花落ちる水底

 おかしい、と遊真は赤い瞳を細める。睥睨するように見下ろしたロビーにある顔は、どれもこれもよく見えた。彼女の、何もかもを覆い隠す黒い夜のうすぎぬの片鱗は、どこにも見つけられない。
 彼女が、どこにもいない。
 遊真がそれに気づいたのは、B級ランク戦がすべて終わってからのことだった。最終戦の前は何かと身動きが取りづらく、ようやく彼女に戦果を報告しようと思っても公園には誰もいない。特訓が役に立ったぞと、そう言いたかったのに。
 連絡先も知らないことに、今さら気付いた。ボーダーから支給された個人端末からショートメールを送ってみても反応はない。彼女がそれを受け取ったかもわからない。
 真夜中の公園と、ボーダー本部。ただそれだけがふたりをつなぐ糸だったのだと、遊真は今さら自覚した。
 唐突な別れには慣れているはずだった。そんなことは、ありふれた日常だったから。いちいち気にしていてはこうして立っていられないことも、わかっていた。けれど。皮膚の内側。空虚なはずのそこに、ふつりと弾けるものがある。どこからか溢れて、沸いて、ぐらぐらと揺れる。
「あらふねさん」
「おお、空閑か。お疲れさん」
 見知った顔へ走り寄れば、気安い仕草で手を振られる。どうも、と返してから早速本題を切り出す。
「――センパイ、見なかった?」
 それを訊ねた自分はどんな顔をしていたのだろう。小さく息を呑んだ荒船が「そういや最近、見てないな」と呟く。それから端末で誰かにメッセージを飛ばした荒船は、彼女が風邪で休んでいることを教えてくれた。本人は音信不通であることも。
「なるほど。教えてくれてありがとうございます」ときちんと礼を言ってから、
「さて。個人戦する?」と重ねて問いかける。
 荒船は「いいぜ」と端的に返した。それから遊真の髪をわしゃりと撫でて「せいぜい好きなだけ切り刻んでみろ」と唇に挑発的な笑みをのせる。だけどその目は、困ったように、悲しむように、遊真を見つめていた。
「……やさしいね、あらふねさん」
「損な性分だろ」
「うん」
「あっさり頷かれるとそれはそれでムカつくな」
 唇を不満げに曲げた荒船と個人戦のブースへ向かう。遊真の隣に並んだ荒船が「あいつの家、教えた方がいいか?」と問う。遊真の方は見ないままだった。だから遊真も前を向いたまま、答える。
「知ってるから大丈夫」

   ◇

 三月の夜は、すこしだけ浅い色をしている。ひとり夜を歩きながら思い出したのは椿の花だった。遊真は、彼女と二度にわたりその花を見た。
 一度目は、はじめてベールのない彼女の顔を見たとき。

『空閑くん』
 と、ガラスのような眼は隠れ、ほほ笑みが向けられた。遊真は思わず相棒の声に耳を澄ませて、それからもうこの癖は直さなければならないのだと思い直した。
 昼間に降った雨のせいか、つめたい空気の満ちる夜だった。停滞した水底で愚鈍な魚が漂うように、夜のなか遊真がゆっくりと近寄るのを、彼女はぼんやりと眺めて待っていた。
『なにしてるんだ、センパイ』
『空閑くんこそ何してるの』
『ふぃーるどわーくってやつだ』
『そう、つまり散歩だね』
『そうともいう』
 ふふふ、と笑みが落ちれば、目元を覆う夜のうすぎぬがゆれた。
『センパイは?』
『わたしは……』
 はく、と言葉の代わりに黒い煙が落ちる。
『……わたしも、散歩だよ』
 嘘だった。嘘だけど、そのときにはもう彼女が常に嘘をついていることを知っていたから、遊真は何も言わなかった。ただ、だからこそ、まるで虚像のようにあらわれた、嘘を身に纏わない彼女の横顔が、頭に焼きついたことを自覚する。
『空閑くんは、ひとり?』
『……うん。ひとりだ』
『そっか。大変だったね』
『なにが?』
『大規模侵攻。きいたよ、特級戦功だって。すごいね』
『どうも。……でも、おれだけの成果じゃないよ。相棒のぶんも、あるから』
『……そうなんだ』
 そう応える彼女の声に、ほんの一瞬、かすかなゆらぎがあった。
 彼女はちいさく息をすって、
『おつかれさま』
 と、ささやく。
 やさしい声だった。それで何もかもが救われるわけでも報われるわけでもなかったけれど、夜露がそっと地面を湿らせるように、あるいは滴る雫が凍りつくことなく朝を迎えるように、どこかあたたかく、やわらかに受け止められる声だった。遊真とその相棒のことを何も知らない人の言葉なのに。何かが温もるような、潤うような、不思議な心地を持て余しながら、遊真は『ところで』と呟く。
『ここで何してたんだ?』
『小休憩、かな……椿をね、みていたの』
 すっと白い指先が伸ばされる。公園の隅に黒々としたかたまりがあった。トリオンでつくられた眼球は夜目も効く。彼女は『ちょうど咲き始めたところみたい』と淑やかな声と夜をこぼし、そちらへ向かって歩いていく。なんとなく、その後を追った。
 濃い緑色の葉にぽつぽつと赤い花が咲いている。幾重にも重なったベールを一枚一枚剥いたような、やわらかな花弁だった。中心の、まだ開ききらない花弁の奥に、途方もない何かが隠れていそうだと思った。
 ついさっき見たばかりの、嘘を纏わない彼女みたいに。
『花が咲くとうれしくなるの』
 そっと花をふれる指先は赤子の産毛を撫でるように繊細だった。絶え間なく夜のうすぎぬを紡ぎながら、彼女はほほ笑む。
『うれしくなる、ということにしたら。いつだって笑っていられるものね』
 まるい爪が花弁にやわく引っかく。花には爪痕ひとつ残りはしないけれど、きっとそのとき、遊真のこころにはやわらかな引っ掻き傷が生まれたのだ。

