墜落

「出掛けるのか? 遊真」
 川の真ん中に建つ玉狛支部と岸辺をつなぐ橋のうえ、青い隊服を夜風になびかせながら迅が問う。遊真は出てきたばかりの玄関扉を閉め「うん」と頷いた。
「迅さんはいま帰り、ってわけじゃなさそうだな」
「ばれたか。ちょっと待ち伏せしてた」
 せせらぎがさやかに夜を満たしている。真夜中に迅と顔を合わせるのはめずらしいことではなかった。暗躍を趣味と公言する彼は夜更かしが多く、眠れない遊真の長い夜に付き合ってくれることもしばしばだ。そういうときはたいていホットミルクをつくり、飲み切るまでこちらの世界の常識などを教えてくれる。
 そんな迅だから、遊真が夜な夜な支部を抜け出していることも知っていただろう。誰と会っているのかも青い目はわかっているに違いない。
「先に言っておくとお説教じゃない」
「ふむ。あんしんした」
 迅が相好を崩し、漂う空気がふっと緩まる。遊真がとことこ近づいていけば、迅は橋の欄干に腰掛けて迎えた。遊真は欄干にもたれ、差し出された缶のミルクティーを受け取る。まだあたたかい。迅は自分の缶コーヒーを開け、ちびりとすすった。
「まあ、ひとこと言ってから出掛けるようにはしてほしいけどな」
「だれに言ったらいい?」
「うーん、おれかボスかな」
 レイジさんは心配しそうだ、と迅が言うので、たしかに、と頷く。それから迅は「補導されないように気をつけろよ」と続けた。
「ホドー?」
「子どもが夜中に出歩いてたら警察に捕まって怒られるんだよ。おまえも、ボスもな」
「なるほど。きをつける」
 自分だけならまだしも、世話になっている人たちに迷惑をかけるのは本意ではない。林藤なら笑って一緒に怒られてくれそうな気もするが、本部からあれこれ言われる隙になっても面倒だ。
 センパイはホドーを恐れていたのだろうか。考えたが、すぐに否定する。それだけではあの夜の彼女の怯えように納得できない。
「……あ。そうだ迅さん。なにとぞひみつでおねがいします」
「ん?」
「おれとセンパイはひみつのカンケイらしいので」
「あー、了解。あの子が言いそうなことだな」
 やっぱりお見通しだったらしい。迅はすべて心得たように飄々とした笑みを浮かべ、ぽん、と遊真の頭に手をのせた。わしわしと撫でられるままに任せれば「遊真」とちいさく名前を呼ばれる。
「今日は、だれにも見つからないようにな」
「……? わかった」
 遊真が頷くと、ぱっと手が離れる。それだけを言うために迅は遊真を待ち伏せていたのだろうか。青い目はしずかに遊真を見下ろし、ゆるやかな笑みは真意を覆い隠している。どんな未来が見えたのかまでは教えてくれそうになかった。
「よし、じゃあ行ってこい。朝帰りはするなよ、レイジさんが慌てるから」
 大きな手のひらがやさしく背中を押す。
「迅さんは?」
「おれも慌てるかも」
「そうじゃなくて。今日はもう寝るの?」
「あ、そっち」
 苦笑を浮かべた迅は、まだすこししか飲んでいない缶コーヒーをちゃぷりと揺らした。
「これ飲んだら寝るよ」と告げる口元に黒い煙はない。飲み終えるのにどれだけ時間をかけるつもりかはわからないが。
「ごゆっくりおやすみくださいませ」
 釘を刺されたと察したらしい迅が「わかったわかった」とくすぐったそうに笑った。

 最近にしてはめずらしく、彼女はブランコに座っていた。きぃきぃとかすかな音を立てながら華奢な影がゆれている。それに合わせて貌にかかる夜が波打つ。たとえ言葉を紡いでいなくとも、彼女は常に嘘を編んでいた。
 彼女が嘘つきだと気づいているのは遊真だけで、彼女のほほ笑みを知らないのも遊真だけで、それがなぜだか引っかかった。酸素よりもすこし重い気体があばらの内側に広がって、どこか遠くにあるはずの心臓がきしきしと軋んで、おぼつかなくて、どうしたらいいのかわからなくなる。
 いっそ自分にしか見えない亡霊だったらいいのに、と思う。
