始めたにしては上出来だろうな」
「でも……満足はしていない?」
 静かな声が唐沢の表情を読み解いた。よくわかってるね、と片頬を持ち上げる。唐沢の進学先はスポーツ推薦で入学する学生も多い強豪校だ。不利な要素はいくつもあったが、経験差を埋めるために費やした時間を思えば妥当だと思っている。一軍に上がった同期もいた。
「必ず出られるわけでもないからさ……きみを招待するのはまだ先になりそうだな」
「試合に呼んでくれるの」
「スタメンになったらね」
「楽しみにしてる。唐沢なら必ずなれるよ、努力家だもの」
「……俺を努力家って言うのはきみくらいだよ」
「そう? わたしは君より努力しているひとを知らないけどな……」
 言いながら何か思い出したらしい。くちびるがやわく閉じていく。瞳は唐沢を透かして遠くを見ていた。なまえは考えることを厭わない性格で、しばしば現実が疎かになる。その集中は年々深くなっていた。こうなると再び浮上するまで待つしかない。
 適温となった珈琲に口付けた。華やかな香りとキレのある苦味に、酸味は控えめでふくよかな甘みがある。老紳士が勧めるまま入れたミルクの円やかな口当たりが心地よい。
 目の前に座る幼馴染みをぼんやりと眺めた。
 きれいだと思う。化粧も服装も関係なく、思考の海に潜る彼女はきれいだ。しゃんと伸びた背筋に、呼吸と衣擦れの音だけを許す静けさ、伏せた瞳に落ちる睫毛の影。目を惹く華やかさがあるわけではない。そうと知らなければ見つけることもできないような、六等星の瞬きに似ている。どうしたって手が届かないところも嫌になるくらいそっくりだ。
 拗ねている自覚があった。なまえが唐沢に一言の相談もなく進路を決めたことに対して、もうずっと胸の奥が疼いている。ただの友人に口出す権利はないとわかっていても、相談して欲しかったと思ってしまう。身勝手な期待だ。ちっぽけな自尊心だけが唐沢の味方で、なまえから痛みを隠してくれた。
「唐沢」
 深海から浮き上がった声に呼ばれ「おかえり」と応える。なまえはきゅっと眉を寄せた。
「……怒ってる?」
「どうして」
「何となく……理由も考えたけど、どこで怒らせたのかわからなくて。ごめん」
 ふっと笑みがこぼれた。
 目の前にいる唐沢を放っぽり出して考えていたことが、唐沢が怒っている理由とは。鋭いのか鈍いのかわからない。真っ直ぐな瞳はじっと唐沢を見つめている。最初からそうしてくれたら、唐沢はそれだけで良かったのに。でも、それがみょうじなまえという幼馴染みだ。
 珈琲をひとくち飲めば深い味わいに包まれる。もう拗ねていないと言えば嘘になるし、痛みがあることも否定できないが、ぐずぐずと腐るものでもない。
「謝らなくていい。怒ってないから」
「そう」
 素直に頷き、ほっとしたように表情を和らげる。
 あらゆる問いへの思考を続ける幼馴染みは、そのくせ唐沢のことは無垢に信じた。あからさまな嘘には怒りもするが、唐沢が本心から紡いだ言葉だけは疑いも否定も返さない。そういうところに弱いのだ。
「それにしても、いい店を見つけたな。珈琲はうまいし雰囲気もいい」
「よかった。唐沢なら気に入ると思ってたんだ」
 くるりと会話の行き先を導いてやるとなまえがはにかむ。
「ここにはよく?」
「ときどきだよ。家からは遠いから」
「授業終わりには難しいか。友達も誘いづらいだろうし」
 なまえの通う理系キャンパスは東三門を越えた山の上にある。彼女がわざわざ実家を出て一人暮らしをしているのも通学の不便さが理由だ。春休みの間は実家と下宿先を行ったり来たりしているらしい。明日は本棚の組み立てを手伝う約束していた。練習がない貴重な休みの殆どをなまえと過ごすために使うことは教えていない。
「うん、まあ……」
 珍しく歯切れの悪い返答に「まさか友達いないのか」とひっそり抱えていた心配事がこぼれた。なまえはいつもの平淡な声で「いるよ」と答える。
