嘘に針

 貌を覆う夜のような嘘が見えない人間にとっても、彼女はずいぶんと魅力的なひとらしい。ランク戦終わりの混雑したロビーに彼女を見つけて駆け出すと同時、喧騒にまぎれた声をひろった。あの先輩、美人だよな。おまえ話しかけてみろよ。とか。
 胸のあたりがざわめいて、端的に言って面白くない。他のひとには遊真が見えない彼女の顔が見えているから? ――違う。顔が見えたって見えなくたって、いやなのだ。他の誰かが彼女に近づくことが。
「センパイ」
 声をかけると、夜がゆらりとゆらめいて、かたちのよいくちびるに微笑が浮かぶ。
「空閑くん、見てたよ。一挙大得点おめでとう!」
 向けられた手のひらをパチンッと合わせる。にこにこと嬉しげな笑みを浮かべた彼女にますます注目が集まる気配がしたが、ヒュースが追いつくと、彼女に向けられていた視線が移った。さすがに一日でB級昇格を果たし、つい先ほどの試合で大暴れした男のほうが注目度は高い。ヒュースを連れてきてよかった、と口にすることはないけれど。
「おれよりヒュースのほうがはたらきものだったけどな」
「いえいえ、いぶし銀のような技冴えるいいアシストでした。それに空閑くんは生存率が高いところもすばらしい」
 上機嫌な様子の彼女はが遊真の髪をもふもふと撫でくりまわす。横目でヒュースを窺えば、だれだこの女は、と言いたげな顔をしていたので「こちら、ふらふらセンパイです」と紹介しておく。
「空閑くんとは秘密の関係です」
「……、」
「センパイはフリーの銃手として、日々防衛任務にはげんでおられます」
「ご紹介ありがとう」
 ヒュースの冷たい視線を受けてか、彼女も遊真の髪を撫でるのをやめ、真面目に挨拶を済ませる。ヒュースは彼女の名前に聞き覚えがあったのか、ウサミが言ってた……と独り言のような呟きを漏らした。
「というわけでセンパイ、十本勝負おねがいします」
「おや、わたし? 今の時間なら選り取り見取りだけど」
「うん、センパイがいいんだ。銃手との間合いの詰め方が課題だからな」
「ああ、そっか。今日は撃ち合いで封じこめられてたもんね……謹んでお受けいたします。ヒュースくんもよかったら……と思ったけど、戦いたそうなひとがきたかな」
 ベールに遮られた視線の先をどうにか追うと、東隊の小荒井と奥寺がロビーに入ってきたところだった。彼らもこちらに気づいて、おーいと手を振る。ヒュースが軽く手を挙げて応えた。

「ずいぶんとセッキョクテキだな」
 トリオンの弾丸が頬を掠める。グラスホッパーで跳んだ遊真ごと、その硬いナイフの腹で受け流すようにスコーピオンの軌道を逸らし、間髪入れず逆の手で引き金を引く。なめらかな動作は洗練されているが、攻撃の手を緩めない苛烈さは以前に手合わせしたときと明らかに違う。
「前のは手を抜いてたのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
 目元を覆うベールがゆれる。ぞわり、と悪寒がはしって後ろへ逃げた。空を切るのは旋空によって拡張されたナイフの刃先。前は見せなかった動きだ。
「ひとりじゃ弾幕張れないから……でも距離を詰めるのが難しい銃手のほうが、今の空閑くんの練習相手には相応しいでしょう」
「それは、どうもご親切に。センパイってもともとこういう戦い方のひと?」
「うん。部隊ぶたいを組んでたときは攻撃手との二枚看板だったんだよ」
 じりじりと間合いをはかる遊真に、淡く色づいたくちびるが笑みをつくる。それを合図とするように、再びグラスホッパーでひといきに距離を詰める。やはりナイフを構えるが――その動きはもう見ている。遊真を弾こうとする刃にスコーピオンをかけ、小さな体躯を活かしてくるりと宙を舞う。首を取ろうと伸ばした視線の先にはやはりほほ笑む彼女がいた。
「だから、守ってくれるひとがいないと、保たないんだ」
 拳銃を握る手は遊真をとらえようと持ち上がりかけていたが、遅い。ベールのむこうに透けた瞳を見つめながら、遊真は彼女の首を落とした。
 てん、と地面を転がってもなおその貌にかかるベールが、無性に腹立たしかった。

