嘘つきの夜

「ごめんね」
 と、彼女はささやいた。
「心配をかけちゃったみたい」
 黒々とした塊が呼吸のたびに淡くゆれる。カーテンの隙間から差し込む細い月光は仄かに部屋を照らすが、闇を暴くほどのちからはない。
「でも、だいじょうぶだよ。もう少ししたら、また、ちゃんと元どおりになるから。そしたら、デートしようね」
 明るい声が虚しく響く。虚しい、ということに。彼女は気付いているのだろうか。
「元どおりってなんだ?」
 遊真が問えば、彼女はベールのむこうのほほ笑みをすこしも崩さないまま、くちびるをとじた。白い指先は枕の下から引き抜かれ、代わりに、遊真の服の裾をつまむ。彼女はその額を遊真の腰に寄せて「もとどおりは、もとどおりだよ」とささやいた。
「センパイは、なんで閉じ込められてたんだ」
 遊真の裾をつまむ指が震える。それは戸惑いでも否定でもなかったから、閉じ込められている自覚はあるんだな、と判断した。
「……ばかみたいなピタゴラスイッチがはじまらないように?」
「ぴたごらすいっち……」
「……おじが三門に帰ってくる、わたしとおじが顔を合わせる、奥さまがますます気に病まれる、耐え難く思われて、自分を傷つけるか、わたしを躾にいらっしゃる、だれかに庇われれば火に油で、ぜんぶだいなし。だから、そうなる前に、閉じ込められることにしたの。兄さんが鎖を持ち出してきたときは、どうしようかと思ったけど……よくよく考えたら最善の手段だものね。これがいちばん、平和的な解決。だれも傷つかない。時間が過ぎて、おじが東京に戻れば、もとどおり」
「……よくわからんが、センパイが割りを食いすぎでは、それ」
「平和ってそういうものでしょう?」
 それを否定する言葉を、遊真は持っていなかった。遊真の知る平和とは、これ以上は許容できないという損害の上で成り立つものだ。だから、ここまでなら損をしてもいいという彼女の判断を、間違ってるなんて言えなかった。間違っていて欲しかったけど。
「……その危害を加えてくるオクサマとやらをどうにかしたらいいんじゃないか?」
「だめ」
「なんで? 平和ってそういうものなんだろ」
「いちばん大事なの」
 ゆっくりと、彼女が起き上がる。繭のなかから這い出るように、絡み付いた嘘が解けていく。上体を起こし、両手でシーツにしわをつくりながら、羽化したばかりの蝶がそうするように、かすかな呼吸をこぼす。その貌にだけうすぎぬを残し、彼女は繰り返した。
「あのひとが、いちばん大事なの。だからこれでいいの」
 何も知らない子どもが、それでも頑なに、ひたむきに、愚直に、魔法を信じるような声だった。こぼれた夜がベールにとけていく。くちびるだけはほほ笑んでいたけれど、どんな顔をしているのかはわからない。
「……さっきの説明だと、奥さまがわるいみたいに、きこえたかもしれないけど、ぜんぜん、そんなことはないんだよ。やさしいひとだよ。この家で、いちばん、やさしくてまともで――だから……壊れてしまった、けれど、やさしいひとだったから、」
 シーツを掴む指先が震えている。くしゃくしゃに、白い地平が隆起するようにしわが寄る。遊真の心もそれと同じように踏み荒らされている気分だった。腹が立っていた。
「やさしかったら何してもいいのか? やさしくされたら、なんでも許さなきゃいけないのか? おれはいやだよ。センパイが、こんなふうに閉じ込められてるの。センパイがそれでいいって言ってても、いやなものはいやだ」
 間違っていなくても。正しくても。そんな取捨選択を迫られるところに彼女がいることが、嫌だ。嫌なのに、どうして彼女はそれを受け入れてしまうのだろう。そういう場所で生きてきたからだ、ということは、遊真自身がそうだから、わかるけれど。
 わかっていても許容できなかった。許せなかった。彼女を傷つけてきたすべてを、その傷を前に己は無力なのだと突きつけてくる現実を、許したくなかった。
「センパイは――なんで、いつもウソをつくんだ」
 怒りを滲ませた声に、彼女の肩がゆれる。夜のなかで呼吸しながら、首を横に振る。貌を覆うベールがゆれて、惑って、淡く透きとおる。
 彼女は、遊真を見つめていた。黒いベールのむこうで、その暗い瞳に、遊真の白い髪がぽつりと浮かんでいた。