「でも、いちばんは唐沢がよくて」
 ああ、そういう。
 呟くように返しながら珈琲を飲む。弛みそうな唇をどうにかして隠したかった。唐沢へ正しく友愛を捧げる彼女は、ときどき星屑のようにささやかな特別を落とす。その一つひとつを拾い上げて、誰にも触れられないやわらかなところへ集めていた。
 瞬く星の光は、夜を越えるための灯りとなる。天球に星は数えきれないほどあるのだろうが、唐沢にはなまえがいればそれでよかった。
「とっておきこそ人に教えない方がいいと思うけどね」
「教えられた人間が言うことなの」
「だから俺だけにしておけばいい」
 思案に惑う視線を追いかける。
 しばらくの沈黙を経て「唐沢はここを秘密にしておきたいの?」という結論に至ったらしい。そうだよ、と頷く。なまえとこの店に来るのは自分だけでいい。
「唐沢のとっておきもいつか教えて。交換条件」
「気が向いたらね」
「ずるい」
「ずるくない。きみだって自由意志だったわけだろ」
 釈然としない顔で珈琲を飲むなまえに、俺のとっておきはきみだ、と恥ずかしげもなく告げる度胸はなかった。何か取り返しがつかなくなりそうで。思考の海に潜る彼女がきれいであることも、無垢な信頼も、自分だけが知っていたいという欲は暴力にも似ていた。
「……大学は楽しい?」
 誤魔化すように訊ねる。なまえはうん、と頷いた。追及はしないことにしたらしい。
「授業も面白いし、教授も学生も色んな人がいるから刺激を受けてる。唐沢は?」
「楽しんでるよ。きみがいないと少し物足りないけど」
 ぱちり、と瞳が瞬く。なまえはじっと唐沢を見つめた。らしくないことを言った自覚はある。けれど焦れるような熱がかたちになる前に散らしてしまいたかったから。黙って視線を受け止めていると、色づいたくちびるがゆるりとほころんだ。
「笑うなよ」
「ごめん、おなじことを思っていたから。大学は楽しいし、友達はできたけど、唐沢に会えないのは少し寂しい」
 薄紅色の爪がカップの持ち手をそっとなぞる。瞼を飾るローズブラウンのアイシャドウは物憂げな表情によく似合っていた。唐沢から離れたのは彼女の方なのに――けれど、別離を惜しんでくれたと知って、ささくれた心が確かに安らぐ。なんてお手軽な機嫌なのかと頭の端で自嘲した。
「……きみ、さては俺のことが好きだな?」
「唐沢が先に言いだしたことだよ」
「俺がきみを好きなのはわかりきってることだろ」
 肩をすくめて笑ってみせる。なまえが枕詞に『友人として』をつけると見越してだ。
「わたしが君を好きなのは伝わっていなかった?」
 返事には動揺のかけらもない。つれない声音はそれがなまえにとって当たり前のことだからだ。唐沢へ信頼を傾ける彼女は眩しく、そのかがやきを大事にしたいと思う。
「伝わったよ」
 にやりと唇の端を持ち上げる。唐沢が揶揄ったことなんてお見通しだろう。
「そう、それなら良かった。……忙しいとは思うけれど、帰省したときは顔を見せて欲しい」
「きみも東京に来ることがあれば声をかけろよ」
「……道案内を頼んでもいい?」
 もちろん、と二つ返事で引き受ける。頼まれなくてもなまえを不慣れな街で一人にさせる気はない。彼女が喜びそうな博物館の下調べをしておこう、と心に書き留める。
「さて、この後はどうする? 夜は予定があるんだろ」
 珈琲は冷めつつある。夜までこうしていたかったが、優先されるべきは先約だ。
「うん、でも夕方のうちに駅前まで行ければ大丈夫」
「誰かと食事?」
「そう、基礎ゼミの友達が誕生日で……あっ」
 さっと顔が青ざめる。珍しい表情に眉を上げて彼女を見れば、慌てた様子で傍らに置いた鞄を覗き込んでいた。しばらくして落胆の吐息を漏らす。
「どうした」
「プレゼントを、家に置いてきた」
 珍しいな、と思う。唐沢の知る限りなまえが忘れものをしたことはない。いつもはしない失敗に自分でも狼狽えているのか、指先はまだ鞄のなかを探っている。