 彼女はこの真夜中の公園にしかいなくて、ベールの下にどんな顔があるかなんてだれも知らなければ。そうであったなら――いや、そうであったとしても。もしかしたら。遊真は彼女の顔が見たいと思っただろうか。
「こんばんは、空閑くん」
「こんばんは」
 じゅうぶんに近づいてから彼女が声をあげた。するりとくちびるからこぼれていった黒い煙が夜に馴染んでいく。
「センパイっていつ寝てるんだ?」
 今更な質問を投げかけたくなったのは迅と話したせいだ。となりのブランコに腰掛けて、彼女の貌を窺う。ちゃりり、と鎖が鳴く。
「それ、空閑くんが言うの」
「おれは眠らなくていいので」
 そう答えることに、不思議と迷いはなかった。きっぱりと告げると、彼女は夜のむこうの瞳をぱちりとまたたかせる。
「……どうして?」
「そういうふうにできてるから、だな」
 控えめな問いかけがさらりと鼓膜を響かせ、遊真は気負いなく答えた。
 遊真がどんな返答をしたとしても、彼女は真実として受け止めただろう、と思う。そういうひとだ。自分は嘘ばかりのくせに、他人の言葉は素直に飲みこむ。嘘をつく人間ほど疑り深いのがこの世の常だというのに。
 けれど、だからこそ、彼女に嘘をつきたくない。たとえ本当でも嘘でも彼女にとってはどうでもよくて、なにも変わらないとしても。どうしてか、そうしたくなったから。
 静謐を湛えたベールの奥に思慮深い眼が見えた気がした。じっと遊真を見つめ、やがて黒い吐息がこぼれる。
「……空閑くんって、どんなに寒くても、呼吸が透明なままなんだ」
「そうなのか」
「うん。だから、まえにトリオン体だから寒くないって言ってたときも、ほんとうにそうなんだろうなって思ってた」
 こつん、と爪先が地面を小突いた。ブランコがかすかにゆれて、ベールがなびく。
「でもどうして、いつもトリオン体なんだろうって、夜はあぶないからかなって、思ってたんだけど……それも、そういうふうにできてる、から?」
 遊真が頷けば、錆びた鎖に添わされた指先が震える。ひゅるりと吹いた風が彼女の髪を攫った。
「……ずうっと、そう、なの?」
「たぶん」
「……眠れない?」
「そうともいうな」
 そう、と息をつくような囁きがこぼれる。たったこれだけの応答でそこまで理解できるのだなと、当事者ながら呑気な感想が浮かんだ。このぶんだと心臓の鼓動がきこえないことも、彼女は気づいていたのかもしれない。
 ささやかな沈黙がおりた。夜闇にまぎれた常緑樹がざわざわと擦れ合う。彼女が迷っている気配を感じて、遊真は口角を持ち上げて笑みをつくった。問われればなにもかも話すつもりではあったけれど、困らせてしまうならこの話はもうおしまいだ。
「それで、センパイはちゃんと寝てるのか?」
「……ねてるよ。短い時間でもへいきな体質みたい」
 ほほ笑んだ彼女は、くまもないでしょう、と指先を目元へのばす。
 その数瞬は、ゆっくりと見えた。
 白い指から逃れようとする夜がたゆたい、ベールがひらかれていく。切り裂かれていく。その眼が晒され、精緻に整った美貌がはんぶんだけ夜に冴える。
 きれいだった。
 あの夜とおなじに。知らず止めていた呼吸を、そうする必要のない身体であると自覚しながら熟す。透き通った肌は静脈の青白さを孕み、寒さのせいかわずかに赤みを帯びていた。夜をうつした眼は街灯のひかりを受けて、丸い月を宿したようにかがやく。だけれど、欠けたほほ笑みはどこかいびつで、たしかに笑っているのにさみしさが滲んでいるのだ。
「……そんなに見つめられると、照れるね」
 そろり、と瞳がそらされた。
「これはしっけい。センパイがきれいだからつい見てた」
「な、なんてストレートな褒めことば……」
 指先が目元を離れると、くちびるからこぼれた夜たちが再び集い、その貌にベールをかける。それがいつもよりわずかに分厚いような気がして、遊真は首を傾げた。
「いやだったか? ほめられるの」
「……空閑くんに褒められるのは、いやじゃないけど」