「うそじゃないよ」
「ウソだな」
 彼女のくちびるから溢れていく黒い煙が、そうだと教えている。
「センパイが言ったんだ。自分はうそつきだって」
「……うん、」
 ひとつ、息を吸う。そうする必要のないからだになってからのほうが、意識的に呼吸をしているかもしれないと思った。けれど、これを告げるためには、ほんの一息の酸素がいるような気がしたから。
「――おれにも、センパイはうそつきに見える。はじめて会ったときから知ってたよ。おれのサイドエフェクトはウソがわかるから」
 かすかに、息を呑む音がきこえた。
 ベールの向こうでわずかに見開かれたガラスのような眼が、遊真の赤い瞳を見つめている。じっと絡めた視線を外さないまま、ささやく。
「センパイは、いつだってうそばっかりだったな」
 シーツに爪を立てる指先をそっと握った。遊真のちいさなてのひらにも収まってしまう、か細い指だった。窓辺から伸びた細い月明かりは小指にまで辿り着き、指輪のようにひかる。
 小指で交わした約束のことを、頭の片隅で思い出した。彼女は、よろこんでいた。
 あれが嘘だったなんて思わない。どれだけその言葉が黒い煙に覆われていても、彼女のすべてが、嘘でしかなかったなんて、思えない。それでも、それが確かに嘘だというのなら。父から受け継いだサイドエフェクトに、間違いはないのだというのなら。
「なにが、センパイにウソをつかせるんだ?」
 問いかければ、彼女は弱々しい力で遊真の指を握り返した。
 ふれあうてのひらの体温は、どちらも、つめたい。
 ベールのむこう、曖昧に隠れる眼差しの行き先は、遊真だった。沈黙を数えることもせずに、ただ、答えを待った。

「うそ、……嘘じゃないと、だって…………やだ、から……」
 どれほどの時間が経ったのかはわからない。もしかしたら、ほんの数秒のことだったのかもしれない。透明な声が夜におちて、静寂を弱々しく破る。
 その声は、その姿は、どこまでも透きとおる月のひかりに似ていて、どこか頼りなくて、迷子の子どもみたいで、だから手を離したくなかった。
 そうしてしまったら、彼女は夜が朝に追いやられるように、淡くたゆたうベールごと掻き消えてしまいそうだったから。
「……やなこと、たくさん、あるからっ……」
 涙が星のように落ちていく。
 嘘から紡がれた黒いベールが波打ち、その狭間に、彼女の顔が見えた。
「ぜんぶウソにしたいのか」
 どうして彼女は、何を言ったって言わなくたって、いつもいつも、嘘を身に纏っていたのか。
 きっともう心のどこかで気付いていたそれを、噛み締めるように、言葉にした。
 嘘にしたいのだ。なにもかもを。
 遊真の目は、それを嘘と自覚していない者の言葉は嘘に見えない。裏を返せば、それが嘘だと信じる者の言葉はすべて嘘になる。他者には明らかな真実も、すべからく黒い煙を纏って知覚される。
 だから、彼女はそういうふうに生きてきたのだろう。自分は嘘つきだから、何もかもがほんとうのことではないのだと。そう信じることでしか――生きてこれなかった。
 あらゆる言葉で。ささいな仕草にも。かさねる呼吸をつかってまで。
 このひとは、自分を騙し続けてきたのだ。
 ――嘘と一緒に、生きてきた。
 彼女はちいさく頷いた。わずかに目元を隠すだけとなった黒いベールが、その身に染み付いた呪いを示すようにゆれていた。
「やなことばっかりだったのか」
「……わたしの、」
 白んだくちびるがゆっくりと動く。
「わたしのいちばん古い記憶はね、」
 ほんのすこしだけ、その呼吸は黒く見えた。けれど遊真はそれを告げずに「うん」と頷いて指を握るちからを強める。彼女はちいさくほほ笑んで、訥々と語り始めた。彼女を嘘つきにした、狭い世界のことを。
「わたしのいちばん古い記憶はね、布団にきれいな女のひとが寝ていて、いぐさと線香のにおいがして、わたしのひざに、男のひとが縋りついてくるところなの。ねえさん、ねえさん、って、子どもみたいに、大人が泣きじゃくってるの。わたしは、自分のものではない服を着ていて、これぶかぶかでやだなぁって思ってた。彼に掴まれたひざが、いたいなぁって。でも言葉にはしなかった。だって、ねえさんはそんなこと言わないから。そんなこと言わないと、言われたから。……少しだけ開いた襖の隙間から、男の子がこっちを見ていた。彼はなにもしてくれなかった。ただ、籠に入った蝶を見るみたいな、目で、ずっとわたしを見ていた。ずっとずっと、ずうっと」
