肖像の街

 母は写真嫌いで、遺影にはずいぶん苦労した。
 病を得てからはますます厭うようになり、だから、遺影には十年も前の写真を使うことになった。北海道の、薄紫色のラベンダーが咲き誇る花園。母のカメラで七歳のわたしが撮った写真だ。
 葬儀屋を経由して黒い額縁に納められたそれは、今日も線香の細い煙を被る。
 ゆらり。
 窓を閉め切った風のない仏間で、それでも煙が揺れるのはわたしの呼吸のせいだろうか。母を喪って四年が経っても、こうして仏壇の前に座ると鼓動がかすかに乱れた。まだ信じられない、なんて言うつもりはない。四年も経てば父と二人の生活にも慣れた――三門市を狙う近界民の侵攻にも。
 てのひらを合わせる。瞼を下ろすと白檀の香りがいちだんと薫る。
 ときどき、何を祈るべきなのかわからなくなった。ここに母はいない。圧された心臓はわずかに逸るけれど、痛みと呼ぶにはあまりにもやわらかく、穏やかに過ぎ去る。
 手向ける言葉を持たないまま、息を吸って、吐いて、目を開いた。ろうそくの火を扇いで消し、立ち上がる。ほんの数十秒の正座では痺れることもない。
 襖の向こうで足音が響く。そろりと廊下に出てみると、玄関に父がいた。大学生のわたしに比べて、真っ当に働く父の朝は早いのだ。クールビズだろうとネクタイを締めるのは、おそらく、母が何本もプレゼントしたせいだった。
 靴べらをつかって革靴に足を押し込めていた父がわたしに気付き「おお」と笑みを浮かべる。曇りガラスから差し込む陽の光と同じように淡い表情だった。
「いってくるよ。今日は早く帰れると思う」
「うん。いってらっしゃい」
 扉に遮られるまで見送り、かちゃりと内側から鍵を回す。それから仏間に戻って、白檀と薄紫に囲まれた母へ祈り直した。
 父さんが近界民に襲われませんように。
 わたしは神様でも仏様でもないんだけどなぁ――澄ました声が小鳥の囀りに埋もれる。思い描く声がいまだあざやかなのは、わたしと母の声が似ているからに違いなかった。