「ほかのやつに言われるのはいやなのか」
「……うん、嫌」
 正直な言葉のわりに、漂う感情がすこしだけ遠かった。そこにあるべき嫌悪が薄く、痛みが鈍い。瘡蓋、いや古傷にふれた感覚に似ていた。隆起した傷跡を覆う皮膚は頼りなく薄いが、もうそれで治っていて、傷が肌にすっかり馴染んでしまっているような。けれどその内側ではべたりと癒着が起こり、苛ませ続けているのではないかとも、思うような。はじめてこの公園で彼女の顔を見たときの、情を削ぎ落としながらも生々しいなにかを内包した、あの横顔がよぎった。
 たとえ褒め言葉だとしても容姿に言及されることを嫌うひとに今まで出会わなかったわけではない。そういう人たちはたいてい容姿によって苦労した経験があり、彼女もそうなのだとは予想できる。だけど、遊真にはそれを許す理由に見当がつかなくて「なんでおれはいいんだ?」と首を傾げた。
「うーん。空閑くんがすきだからかな」
 彼女は照れもせずそう答える。本当は照れていたとしても、その貌に象られたベールがある限り、遊真にはそれを見つけることができない。胸の奥が浮つくようなざわりと騒ぐような、変な感じがあった。彼女の言葉は心地よいぬるま湯に似ていて、焦げつくほどの熱はない。すき、と彼女の言葉を舌先で転がしてみるけれど、それを音にすると変な感じが加速しそうで黙った。
「空閑くんって、よくわたしの顔を見てるけど、でも、他の人とは違っていて……ときどき、とてもふしぎそうにする。そのときの、静かで、冷たい目がすき。うまく言えないけど……空閑くんのことをきれいだと思う瞬間があるから、だから、空閑くんにきれいって言われるのはうれしい」
 言いながら、彼女は自分の言葉に納得したようだった。空閑くんってきれいだよね、と同意を求められても、遊真は自分の美醜に関して頓着ないので答えようもない。
「……つまりセンパイはつめたくされるのがすきってことか」
「む、わざとずれたこと言ってない?」
「ばれましたか」
「つめたくされるときずつきます」
「わかった」
 遊真が頷くと彼女がほほ笑む。幻滅されるのも、冷たくされるのも、傷つく。そう言う彼女はやっぱり嘘をついているのだけれど、夜に隠れたそのほほ笑みを見ていると、嘘でも傷つけてみようなどとは思えなかった。彼女に、傷ついてほしくないのだ。どうしてそう思うのかわからなくて首を傾げ、ふと思い出す。
「そういえば、前にかげうら先輩にムシっぽいからすきって言われたな」
「ムシ……虫? えっ、待ってそれほんとうに言われたの?」
「すきとは言ってなかったかもしれん」
「虫は言われたんだ……」
 彼女は、どうやらすこし怒っているようだった。表情は読みにくいし、彼女が怒っているところも見たことがないから、いまいち確信は持てなかったけれど。でも、遊真をすきだという彼女の感情は、たぶん、ほんとうだから。
「悪口って感じじゃなかったよ。かげうら先輩、遊んでくれるし、おこのみやき奢ってくれるし、わるいひとじゃない。おれはかげうら先輩のことけっこうすきだな」
 念の為とフォローを入れてみたが、彼女は返事をしてくれなかった。ざりっとつま先で地面を小突く。いつになく勢いのよいそれは軽やかに身体を浮かせ、じゃらりと鎖が重たく鳴った。地面が近づけばまた蹴り上げて、すこしずつ、その身体が高く浮いていく。錆びたブランコがぎいぎいひゅんひゅん風を切る。
「わたしのほうが――……」
 風の合間にかすかな声が聞こえる。ブランコは黒い煙さえ置き去りにして、なびく髪の隙間から拗ねたようにとがらせたくちびるが見えた。
「……なのに、ずるい」
 彼女が地上に近づいたときだけ、途切れ途切れの言葉たちとすれ違った。よくわからないが、拗ねているのは確からしい。いつもおだやかにほほ笑むばかりの彼女が、子どもっぽく感情をあらわにしているのが妙に胸をくすぐった。
「センパイ、」
