できそこないの亡霊

 冴え冴えとした月に晒された白線が住宅街に浮かび上がる。遊真は真新しい塗料をなぞるように歩きながら、横抱きにした彼女を見下ろした。そろり、とベールのむこうで視線をそらされる。
「なんで目をそらすんだ?」
「はずかしいからです」
「なにが?」
「なにもかもが」
 うう、とうめいた彼女が空いている手で貌を覆う。夜が散らばり、細い指の隙間から逃げるようにゆれた。もう片方の手は遊真の首の後ろにまわされたままで、この状態にも慣れたのか諦めたのか、すべてを遊真に預けている。衣服越しにも背骨のわずかな凹凸や太腿のやわさを感じ、万が一にも落とさないよう抱え直した。
「ここはまっすぐ?」
「うん……次の角を右に」
 短い間隔で並んだ街灯があたりを照らしている。窓の明かりはほとんど落とされ、住人がお行儀よく寝静まっていることを伝えた。立ち並ぶ家々は高い塀に囲まれており、門の先には見るからに豪奢な庭と邸宅がある。市街地とは一線を画す、きんと張り詰めた雰囲気は、かつて旅した国々の貴族街を思い出させた。
 人の気配に順路を変えながら、ひた歩く。彼女の口数がめっきり少なくなった頃、いちだんと長く続いた漆喰の白い塀が途切れ、立派な門が現れた。
 木造の厳しい造りの門は、来訪者を拒むように頑なに閉じている。その表札に掲げられた文字を読んで腕のなかの彼女を見下ろせば、小さく肯定が返された。
「……鍵を、持っていなくて。もうすこしだけ、付き合ってくれるかな」
「おやすいごようです」
 彼女が導くままに歩く。塀に沿って細い路地へ入ると、のびのびと枝を伸ばす常緑樹が緑の闇を抱えていた。どこからか漂う甘い匂いにすん、と鼻を鳴らせば「沈丁花の香りだね」と淡く色づいたくちびるが教えてくれる。そして彼女が立ち止まるように指定したのは、枝を伸ばす木々の影、ぽつんと佇む街灯の傍らだった。
「……ここから入るのか?」
 漆喰の塀には切れ目も扉もなかったが、彼女は頷いた。つまりこの塀を越えていくらしい。トリオンでできた身体には簡単なことだが、ふだんはどうしているのか。首を傾げると「いつもは街灯をのぼってる」と返された。怪我をした足では難しそうなことである。
 遊真はいったん彼女を降ろし、ひとりだけで塀のうえへ跳んだ。着地地点を把握してから戻り、横抱きではなく背に担ぐことにする。背を向けると「空閑くん?」と彼女の声が不安げにゆれた。
「おぶってく。そっちのほうがバランスとりやすいし」
 なるほど、と言いつつも彼女にとっては不慣れなことのようで、肩に添えられる指先も預けられる体重も、すべてが恐る恐るとしていた。遊真が立ち上がると「ひゃっ」と声があがる。
 とっ、と跳んで、塀を軽く蹴り、とさりと着地した。小さな衝撃に彼女がくっと息を詰まらせる。
 周囲の気配を探りながら顔を上げ、あたりを見渡した。さびれた神社のように、濃く深い緑がある広大な庭だ。かつて訪れた神社と異なるのは、人の手が入り、整備されていること。月明かりを遮る木々を隔てて、住居と思わしき影がある。いくつか見える窓のひとつにはまだ明かりが灯っていた。
「そっちじゃないの」
 遊真が一歩踏み出すなり、ひそめられた声が響く。
「ありがとう、空閑くん。あとはひとりでだいじょうぶだよ」
 彼女が降りようとするので「だめだ」と太腿を締める。ひん、と彼女が鳴いた。
「ちゃんとしたやつで巻き直したほうがいい。自分でできるか?」
「……できない」
「だろうな。じゃあセンパイが言うことは?」
「…………もうすこしお付き合いください」
「りょうかいした」
 ひそひそ言葉を交わしながら言質をとる。今夜はずいぶん強引なのね、と彼女が文句を言うので、まあそういう日もある、と返した。ため息をつかれたが、遊真を引き下がらせる方法なんていくらでもあるのにそうしなかったのは彼女だ。
「あの、でも、降りてもいい? ここからは歩いたほうがいいから」
「わかった」
 温もりが離れ、ひゅるりと吹いた風がいつもより冷たく感じた。彼女はたしょうふらつきながらもひとりで立った。肌着を犠牲にした甲斐もあったというものだ。杖代わりになれるよう彼女の右手を握った。その指先がかすかに震えていることに気づいて力を込めると、そっと握り返される。