「ずっと、ねえさんって呼ばれてた」
「おかあさんだったんだね、わたし」
「あの部屋のなかでは……わたしは、わたしじゃ、なかったの」
「でも、奥さまが」
「あのひとだけが、襖をひらいて、なにをしているの、って叫んでくれた。わたしを子どもみたいに抱きあげて、あの部屋から出してくれた」
「とても――とても、うれしかった」
「あのひとは、おじがしたことに戸惑ってもいたけれど、わたしのことを、いつだって思いやってくれた。一緒にごはんを食べてくれて、外へ散歩に行ってくれて、眠れなければ一晩中だって抱きしめてくれた。やさしくて、どこか子どもっぽくて、すこし涙脆くて、繊細で、でも、ふつうのおんなのひとだった。とても、すきだった」
「でも……わたしは……わたし、は、いつも、そう」
「そこにいるだけで、だめなの」
「最初は、鏡のまえに座って、櫛で髪をといてもらってるとき。とつぜん、彼女が、櫛を鏡に投げつけた。木の櫛だから、鏡を割れるはずもなくて、ただ跳ね返って、わたしのほほをぶった。振り返ったら、彼女は、鏡のなかをじっと見てた。泣き出しそうに、怒ってるみたいに、じいっと見てた」
「しばらくしてから、気づいた。似てるの。あの日、わたしのひざにすがりついた男のひとに、わたし。母のほうが似てるんだけど、だっておじと姪なんだから、あたりまえだけど。あたりまえなんだけど」
「――似ているの」
「親子に、間違われだって、する」
「だれもそれを笑い飛ばしてくれなかった。みんな神妙な顔をして黙ってた。おじは、わたしをねえさんとは呼ばなくなったけれど、たまに顔を合わせると、数日離してもらえなかった。おまえはねえさんに似ているねって、ずっと、うれしそうに笑ってた」
「あのひとは、無理をして笑うようになって、でも、すぐに、笑えなくなってしまって。手もつないでくれないし、抱きしめてもくれないし、……顔を、見ても、くれないし。それで、どんどん、だめになって。わたし……わたし、けっこう一生懸命、いいこにしてたんだけど、だめだった」
「…………だいすきだったよ。いちばん大事だったよ。やさしいひとだったから。助けてくれたから。でも、そんなひとをわたし、傷つけて、壊してしまった――――産まれてきちゃった、から」
「気持ち悪いね。憎らしくて、恐ろしいね。許しがたいね。つらくて、くるしいね」
「そんなもの、愛したくなんてないよね」
「愛さなくていいもの――愛されなくていいもので、いたいね」

「――ごめんね、空閑くん。ぜんぶ嘘だよ」

「ぜんぶうそだよ。ぜんぶがうそならほんとうには傷つかないですむもの」
 夜を編んだうすぎぬは風もないのになびいていたけれど、夜はもう彼女のすべてを隠しはしなかった。その頬を伝う雫も、嗚咽に苛まれる呼吸も、遊真にはよく見えていた。
「でも、痛いものは痛いだろ」
 するりと肩を滑り落ちた髪を一房とって、その一本一本を慈しむように指のはらで撫でる。透明な涙にまみれた言葉たちは黒い煙を纏う嘘であることを差し引いても、聞き取りづらくて、彼女が抱えているものを十全に理解できたわけではないけれど。
「おれは、そういうの、もうないけど。ほんとうには傷ついてなくても、痛いものは、痛いんじゃないのか」
 心臓なんてどこにもない、痛覚をも遮断できるトリオンのからだで。それでも遊真の胸が、たまに、きしきし痛むみたいに。
「だってセンパイは、今でもそいつがいちばん大事なんだろ」
「……、……わかんない」
 彼女はくちびるにいびつな笑みをのせる。普段の完璧に整えたほほ笑みに比べると、ずいぶんと不恰好に。わかんないの、と迷子のような声が繰り返される。
「いちばん大事だったものが壊れて、もう二度と元には戻らないなら、もう、なにもかも壊れてしまったらいいのに、っておもってたよ……ぜんぶ背負ってくれる罪深い怪物がいないのなら――ぜんぶ壊しちゃうしかないねって、おもってたの。よるの公園で、空閑くんとはじめて会ったとき」