 いちだんと高く舞い上がった彼女に遅れて鎖が鳴る。ばきん、と。重たく、錆びたその音が響いた次の瞬間には――彼女の身体はぐらりと傾げて夜に放り出されていた。
「――あ、」
 驚いている表情は見えなかった。こんなときにも彼女の貌には薄いベールがかかり、色づいたくちびるはぽかんとひらいている。
 ぽん、と夜に浮いた彼女は、一瞬のうちに墜落した。

「だいじょうぶか?」
 暴れる鎖を握りながら、へたりこむ彼女に問う。足から着地できたらしく、ぱっと見た限りでは怪我もない。けれど遊真が咄嗟にブランコを止めなければ、振り子のように戻ってきた座板にしたたかに殴られていただろう。視線を下ろせば、座板と鎖をつなぐ留め具がへしゃげている。これが壊れたせいで彼女はバランスを崩し、放り出されるはめになったらしい。
「だいじょうぶ」
 遊真がしゃがみこんで視線を合わせると、彼女はほほ笑んで答えた。
「どこも痛くないよ」
 嘘だった。
 嘘も本当も区別がない彼女の言葉を断定するのは難しいけれど、足を庇うように重心を移動したことくらい見てわかる。遊真が華奢な両足首をぐっと握ると「う、」と低いうめき声があがった。
「痛いんだな」
「確かめ方が、ひどい」
「センパイがウソつくからだろ。右か?」
「……うん」
 自分で脱げないならおれが脱がせる、と告げれば彼女は渋々と靴を脱ぎ、靴下も取り払った。白い肌は赤く腫れ始めている。ひとまず患部を冷やすのが先決だろうと、公園の端にある蛇口まで向かう。錆びた色の水が透明になるのを待ってからハンカチを濡らして絞り、彼女のもとへ戻った。
「……つめたい」
「そのうち熱くなる」
 足首に濡れたハンカチをのせると、彼女がいやそうに身じろいだ。それがやっぱり幼い子どもみたいだったから、遊真も子どもを相手にするようにぴしゃりと叱った。彼女が大人しくなったのを見届けてからパーカーを脱ぎ、次いで肌着を脱ぐ。
「く、空閑くん?」
 めずらしく焦った声が響く。しーっ、と人差し指をくちびるにあてがえば彼女がはっとくちびるを閉ざす。寒々としているのであろう夜風が遊真の肌を撫でていくが、やはり寒いとは思わなかった。
「……なんで脱いでるの?」
「包帯がないから」
 パーカーを着直して白い肌着を裂いていくと、ようやく彼女は遊真のやりたいことを理解したらしい。でも、と言いかけたものの、とっく帯のように裂いてしまったそれを見て諦めたようだった。その間に濡れたハンカチごと包帯で足首を固定し、手早く処置を済ませる。
「……ありがとう」
 きゅっと結んでから手を離せば、彼女が小さな声でお礼を言った。白い指先が遊真の巻いた包帯を震えるようになぞり、ベールは彼女の動揺を示すようにさざめいている。
「慣れてるんだね、手当」
「親父に習った」
「そうなんだ……って、なにしてるの空閑くん」
「オヒメサマダッコ」
 膝裏と背中に腕をまわし、ひといきに持ち上げる。ばた、と暴れかけた腕は浮遊感に驚いたのか止まり、遊真の腕のなかで彼女はぴしりと硬直していた。身長差を考えると生身であればできなかったかもしれないなと思いながら、落とさないよう抱え込む。
「で、センパイの家はどっちだ?」
「いえ、だいじょうぶですので」
「センパイはウソばっかりだな」
「いや、ほんとうに、だいじょうぶだから……」
 胸元に添えられた指先がかすかに震えている。あの夜と同じだった。
 貌にかかるベールは波立つようにゆらめき、そのむこうが不安定に見え隠れする。
 遊真はすこし考えてから「センパイ」となるべくやさしく聞こえる声で囁く。
「その足でホドーしてくる警察から逃げられるか? だれにも見つからずに家に帰れるか?」
「……、……」
「おれならセンパイを無事に送り届けられるぞ」
 しばらくの沈黙を経て、彼女は公園の外を指差す。遊真はいつもよりすこしだけ早い彼女の鼓動を胸に感じながら、一歩踏み出した。


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