「あっちじゃないなら、どこへいくんだ?」
 訊ねると、彼女はつないだ手を引き寄せ、ひとつの生き物になろうとするようにひたりと影を重ねた。離れないでね、と囁いて、遊真が頷いたのを確認してからゆっくりと歩き出す。慣れた道なのか足取りに迷いはなかった。木々の影に潜むように進む。
「あれは母屋だから……わたしが住んでいるのは離れ」
「はなれ?」
「敷地内にある、もうひとつの家のこと」
「ほう。家がふたつあるのか」
「正確には三つだね。蔵や茶室を合わせると六つ」
「広いな」
「でも、とても狭いの」
 柔らかな土が足音を殺し、囁き合う声は夜風が攫う。彼女がひそやかに言葉を紡ぐたび、その貌にはベールがかかった。いつになく執拗に。その視線を、表情を、不透明にしていく。
「……センパイ、オジョウサマってやつ?」
「さあ、どうでしょう」
 こふり、とくちびるから黒い煙がこぼれた。夜のうすぎぬは頭部を完全に隠し、つないだ指先だけが、白白と夜に浮かんでいた。

 扉を閉め、鍵をかけ、それから部屋に明かりが灯された。簡素なパイプベッドと勉強机、アクリルの収納ケースに小型冷蔵庫。部屋の隅にはダンボールが重ねられ、本は床の上に積まれている。扉の横にはシューズボックス代わりのケースがあり、彼女に言われるまま遊真も靴を置いた。
「どこかにあったと思うんだけどな……」
 彼女が床に寝転がるようにしてベッドの下を覗きこむ。纏わりついていた黒い煙はいつのまにか霧散し、目元を隠すだけになっていた。
 ふたりがいるのは、街中にあっても見劣りしなさそうな一戸建ての平屋――ではなく、その傍らにおざなりに設置されていた簡易的な小屋である。
 フローリングと壁紙は小綺麗で、エアコンも備え付けられているものの、壁は薄く心許ない。玉狛支部の、遊真の部屋よりも少し狭い空間だった。ここが、彼女の部屋であるらしい。
「……はなれに住んでいるのでは?」
「空閑くんは、他の人間が鍵を持ってる部屋で寝たいと思う?」
 立ち上がった彼女がほほ笑む。目当てのものは見つからなかったようで、右足を庇いながら積まれたダンボールのほうへ歩いていく。
「時と場合によるな」
 分厚いカーテンの隙間から外を窺った。窓に嵌められた銀色の格子のむこうに白い椿の生垣がある。麗しく咲く花の下で、ぼとぼとと地面に落ちてしまった花たちが、そのかたちを保ったまま爛れるように変色し、ぐずぐずと土に融けようとしていた。
「そう。つまりそういう時で、そういう場合なのです」
 歌うような声だ。場違いに明るい調べが、このプレハブ小屋はボーダーの給金で購入したのだと続けた。そうして手に入れた小さな空間が、この家において彼女の唯一の居場所であることは、その事情を知らなくとも察せられる。
「ううん……ないな……湿布くらいはあると思ったんだけど」
「オモヤでは暮らさないのか?」
 がさごそとダンボールの中を調べていた手が止まる。わずかな沈黙をはさみ、彼女は「うん」と頷いた。やはり、蛍光灯のひかりに似た白白とした声だ。
「わたし、壊してしまったから」
「なにを?」
「この家でいちばん大事なもの」
 彼女が振り返る。目元にかかるベールが不規則にゆらめいて、声の代わりに波立った彼女の心を伝えていた。遊真から彼女を隠す嘘たちも機微を読み取れるようになれば大した問題ではない。思えば、喪に服す貴婦人のようなその姿は、顔が見えないこと以外は一度だって不快なものではなかった。
「……ふうん」
 何かを言いかけた彼女が、ふとカーテンがかかったままの窓へ貌を向けた。数秒の間をおいて「くがくん、」とくちびるが震える。
「ごめん、かくれて。人がくる」
 有無を言わせる気はなさそうだった。白い指先が示すまま、壁際に置かれたベッドに乗り上げる。この小さな部屋に隠れられる場所などほかになかった。
 安っぽいベッドフレームと薄いマットレスはほんのわずか身じろぐだけでも軋んだ音を立てそうで、遊真は重たい布団を被りながらじっと息を潜めた。もともとあまり必要のない呼吸をさらに抑えて、彼女の甘い香りが入りこむのを阻止する。ひやりと冷たいシーツに気配を馴染ませる。
 こん、とノックの音が響いた。
「起きているか」
