警戒区域で野良猫を見た話
猫がいた。灰色の猫だ。愛嬌がないというにも程がある表情の読めなさと、黒目がちな瞳が印象的だった。まだ若いのか動きは俊敏だが、ときどき鈍臭い。瓦礫のかけら、とも言えないような小石に蹴躓いてバランスを欠くところを見た。雀にさえもおちょくられているようで、一羽も仕留められずにすごすごと茂みへ引っ込んでいく。そのわりに毛艶は良く、あばらが浮いている感じもないので、どこぞの猫好きと懇ろなのかもしれない。首輪がないこと、それから汚れた手足からして彼(おそらく)が野良であることは明らかだが。
はじめて彼を見たときは『この街に野良猫がまだいたのね』と妙に感慨深い気持ちになった。
この街の中心に聳え立つ『ボーダー』の人間は、数年前から猫や犬の保護活動に乗り出した。あの忌まわしい日に、家族からはぐれてしまった犬猫は多い。そうした子たちが家族のもとに帰れるように。それが無理でも、安全なところで、健やかに過ごせるように――と眠たげな顔つきの少年が話しているのを聞いたことがある。
少年は巧みなねこじゃらしさばきで猫たちの心を掴み、保護活動に貢献していた。今、このあたりに残っている猫はそれを拒絶したもの、あるいはその子孫だけだ。
保護活動が隆盛だったとき、わたしは少年が猫をじゃらしているのを見ていたことがある。そうしたら、眠たげな瞳とばちりと目があって、思わず立ち去ってしまった。
猫たちに家を与えたいという活動や、そのねこじゃらしさばきを褒めたいとさえ思っていたけれど、顔をあわせると妙に気恥ずかしかった。それに『どう話しかけたものだろう』とも思った。わたしは彼と話したことがなかったし、何をどう言えばいいのかもわからなかった。
少年は今もときどき見かける。少年の名前も、居残っている野良猫のことを心配しているらしいことも、もう知っている。けれどやっぱり話しかけることはできなくて、離れたところから少年を見つめることしかできなかった。
灰色猫は目があうといつもふいっと視線を逸らした。それから『おれもきづいてないし、おまえもきづいていない』というていで、とたとたと道の端を歩く。その素知らぬ横顔と、ゆらゆら揺れる尻尾の先を気付かれないように眺めた。
彼とはさまざまなところで出くわした。真面目に餌を探しているようなときもあれば、体の大きい猫に威嚇されてへたりこんでいたときもある。それ以外にも彼は、ひらひら舞うちょうちょを追いかけたり、風にそよぐねこじゃらしをばしりと叩いていたりした。
やっぱりどこか呑気で、あんまり野良には向いていないように思える。どうやら人間に慣れているようで、ごくごくたまに『ボーダー隊員』の前に姿を現していた。
以前、誰かに飼われていたのだろうか。せいぜい三、四歳というところなので、人に飼われていたのは仔猫のころだけで――あの日を境に逸れてしまったのかもしれない。すこし気の毒に思えて、ときどき彼のねぐらに餌を置いてやった。
野良猫がひとに知られるようなところにねぐらをつくるんじゃない、と言いたかった。
『ネイバー』と呼ばれる白い化け物が『ボーダー隊員』によって壊されていくのを屋根の上から眺める。わたしの手伝いはいらないだろう。下にいるのは優秀な人間たちだ。秋のはじめの爽やかな風を頬に受けながら、わたしはあくびをひとつこぼした。
日々は過ぎていく。季節は巡っていく。冬が来ると、街から猫が消えた。餌はろくなものがないし、闇雲に動いても寿命を縮めるだけだからだろう。どこかに隠れているのだ。それか、何匹かは海の男よろしくいくつかの港を持っているので、そこへ身を寄せているのかもしれない。
灰色猫も、最近はあまり見なくなってきた。