「先輩のお父さんってボーダー隊員なんですか?」
 部室に入るなり、きらきらとした瞳の後輩が尋ねた。
「職員だよ。裏方さん」
 すかさず訂正を入れれば、奥のソファーに座った一つ年上の先輩が『ごめん』とてのひらを合わせる。情報源は彼らしい。というか先輩、就活中じゃあないんですか。
「なぁんだ」
 明らかに興味を失った後輩は嵐山准のファンを公言している。同じ大学に通う彼は近界民から三門市を守る界境防衛機関『ボーダー』のヒーローだ。メディアへの露出が多いこともあり、『ボーダー隊員』と聞けば大多数は彼を思い浮かべるだろう。
 学年も違うし、接点は大講義しかないんです――と日々嘆く彼女を知っているので、父が広報の仕事をしていることまでは教えない。
「それよりお前、授業あるんだろ。さっさと行け」
「じ、自主休講とか……」
「ばか、あの教授は出席さえしてりゃ単位くれんだから」
「わたしの友達も落としてましたよ。二回休んで」
「うっ……行きます」
 そそくさと荷物をまとめた後輩が立ち上がる。写真部の部室は、暗室のせいでとても狭い。端に寄って彼女が通る道を開け、それから何代か前の先輩たちがどこからか拾ってきたという木製のベンチに座る。
「これ、差し入れ」
「やった。ありがとうごいます……北海道に行ってきたんですか?」
 レトロなデザインの箱が先輩の指先に小突かれて勢いよくテーブルを滑る。バターサンドだ。
「いや、駅で物産展やってた。なんか無性に食べたくなったんだけど、こういうのだいたい一個で満足すんだよな」
「なるほど……」
 二限続きの講義を終えた脳はちょうど甘いものを欲している。さっそく蓋を開ければ、きちっと並んだ個包装はふたつだけ欠けていた。
 いそいそと銀色の包装紙を開く。上から見ても厚みがあるバターサンドで、クリームにはこれでもかとレーズンが入っている。ひとくち齧ればバターの香りが広がって、クッキーはさっくりほろりと崩れた。冷蔵庫に入れていたのか、まだ冷たいクリームが舌の温度でふんわりとほどけていく。ホワイトチョコレートのコクのある甘みを、ラム酒をたっぷり含んだレーズンがやわく締め上げる。
 父は、よくこのバターサンドを買ってきた。北海道へ出張に行ったときはもちろん、百貨店やスーパーで物産展があったときは決まって。母が好きだったからだ。その癖は今でも健在で、ときどき冷蔵庫の隅にちょこんと収まっている。
「おまえって、進路どうすんだっけ。進学?」
「就職ですよ。先輩と同じです」
 数ヶ月前の写真雑誌をぱらぱらと眺めていた先輩が沈黙を埋めるように問う。銀色の包装紙を手持ち無沙汰に折り畳みながら答えた。先輩の方こそ順調なんですか、とか。訊いていいものかわからなくて少し緊張する。
「そっか……がんばれよ」
「アドバイスあったら教えてください」
「そんなのおれの方が聞きてえよ」
「大丈夫ですか、それ」
「だいじょばない」
 大丈夫じゃなかったらしい。罪悪感にも似た錘が胸に沈んで「ええと」と意味のない音が唇から零れる。下手な慰めの気配を感じたのか、先輩はくてりとテーブルへ身を投げ出した。雑誌がかすかに悲鳴をあげる。
「その、なんというか……」
「……出身地を聞いてどうすんだよ」
 ぽつり。
 その声が先輩のものであるということに、一瞬、確信が持てなかった。ここにはわたしとこの人しかいないのに。明朗闊達というには色々と足りない先輩は、けれど、こんなにも弱々しい言葉を後輩に聞かせる人ではない。
「――おまえがあの写真を出さなかった気持ち、やっとわかった」
 顔を伏せたまま、先輩は続けた。
 あの写真。そう呼ばれて過ぎる写真が、一枚だけある。数ヶ月前に行われたフォトコンテストで、応募を見送った一枚――三門市に沈む夕日をとらえたもの。
 いやになるよなぁ。
 声は低く掠れ、言葉としての形を半ば失っている。なのにわたしは、彼が紡いだ言葉をただしく理解していた。顔をあげた先輩は決して泣いてはいない。初夏の暑さも知らないように涼やかな表情でソファーにもたれる。
「……フツーに暮らしてんだよな、こっちは」
 わたしは夕日の写真を撮った。三門という生まれ育った街に、おそらく何万回も沈んだ太陽のひとつをフィルムに灼きつけた。ただそれだけのはずだった。
「まあ、そりゃあ、あからさまに聞いてくるやつは少ないけどな。むしろそっちのがやりやすかったりして。ぜんぜん気にしないやつもいるよ。……でも、たまに、いるんだよな。気にしてくれるやつ。それが何度も重なると、けっこう、こたえる。近界民なんていなきゃいいのに」
 写真には夕日のほかに目を引く要素があった。界境防衛機関『ボーダー』の本部基地だ。警戒区域の外からであれば基地の撮影は許されていたが、嫌だった。ボーダーが、ではない。この街でとっくに日常になった風景が――同情すべきアイコンとして見做されることが。
 だから、外に出したくないと思った。
「でも、三門ってそうなんだよな。そういう場所なわけだ、四年前からずっと……これからも。近界民もボーダーもいなくなっても」
「……そうですね」
 三門市を出て行く人は少ないのだとメディアは報じる。住み慣れた土地から離れがたく思う気質、ボーダーへ信頼を寄せている、経済的に難しい、理由は論者によって異なる。そのどれもが正しく、どれもが間違いということもあるのだろう。
 けれどひとつだけ、こころの奥底で理解していることがあった。三門市にいる限り、わたしたちは、わたしたちの身に降りかかった未曾有の災厄を、ありふれた不幸だと思える。蚊帳の外の人間にさえ記憶され続ける悲しみがあることを、忘れていられる。
「……まあ、いいんだけどな。事実なんだし。ただ就活中のぐずぐずメンタルで向き合うとしんどかったってだけ」
「今から就活が怖くなりました」
「写真家になりゃいいじゃん」
 いつもの調子を取り戻した先輩がにやりと笑う。いつまでも沈んではいられない。浸り続けられないのだ。忘れようと努めずとも、あの日曜日はあまりに遠い。少なくともわたしにとっては。
「簡単に言わないでください。趣味ですよ、カメラは。それも親がやっていたからっていうだけの」
 母は撮られることを嫌ったが、そのぶん撮るほうは好きだった。撮る立場になれば撮られないからかもしれない。母が写った写真は少ないが、母が撮った写真や使っていたカメラはたくさん残っている。
「もったいないなぁ。おれ、おまえの写真がいちばん好きなのに」
「先輩と同じ感性のひとが一万人いたら考えます。そしたらベストセラーですから」
「いるいる、そのへんの公園とかに。おれ、モブだから」
「七十万分の一ですよ」
「世界人口を持ち出すな。急にレアキャラじゃん」
「七十億分の一の先輩、ありがとうございます」
「……素直に褒められておけねえのかおまえは」
 少しだけ頰が熱くなったことを、ついに見破られてしまったらしい。この大学には写真部のほかにもいくつか写真関係のサークルがあるが、ここを選んだのは彼の写真に惹かれたからだ。
「ああでも」
 雑誌にできた折り目を伸ばしながら先輩が呟く。それを横目にふたつめのバターサンドへ手を伸ばした。部室の備品を損なったことへの口止め料である。誰も気にはしないと思うけれど。
「コンテストに出せないってわかってたならさ」
 ――おまえはなんでボーダーの写真を撮ったんだ?
 バターサンドを食べる。その答えを口にすることに躊躇いがあった。