 白い椿はまだそこにあった。
 ぽつぽつと数えられる程度に咲く花は、既に爛れたようにふちから変色をはじめている。根元には先に死んでいった花たちの名残があった。ほとんど土に融解しつつも、萎びた花弁がかすかに見える。緑の闇に佇むプレハブ小屋に灯りはなく、ひっそりとした静寂が満ちている。
 遊真は闇と静寂のなかに潜みながら、これは不法侵入ってやつだな、とかんがえた。前は彼女を送り届けるためという大義名分があったが、今は誰にも招かれていないのに、ここにいる。
 あの日と同じように塀をかるく飛び越えて、母屋には近づかず一直線にこのプレハブ小屋を目指して。遊真は、目的地の直前で足を止めた。この行いが彼女の望むものであるとは限らないから。迷惑だと思われるかも、しれないから。
 ――でも。それが、どうしたというのだろう。
 彼女が望んでいないとして、だけどそんなことは何一つ関係なかった。だって遊真がここにいるのは、遊真がそうしたいからだ。
 彼女に会うと決めたのは――遊真だ。
 わずかなためらいを、思い描いた声とともに散らす。
 プレハブ小屋の前に立ち、目に映ったものにわずかに表情を尖らせる。ドアノブには銀の鎖が巻かれていた。誰も立ち入ることは許さないというように、執拗に締めつけられた鎖と南京錠が、扉を封じている。扉や窓の隙間からはひとつの光も漏れず、あたりはしんとしている。中に誰かがいる気配は、ない。
 遊真はひとつ呼吸をおとして、ボーダーのトリガーを起動した。指先から細く生やしたスコーピオンを南京錠の鍵穴に入れる。レプリカがいればな、とか。親父はどこで覚えたんだろうな、とか。そんな益体のないことを思いながら。カチリ、と錠が外れる音をきいた。じゃらじゃらと音を立てて鎖をほどいていく。
「センパイ」
 扉を開けて、囁くように彼女を呼ぶ。部屋はやはり暗かった。
 否――黒いのだ。
 べったりとペンキをぶちまけたように、闇色の繭のなかのようにどろどろと、何もかもが黒く塗り潰されている。それが実在しない黒であると、直感で悟った。
 一歩、踏み入る。黒がゆらめく。扉を閉める。夜が満ちる。
 センパイ、と呼ぶ。
 どうして、と嘘が溢れる。
 彼女はベッドの上に横たわっていた。たぶん、そうだった。極限まで耳を澄まさなければ拾えないような薄い呼吸に、幾重にも編まれた夜のうすぎぬがたゆたう。
「どうして、きたの」
 白痴のような声を頼りに、近寄る。夜の合間に白い腕が見えた。その指先が枕の下に続いていることも。彼女はいつかのように頭からすっぽりと嘘を被りながら、その右手だけは白く、ナイフを掴んでいる。
「センパイに会いたかったから」
 答えながらベッドに腰掛けた。きしり、とベッドが軋む。白いシーツの冷たさと、彼女のぬくもりをわずかに感じる。
「おれのはじめてのデートはどうなったんだ、センパイ」
 遊真が問うと、ふっ、と呼吸がこぼれた。カーテンの隙間から落ちる月明かりが、彼女の纏う夜を淡く透けさせる。
 彼女はほほ笑んでいた。
 ――たぶん、白い椿が、まだ咲いているから。


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