天の底

「こんばんは」
 使用禁止の張り紙がされたブランコの代わりに、それを囲う柵のうえに腰掛けて、少女はほほ笑んだ。その貌には相変わらず、喪に服す貴婦人のような、薄く黒い夜のうすぎぬがかかっている。呼吸のたびに淡くゆらめくそれは、ときどき透きとおって、そのむこうにある瞳を晒した。真夜中のさびれた公園は相変わらず静かで、雨に濡れた土のにおいがする。それでも彼女は、ここが天国なのだと言わんばかりに笑っていた。
「空閑くん、なにかあまいものが飲みたくない?」
「こんばんは、センパイ。そういうと思ったから買ってきた」
「おや。先を越されちゃったな」
 パーカーのポケットから缶のココアをふたつ取り出して、まだあたたかいそれを手渡す。それから彼女とおんなじように柵にもたれて、ふたりでココアを飲んだ。夜に白い蒸気とあまい香りが漂う。
「つみのあじがするな」
「するね」
 ふふ、と子どもみたいな顔をして彼女が笑う。
 遊真がはんぶんほどココアを飲んだころ、彼女は不意に「ありがとう」と囁いた。
 その呼吸が透明だったのか黒かったのか、遊真はもう見ていなかった。街灯のひかりを受けて銀にひかるアルミ缶のふちと、そこにわずかに残ったココアが照るのを眺めながら「どういたしまして」と返す。
 彼女のくちびるのしょっぱさを知った夜から、二日が過ぎていた。
 遊真はあの夜、彼女を連れ去りはしなかった。プレハブ小屋を出て、銀の鎖を扉にかけて、南京錠に鍵をかけなおした。そうしてほしい、と彼女が言ったから。
 そして昨日、彼女は玉狛支部にやってきて『やればできる子なの』とほほ笑んだ。どうも自分で扉を蹴破ったらしい。それならおれが連れ去ってもよかったのでは、と言いかけたけど、彼女が遊真を庇ったことに思い至って黙った。修と千佳は突然の来客に不思議そうにしながらも『よかった』と笑った。遊真が彼女を探していたことは、ふたりも知っている。心配かけさせてしまったなと少し反省した。
 彼女は林藤と別室でなにか話して、それから迅も加えた三人で本部へ向かった。そこから先のことは、よく知らない。
 そうして今日、この公園に来てみると――本当は昨日の晩も来たけれど――彼女がこうしてブランコの前に佇んでいたのだった。
「本部に部屋をもらえることになったよ」
「ほほう。それはよかった、だな?」
「うん。迅さんが口添えてくれて、唐沢さんがじょうずにいろいろしてくれたみたい」
「なるほど、迅さんと唐沢さんが」
 あんまりおもしろくないな、と思ってしまったから、ほんとうは遊真が彼女にそれを与えたかったのだと気付いた。枕の下にナイフを忍ばせずとも眠れるような、こんなさみしい公園ではない、新しい居場所を。例えるなら、修が自分に目的をくれたように。
「大きな借りをつくっちゃったけど、まあ、いいや」
「いいのか」
「いいのです……いつまでもあそこにいたら空閑くんにまた心配をかけちゃうかもしれないし……ううん、ちがうな。あそこにいるのが、たぶん、もういやだったから。だからって行きたいところも、ずっと、なかったんだけど……ボーダーには空閑くんがいるから、それなら、いいなって思って」
 ぱちり、と赤い瞳にまばたきを重ねる。なんだ、と思った。遊真は彼女に居場所を与えることはできなかったけれど。それでも、遊真のいる場所が、彼女の行きたいところになったのなら――彼女が、そう自分で決められたのなら。
 それは彼女を連れ去るよりも、ずっとずっとよかったことだ。よかった、と、思えることだ。
「おれの居るとこがいいなら、本部じゃなくて玉狛にくる?」
「……それはとても魅力的なお誘いだけど、やめておこうかな。警戒区域のなかにいたほうが、面倒ごとは少なそうだもの」
「そうか。残念だな」
「誘ってくれて、すごくすごくうれしかったよ」
 彼女は子どもみたいに無邪気に笑って、それから、ちょっとだけ遊真のほうへ顔を近付ける。ひそめられた呼吸が鼓膜をくすぐった。
「でも、ひとつ問題があってね」
「ほう?」
「門限ができちゃったの」
「もんげん」
「防衛任務以外で、真夜中に外に出るのはだめってこと」
 まよなか、と言葉を繰り返す。それはつまり、今のことだ。考えてみれば玉狛支部に門限がないのが問題かもしれない。
「誤算だったなあ……上手に抜け出せたらいいんだけど……」
「もう抜け出す必要はないんじゃないのか?」
「……、……そういえば、そうだね」
 彼女はびっくりしたみたいに波打つベールのむこうで瞳をまたたかせる。夜な夜なこの公園を訪れていたのは、ここが彼女のシェルターだったからだ。どうしようもなくなる夜に、逃げ出せる場所だったから。けれどこれからは本部に住むなら、もう不要だ。そんな当たり前のことを指摘しただけだったけど、彼女は、すこしだけ不満そうにくちびるを尖らせる。
「いじわるなこという」
「ん?」
「だって、空閑くんとこうして話せなくなるのに」
「おれがセンパイの部屋に行けばいいだけでは?」
 首を傾げると、彼女もこてりと首を傾げた。夜がゆらめいて、透ける。
「……ほんとだ。でも、いいの? フィールドワークできなくなっちゃうけど」
「そんなのもうとっくに終わってる」
「そっか……、そっか」
 はじめてここで会ったときに、そういえばそんなことを言った。それを言い訳にここを訪れたのはほんの数回のことだったから、もうすっかり忘れていた。彼女はずっと、遊真が何かのついでに会いに来たと思っていたのだろうか。
「それともセンパイは、ここがいいのか?」
「ううん。どこだっていいよ。空閑くんとおはなしできるなら」
 彼女がほほ笑む。黒い煙は、やっぱりその貌をかたちづくるように纏わりついていたけれど。それはべつに、いやなことではなかった。
 いつかその顔からベールがなくなる日が来ても、来なくても、構わなかった。
 夜があるから朝があるように、嘘があるから真実があるように――夜のどこかには、ほんとうのことがあると、そう思えるから。
「……いつでも来れるように、合鍵をつくるね」
 そっとささやかれた一言に、すこしだけ驚いて。いいのか、と問いかけてやめて。
「だいじにする」
 とだけ、返した。


_完


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