 扉越しにくぐもった声が続く。若い男のものだ。遊真よりもぐっと低く、声変わりを終えた年齢だろうなとあたりをつける。彼女よりも歳上そうに思えた。
「なにかご用ですか」
 淑やかな声が応えた。扉へ近寄るかすかな足音がきこえ、きぃ、と扉が開かれる。
「明かりが見えて……話し声が聞こえた気がしたから、様子を見にきた」
「それは失礼しました……少々、友人と話しておりまして」
「こんな時間に、か?」
「どうにも寝付けない夜もあるでしょう? 友人も暇を持て余していたようで、わたしに付き合ってくれたのです」
「友人……」
「ええ、ボーダーの。とてもいい子なんです」
「そうか、いい友人に出会えたようでなによりだ……その足はどうした?」
「すこし捻ってしまっただけですよ。お気になさらず」
「捻った? 医者には見せたのか? 今から呼ぶか、母さんの主治医なら、」
「大した怪我ではありませんから。治療も受けています」
「しかし、おまえになにかあれば俺は――」
「――兄さん」
 と、静かに響いた声が。
 張り詰めた糸を弾く弦楽器のように、砥がれた鏃のように、鋭く夜を穿ち、すべてを黙らせる。風の音も、星のまたたきも、男の声も、すべて等しく。ただ静寂に包まれた世界に、彼女の声はよく響いた。
「わたしは、自分のこともわからないほど子どもではありません」
 ほほ笑んでいるのだろうな、となぜだか思った。
 気安く、人当たりよく、やさしげに、すこし困ったように。その笑みをちゃんと見たことはないけれど、彼女が線引くために笑顔を浮かべる人間だと知っていた。
「……俺は、おまえが心配なんだ。ボーダーのことだって……、いや、わかっている。おまえはもう子どもじゃない……もう……」
 男の低い声がぶつぶつと途切れる。布団のなかでなければ聞き取れていただろうと思いながらも、遊真はまばたきひとつさえ己に許さず、沈黙を守った。
「……夜も遅いですから、お部屋にお戻りになってくださいな……あなたがお風邪を召されれば、それこそわたしが怒られてしまいます」
「……ああ。夜更かしはほどほどにな」
「はい」
 扉が閉められ、しばらくしてかちゃりと鍵がかけられる。
 さらに数分、小屋の周囲の気配がすっかり消えても、彼女はしんと黙っている。
 遊真は身を起こし、彼女を探した。
 探さなければならなかった。
 目に映ったその影が彼女であると理解するまでに、わずかな時間がかかったから。
 彼女は、兄と呼んだ男になにひとつとして嘘をついていなかったはずだ。
 そのはずなのに、彼女は、頭のてっぺんからつま先まで引きずるほどに長い夜のうすぎぬを被り、不気味な影としてそこに在った。あたかも棺から這い出たばかりの、出来損ないの亡霊のように。
「……センパイ」
 ほとんど吐息にまぎれた声で呼びかけると、夜が蠢く。嘘から生まれた黒い煙がゆらゆらとゆれ惑い、ひたりと蜜が滴るように、その肌を覆い尽くしている。ベッドの傍らにまで近づいてくるそれに、不思議と恐怖も嫌悪も抱かなかった。
 彼女は様子を伺うように、ためらうように指先を握りこみながらも、腕を伸ばす。遊真が拒絶しないと見ると、震える指先がそっとひらいて、頬をやさしく撫でた。死人のように、ひんやりとつめたい。指先に引き寄せられ、ひたいとひたいを合わせる。するりと滑り落ちた毛先が鼻先をくすぐり、生白い肌が見えた。
 夜が、はらはらと剥がれていく。彼女がそっと息をつくと、目元を隠すベールさえも霞むように消えて、精緻に整った面差しが顕れた。
「はやくおとなになりたい」
 ガラスの眼に遊真の白い髪が映っていた。それだけが、唯一のひかりとして彼女のなかにあった。削ぎ落とされた感情は遠く、けれど確かにその薄い皮膚の内にある。
「……湿布と包帯、きっと離れにならあると思うから、とってくるね。もうすこしここにいてくれる?」
 ひたいを離した彼女がこてりと首を傾げる。薄いベールがその貌にかかるのを見つめながら遊真は頷いた。ほっとしたようにほほ笑んだ彼女が扉へと向かう。ぱたり、と静かに扉が閉ざされたのを見届け、動く。
 シーツに手のひらを滑らせる。枕の下。隠れたときからそこにある冷えた感触に気づいていた。持ち上げて、見つけたものに赤い目をすこしひらく。潔癖に白いシーツの上に、それはあまりに不釣り合いだった。