猫に餌をやっているおばあさんのところへいって、集まった猫たちの様子を観察した。あの灰色猫はこの餌場を知らないのか、一度も現れなかった。
ベンチに座った老女に『灰色の猫を見た?』と尋ねる。それから、彼女の白濁した瞳に気付いた。盲いた彼女にこういう訊き方は相応しくなかったなと反省する。小さくなったわたしの隣で、彼女は全て見透かしたように笑い『たぶん知らないね』とだけ言った。
見回りを終えて家に帰る。途中で少年ともすれ違ったが、やっぱりわたしは声をかけなかった。
ただいま、と家に入る。応える声はない。この家にはもう、お母さんもお父さんも――あのこも、いないのだ。
灰色猫は生きているだろうか。
寒い寒い風が吹き抜ける夜は、そんなことを考えるようになった。あの灰色を、この家に迎えてやってもいいな、と。
そんな勝手なことをしたら怒られるだろうか。けれどわたしも、ひとりで眠る寒さは、よく知っているのだ。
あのこと眠っていたときには、知らなかったさみしさを。
あのこは、艶々とした黒い毛並みが美しく、まんまるい瞳が愛らしい子だった。物心ついた時にはそばにいて、ずっと一緒にいた。わたしのほうが先に産まれたらしいから、わたしがおねえさんで、あのこは妹で、だからわたしは、このこを守れるひとになろうと幼いながらに誓った。
あのこは優しい女の子だったから、わたしが落ち込んでいたりすると、隣にやってきて、ちょこんと座った。そして何をするでもなく同じ時間を過ごした。ぱたりぱたりと尻尾を動かして、ごろごろと喉を鳴らしていた。
わたしも、あのこがしょぼくれているときには同じことをした。そういうときはさわると振り払われるので、ほんとうにそばにいるだけだったけれど。そのうち、一緒に遊ぶ元気が出てくるのか、ねこじゃらしを持ってくるのだ。
次に灰色を見かけたら、わたしの家に来ないかと誘ってみよう。窓から差し込む朝日に目を細めながら、そう考えた。
とてもいいアイディアに思える。あの灰色猫はわたしが置いていった餌を食べているようだったし、他のひとよりはわたしに気を許しているだろう。
久しぶりに覗いてみたねぐらは、他の猫のものになっていた。腹の膨らんだ様子から、あの灰色猫が居心地のよい寝床をこの母猫に譲ってやったというわけだ。わたしは少しあの灰色猫を見直したが、追い出されただけかもしれない。子を抱えた母は生物を問わず強い。
灰色猫とは会えないまま、その日はやってきた。
あの日によく似た、化け物たちの大行軍。
街が壊されていく。風にのって悲鳴が聞こえる。違うのは『ボーダー』があること。
わたしは情けないことに、建物の影に隠れて震えることしかできなかった。守ると誓ったのに、恥ずかしくて誰にも言えやしない。
長いような短いような時間が経ち、化け物たちは去った。あの日よりはずっと早い。街はさらにぼろぼろになっていたけれど、血のにおいはほとんどしなかったからほっとした。
白い制服を着た子たちがぞろぞろと歩いていく。
――その、あたまに。あの灰色猫を見つけた。
金の髪の、どこかイタチのような雰囲気の、かわいらしい女の子の頭に乗っていた。その顔は、見たこともないくらいご機嫌だった。普段の灰色を知っているわたしぐらいしか、それは読み取れないだろうけれど。
なんだ、みつけたのね。
ふぅ、と溜息を吐く。
なんだ、なぁんだ。いるんだ。一緒にいるための、誰かが。あの灰色には。見つけられたんだ。
交互に動かす脚は自分でも驚くほど遅かった。散らばったガラスの破片を避けるためだ。それ以上の理由なんてない。
ただ、はやく、家に帰りたかった。誰もいやしないのに。