「取りに帰るなら付き合うよ」
「いや、アパートに忘れてきたから……」
「当てようか。今日は解散にして、一人で取りに帰っていい? だ」
 言いづらそうな顔に先制を打てばぎこちなく頷かれる。礼儀を欠くとは思いながらも、その友達にプレゼントを渡したい気持ちもあるのだろう。かといって唐沢を遠くまで付き合わせるのは悪いし、それに明日も会えるからといったところか。
 でも、そいつには四月になったらいつでも会えるだろ。言葉は飲み込んだ。なまえは唐沢の誕生日に手紙とプレゼントを送ってくれた。それを受け取っておきながら否定するのは彼女の誠実さに見合わない。彼女が誰かを祝いたいと思う、ひたむきできれいな感情を汚したくなかった。
「行ってきなよ。きみの友達も今日貰った方が喜ぶだろう。……でも、ここで待っていてもいいかい?」
 悪足掻きだと思いながら問いかける。なまえは眉を下げて戸惑いも露わに唐沢を見つめた。なまえが戻ってきてもさほど時間がないことはわかっている。
「遅くなるよ」
「いいよ。待っていたいんだ」
 なまえは少し悩んだようだが、やがて「唐沢がそうしたいなら」と頷いた。彼女はやはり、唐沢が心から紡いだ言葉だけは否定しない。
「なるべくすぐに戻ってくる」
「急がなくていいから転ぶなよ。ああでも、本を借りたい」
 残っていた珈琲を飲み干し、席を立とうとするなまえに声をかける。
 なまえはいつも本を持ち歩いていた。小説が多かったが、実用書やエッセイのときもある。今日も持っていたらしく「ちょうど唐沢も好きそうなミステリがあるよ」と表情を和らげた。厚みのある文庫本がテーブルに置かれる。
「じゃあ、またあとで」
「あとで」
 静かな声が一旦の別れを告げる。トレンチコートを羽織ったなまえが喫茶店から出て行くのを見送った。
 からんっ、とドアベルの軽やかな音とともに扉が閉じる。春と呼ぶには冷たすぎる二月の風が一瞬だけ頬を撫でた。肩の力を抜き、背もたれに身を預ける。
 基礎ゼミの友達の誕生日。彼女が紡いだ言葉を繰り返す。薄紅色の爪先も色づいたくちびるも、ひらりと揺れるワンピースも、全てそいつのためだと言うのなら――何一つとして面白くない。どうしてそいつなんだ、俺の方がよっぽどきみを知っているのに。悪態が溢れる前に瞼を閉じて細波を鎮める。
 唐沢克己はみょうじなまえという幼馴染みの友人だ。彼女はそう定義している。きっとほんの少しだけ特別な、ただの友人。唐沢にとってもそうだ。かつての恋人たちへ向けた感情と、彼女との間にあるものは違う。
 瞼を開き、深呼吸をひとつ熟してから珈琲をひとくち飲む。彼女から借りた文庫本を手に取った。ページの間から覗く紙片は栞だろうか、それを導に本を開く。
「――――、」
 そっと、息を呑んだ。
 活字の海に切符が漂っている。見覚えがあった。忘れるはずもない。ちょうど五年前、中学二年生の二月。彼女とふたりで海へ行き星を見た夜。あのときに乗った列車の切符だ。海沿いの駅の名前が印字され、使用済みの証として一部が欠けている。回収箱だけが置かれた改札は、切符を持ったまま通ることができた。
 なまえが切符を持ち続けている意味を考える。たまたま手元にあって、栞代わりにしているだけだろうか。彼女は、これをただの紙くずと思っているかもしれない。特別な理由なんて一つとしてないのだと言われても仕方ない。けれどもしも――そこに意味があるなら。
 あの夜が、なまえにとっても大切な思い出だとしたら。
 かすかに震える指で切符を撫でる。これと同じ切符を、唐沢もずっと持ち歩いている。この感情をどう呼んでやればいいのかわからない。よろこびと形容するには疼くような痛みがあった。
 ――そういうところだ、きみは、本当に。
 淑やかに流れるジャズの音色が囁きを優しく覆う。吐息がとける。じんと熱が篭る瞳に、きみが今ここにいなくて良かったとちいさく笑った。


close
横書き 縦書き