 ナイフだ。黒い鞘に収められ、刃渡りは二十センチはあるだろう。持ち手にはかすかに手の痕が残り、ずしりとした重みが虚仮威しではないことを伝えている。じゃらりと引き抜いてみれば毀れなく砥がれた刃がぎらりと光を反射した。長さといい、刃の形といい、ちょうどトリオン体の彼女が持つそれに似ている。あるいは、これに似せたのがあのハンティングナイフ型の弧月だろうか。
 どうして彼女は枕元にナイフを忍ばせているのか。問うまでもなく遊真はその答えを理解していた。
 そうしなければ、安心して眠れないのだ。

   ◇

「いつもその指輪してるね。なにか理由があるの?」
 肌着を裂いてつくった包帯をほどく指先めがけて、淑やかな声が落ちた。ベッドに腰掛けた彼女を見上げると、そのベールのむこうの瞳がちらちらと見え隠れする。
「親父の形見というヤツです」
「……そうだったの。不躾に訊いてしまったね」
「べつに、そういうものだしな」
 濡らしたハンカチは彼女の熱が移り生ぬるくなっていた。赤く腫れ上がった患部は見るからに痛々しい。離れから持ち出された湿布を貼ってやると、冷たかったのかつま先がぴくりと震える。
「空閑くんは、おとうさんのこと覚えてる?」
「まあ、だいたいは。いろいろ教わったし……顔はだいぶ忘れてたけど、林藤さんに写真見せてもらって思い出した」
「……手当も習ったって言ってたね」
「はんぶんは見て覚えたけどな」
「わたしも覚えられるかな」
「覚えてソンはないぞ」
 白い肌に、さらに漂白された包帯が重なる。やわらかなガーゼが彼女を包み、ときに締める。くるくると包帯を巻く遊真の指先を、彼女はぼんやりと見つめていた。彼女が覚えやすいように、ゆっくりと包帯を巻いていく。そういえば彼も、遊真の怪我の手当をするときはそうしていたかもしれない。
「…………さっきの、従兄弟なの」
 ぽつり、と声が落ちた。内容よりも、彼女が自ら口にすることが意外だった。一瞬だけ止まった手をまた動かして、遊真は「ふむ」と頷く。
「イトコ……、センパイの親のきょうだいの子ども?」
「そう。わたしの母と、あのひとの父が姉弟だった。そういうことになってる」
「ほう、そういうことに」
「ひとがいうのをきいただけ。母はわたしをひとりで産んで……ひとりで死んでしまったそうだから。なにも教えられていないし、なにも残ってない」
 こぼれていく言葉たちも、遊真の目にはやっぱり嘘に見えていた。けれどベールはその目元を薄く覆うだけで、彼女のすべてを隠しはしない。くたりと力の抜けた四肢は遊真に委ねられて、されるがままになっている。
「以上、空閑くんのおとうさんのことをきいてしまったお詫びです」
「ふむ? わびはいらないけど」
「自己満足に付き合ってくれてありがとう」
「……どーいたしまして」
 包帯の巻き終わりをテープで固定する。彼女はつま先を曲げたり伸ばしたりして「すごい、痛くない」と呟いた。湿布を変えることと、ひどく痛むようだったら医者に見せたほうがいい、と念押しておく。
「じゃあ、オイトマします」
「せめて外まで送っていきたいところなんだけど……」
「足手まといだな」
「う……ごめんなさい。すっかり遅くなってしまったし」
「たぶん朝にならなきゃだいじょうぶだ。なんでもアサガエリするとレイジさんがあわてるらしい」
「それは、その、とても慌てるとおもいます。気をつけて……見つからないように」
「りょうかい。おれとセンパイはヒミツの関係だからな」
 遊真が言うと、彼女は驚いたように息を詰まらせた。それから掠れた吐息をこぼす。
「うん……わたしと、空閑くんだけの秘密。約束ね」
 くちびるに笑みがのっていた。やはりその瞳はベールに覆われていたけれど、吐息に霞んだそれはどこまでも薄く、淡く、透き通る。
 遠くにあるはずの心臓が高鳴り、そわそわと落ち着かない浮遊感が再来する。迅にはばれているから、その約束は守りようがないことを言えなかった。このほほ笑みを、自分と彼女だけの秘密にしていたいと思う。
 たとえ遊真以外のひとはみんな、いつも見えているものだとしても。


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