「ポイントだいぶとられちゃったな」
 十戦目になって、街角に転送されてきた彼女はそう呟いた。相対した時点では手強い印象だったが、本人が申告したように苛烈な攻めもひとりでは保たないし、パターンも少ない。過ぎてみれば遊真の圧勝だけれど、彼女は言葉のわりにちっとも悔しがっていなかった。彼女にとって今重要なのは、遊真に勝つことではなくて、攻撃的な銃手と間合いを詰めるときの感覚を遊真に学ばせることだからだろう。つまり、本気ではない。真剣ではあるけれど。
「センパイ、賭けをしないか」
 ホルスターから銃を引き抜く彼女に言う。彼女は不思議そうにこてりと首を傾げ、遊真を見た。艶やかな髪とベールが揃ってゆれる。
「賭け?」
「次もおれが勝ったら、センパイはなんでも言うことをきく、みたいなやつだ」
「わたしが勝ったら?」
「わたくしめがなんでも言うことをききます」
「なるほど……これまでの勝敗は関係なしで?」
 遊真が頷くと、彼女は考えるように動きをとめ、それからやわいくちびるを開いた。
「いいよ」
 気安く賭けにのった彼女はどんな顔をしているのだろう。確かめたいと思って、遊真はぐっと脚に力をこめた。

「わたしの勝ちね」
 ベールのむこうで彼女がにこやかな笑みを浮かべている。うきうきと弾んだ声は幼く、得意げだ。賭けのおかげか最後の一戦は白熱したものになった。あんな口約束を本気にした彼女の意図が知りたいと思ったせいだろうか、遊真はあと一歩詰めれば勝てた勝負に負けた。もちろん、彼女の攻撃がより苛烈だったというのもあるけれど、勝利への執着とでも言うべきものが弱かったのもそうだ。
「それで、センパイのおねがいは?」
「こんどデートしよう」
 遊真が訊ねると、彼女はあっさり答える。
「でーと」
 そんなものが彼女の願いだったのか。むずりと心臓が動いたような気がして、そんなわけないのになと首を傾げる。それを言葉への疑問ととったのか「ふたりきりで出かけることだよ」と注釈が入る。
「空閑くん、デートってはじめて?」
「たぶん」
「じゃあ、はじめてってことにしよう?」
「まあ、センパイがそう言うなら。ハジメテです」
「やったぁ。ふふ、わたしもね、デートってはじめて。ランク戦が終わってからがいいかな、たのしみだなぁ」
 はしゃいだ声に黒煙がなびいた。あともうすこしでみえる、と思った矢先に。
「ちゃんと、約束ね」
 囁く声が貌を覆う。差し出された小指の意味を知らずにじっと見つめると「小指と小指を絡めて、約束するの」と声がかかる。
「これもはじめて?」
「はじめてだな」
「わたしはひさしぶり。約束ってこうするんだって、ずいぶん前から忘れちゃってた」
「これをしないと約束にならないのか?」
「ううん、そういうわけじゃないよ……そういうわけじゃないけど、でも、そういうふうにしたいの。いい?」
「いいぞ」
 そっと、華奢なそれに自分の小指を絡める。するりと馴染んだつめたい熱が、きゅ、と遊真の小指を締めた。そして彼女は嘘を謳う。
「ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのーます、ゆびきった!」
 彼女が呑む針は千本で済みそうにないなと思っていれば、絡めた小指がほどかれた。それを、すこし惜しいとおもう。思ってしまった。まだ冷えた熱が残る指を拳のなかへ握り込み、彼女の貌を見上げる。ベールのむこうで、ほほ笑んでいる。
「それじゃあ空閑くん、またデートのこといろいろ決めようね」
 ――よるに。
 熟れるように赤らんだくちびるが、音にはせずそう言った。
 遊真も頷いて、りょうかい、と小さなちいさな声で返す。

 後になって思い返せば。彼女が姿を消したのは、この日だった。


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