 ゆっくりとまばたきを落とし、まぶたのうらにあの夜の彼女を思い浮かべる。ガラスのような眼。ベールに隠されていない素のままの肌は白く、夜を裂く銀月のようにかがやいていた。なにもかも投げ捨てた人形のように無表情で、けれど薄皮一枚向こうに灼熱のような激情を孕んでいるように見えた。風になびく髪で途切れ途切れに断絶する横顔が――きれいで、目を離せなかった。
「でも、空閑くんが、やってきて。……今にも壊れちゃいそうなのに、へいきな顔して立ってたから。壊れてやんないよって顔、してたから」
 指先が絡む。空いた手が恐々と伸ばされて、そっと遊真の頬を撫でた。手のひらに頬を寄せ「そんな顔してたか?」と笑ってやると、彼女も吐息をこぼすように笑う。
 自分はそんな顔をしていただろうか――していたのかもしれない、と心のうちで答える。かけがえのないものと、再会の遠い別れをしたあとだった。長い時をともにした、自分の何もかもを知っている相棒だった。はてしない夜をともに歩いてくれる、唯一のものだった。その相棒がいなくなってしまったから、遊真はひとりで夜を歩いていて。
 そこで、彼女と出会ったのだ。
 遊真が彼女を見つけたように、彼女も遊真を見つけた。傷ついて、傷ついて、痛くてくるしくて、そんな彼女だから、あの日、遊真を見つけられたのだろうか。
「だから……いっしょに、いてくれたから……空閑くんと、話す時間が大事になった、から……」
 見えない傷を撫でるように彼女の指を握る。痛みを共有できたらいいのになと思う。空っぽのはずのあばらの内側がさっきからしきりに軋んでいる不思議を伝えられたら。あらゆる境界がとけてしまえば、痛みさえも分かち合えるかもしれないから。
「おれと?」
「……空閑くんと」
 彼女が閉じ込められることを良しとしたのは、元どおりになったあとに、自分と会うためだと気付いた。彼女は最初からそう言っていたのだ。元どおりになったらデートしようね。そのために、その未来を守るために、その未来だけを頼りに、今はこの部屋でひとりでいることを選んだのだ。
 何もかも壊してしまったら、遊真との時間もなくなってしまうから。
「……いちばん、大事なひとだったよ。でも、わたし、空閑くんのことが、すき……、すき、だったら、いいなぁ……」
「センパイは、おれのことがすきなのか」
「うん、……うん。空閑くんを、すきなの、ほんとうだよって、信じられない、かな」
「ほんとだろ」
「……どうして? だってわたし、うそつきなのに」
「ふむ。まあ、いまの言葉も、嘘みたいに見えたけど――」
 彼女の貌には、相変わらず、執拗に黒い煙がまとわりついていた。それは瞳を隠すだけで、淡く透きとおっていたけれど。遊真が見たかった彼女の顔は今も見えない。
 彼女も、もはやほんとうのことがわからなくて、自分のこころを信じられなくなっているのだろう。そうなってしまうくらい、彼女のからだには嘘がしみついている。
 それでも。
「センパイがこれからも、それがほんとうだったらいいって、思っててくれるなら、おれはそれでいいよ」
 あの日のうつくしい彼女よりも。いま目の前で泣いているおんなのこを、大事にしたいと思うから。顔が見えなくても――彼女をすきだと思ったから。
「すきだよ、センパイ。うそつきのセンパイだから、見つけられた」
 頬に添えられた彼女の手をとり、絡めた指先を引き寄せ、白んだくちびるに口づけをおとす。やわらかくて、つめたくて、塩のあじが、すこしだけした。熱を分け与えてあたためてやれないのが、やっぱりすこし、さみしかった。
「……え、」
 と、彼女が惚けた声をこぼす。そっとくちびるを離し、その顔を見た。色づいたくちびるは熟れるように潤み、頬にはどこからか集った熱がともっている。長い睫毛はなんどもなんどもしばたいて、月明かりに淡い影をつくる。瞳に、遊真がうつっている。
「――なんだ。センパイ、かわいいかおしてるな」
 ちいさく笑いながら、遊真は彼女の顔をもういちど引き寄せた。
 その呼吸を――彼女を蝕み、守りつづけた、夜に似た嘘を奪うように。


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