あの灰色の野良猫が、そばにいたい人間を見つけられたことは喜ばしいことだ。なのに、なんだかとても、さみしいのはどうしてだろう。さみしくて、さみしくて、あのこに会いたかった。
――にゃおん。
あのこを呼ぶ。ずいぶんと久しぶりに。返事はなかった。返事がないことを知っているから、ずっと呼ばなかった。
ベランダからしんと静まったリビングに入り、とてとてと階段を上る。廊下を通り抜けて、突き当たり。あのこの部屋の前。扉はほんのわずか開いている。朝と同じに。汚れた体で入るとあのこもお母さんも怒ったから、丁寧にていねいに毛繕いをしてから入った。
あのこのにおいはずいぶんと薄れていた。一緒に眠ったおふとんは、わたしが運んでしまった外のにおいが染み付いている。あんなにきれいにしてきたのに。
――にゃーお。
部屋のなかを歩いた。お父さんが組み立てた学習机、おじいちゃんが買ってくれた赤いランドセル、真っ赤な顔で書いていたラブレターをしまった引き出し。それから。
クローゼット! ぴん、と思いついて尻尾が持ち上がる。おようふくに毛がつくからとお母さんには怒られたけれど、あの扉を開けることくらいわけない。
ガタガタと扉を揺らして、どうにか隙間をつくる。
ふわりと、あのこのにおいが乾いた鼻を掠めた。気のせいかもしれない。もうずっと、ずっと前のことだ。あのこが、ここにいたのは。
伸びた爪を使って、ハンガーからおようふくを落とした。ときどきハンガーも落ちてきて、頭のてっぺんがずきずきとした。
ようやく積み上げたおようふくのなかに潜り込む。
そうすると、あのこが近くにいるような気がした。
ごろごろごろ、雷鳴に似た音があたりに響く。この音を聞くと、あのこはにへらとくちびるをゆるめて笑った。
――そんなにあたしがすきなの?
――うにゃおん。
そう答えたときだけ、あのこはわたしを撫でてくれた。
――にゃうぉん。
あのこはもう撫でてくれない。わたしもこの家もこの街もとっくに捨てられてしまった。
わたしは捨てられたのだ。それは酷く冷たく、重苦しいものをおなかに生み出すので普段は考えないけれど。
でも、ちょっとだけ、わたしが捨てられていたらいいな、とおもう。
帰ってこないのは帰りたくないからだといい。あのこが、おかあさんが、おとうさんが、おわっていなければいい。
きっとわたしはひとりでも、ここで、いくらでもまっていられるから。
そう、灰色猫と一緒じゃなくてもいいのだ。ほんの少しだけ寒かったけれど、また春が来て暖かくなる。たとえ彼を家に迎えていたとしても、春には追い出していただろう。あの少年にだって話しかけない。新しい家なんていらない。
だから、仕方ないから、ひとりでまっててあげる。だって帰りたくなったときに帰れる家がないのはさみしいもの。
あのこの涙はしょっぱくて、とてもじゃないけれどもう舐めたくはない。
――この家を、わたしだけでも守っていてあげる。
そしたら、きっとたくさん撫でてくれるでしょう? とっときの、缶詰のごはんをあけて、頭をとった煮干しと、ひらひらのかつお節と、それからねこじゃらしでたくさん遊んでくれるでしょう? おひざにのせて、わたしのなまえを、呼んでくれるでしょう?
ごろごろ、雷鳴とあのこのにおいに包まれながら、きゅっと丸まって、わたしは眠りにつく。
――ほんとによく寝るねぇ。
あのこの声が聞こえた気がして、ぴくりと耳を動かした。
目は開けない。ここにあのこはいない。たくさんたくさん探したけれど、あのこは見つからなかった。
わたしより大きなあのこは、わたしよりかくれんぼが苦手なのに――見つからなかったの。
夢の中で誰かがないていた。にゃおにゃおと、仔猫みたいにないていた。