 母が息を引き取ったのは水曜日だった。数学の授業終わり、いつの間にか現れた担任の先生が廊下で手招きをした。いつも朗らかな表情だった彼女の、いつになく硬い表情に、ああ、と気付く。人目を憚るように声を潜め、彼女は『お父さんから連絡があった』とだけ告げた。
 ――ほんとうにこういうかんじなんだ。
 ぼんやりと思った。頭を殴られるような悲しみも驚きもなく、わたしはわたしがとんでもなく冷たい人間になったような気がして、居心地の悪さに唇を噛んだ。
『タクシーは呼んであるから……付き添いましょうか?』
『父も向かっているんですね。だったら、いいです』
 それだけ返して教室に引き返し、何も言わずに荷物をまとめる。友達が『どうしたん?』と首を傾げたので『早退するね』と笑いかける。じゅうぶんに笑うことができた。
 廊下で待っていた先生に今更ながら『ありがとうございます、その、タクシーとか』とお礼を言う。偶然なのか授業が終わるまで待ってくれたのかはわからないけれど、気遣われていることはわかる。先生はちいさく笑って、それから眉を下げた。微笑みさえも後悔したように。
 授業を残した休み時間は騒々しく、明るかった。ほとんど何も入っていない鞄が嫌になるくらい重たい。窓から差し込む陽の光がリノリウムの床に反射して目が眩む。
 車窓から流れる景色を見つめていた。生まれ育った街は今日も変わらないのに、わたしの世界はこれから致命的に欠けようとしている。
 母は、もう何年も前から難しい病に侵され、数ヶ月前に余命が宣告されていた。

 真っ白いベッドの傍らに跪いた父が、母の手を握りながら泣いている。父親にも涙があるのだという当たり前のことを、何故だかわたしはそのときはじめて理解した。
 別れをいう時間はあった。母がわたしと父に笑いかける猶予さえも。
 そうして――母は呼吸をやめた。
 主治医が臨終を告げる。青白い肌にぱたぱたと水滴が落ちる。それが自分の瞳から零れたものだと気付くのに数秒かかった。涙を拭うためにふれた母は、まだあたたかい。目を赤くした父が抱きかかえるように背を支えた。
 ――あなたたち、仲がいいわね。
 病床の母はよくそう言って笑っていた。実際のところはそうでもないけれど。ローティーンのころは数えるほどの会話しかしなかったし、父親という存在はそれだけでなんだか疎ましく(ときには母もその対象だった)関わることさえ億劫だった。
 ただ、わたしたちには同じ敵ができたから。母の体を蝕む病魔を前にわたしたちは共同戦線を張った。言葉もなくひとつの約束を交わした。
 お母さんに心労をかけない。
 そのためなら、わたしは父とうまく暮らすことができたし、父もそうだった。仲がいいと微笑む母を見て、心からうれしかった。
 わたしたちの中心は、あくまでも母だった。――たとえ彼女がこの世からいなくなったとしても。
『お母さんと、帰ろうか』
 父が囁く。うん、かえろう。声は遠く聞こえた。
 
 慌ただしく段取りを整える父にすべてを任せ、喪服に袖を通す。制服を着てもよかったのだろうけれど、これは母が選んだ喪服だ。
 よく似合いそうね、と。そういう悪い冗談を、こっそりと行うのが好きなひとだった。わたしが撮った写真を遺影にしたことも、たぶん母なら笑ってくれるだろう。
 白百合の花を棺に手向ける。こんなに大きな花束を贈ったことはなかったな。父が呟いた。
 白骨をひろう。白手袋に包まれた指先が一つひとつ説明してくれた。こんなに小さかったんだね。わたしが言うと、祖母が泣いた。
 白煙がゆらめく。数ヶ月のあいだ入院して、帰ってきて、出かけて、そしてまた帰ってきた母は、ずいぶん小さくなった。白い布に銀の糸で施された刺繍は緻密で、纏まらない思考を投げ出したまま時間をつぶすのに向いている。
 唇を開き、閉じる。かたちにできないものを掴もうと、魔法でも信じるような気持ちで言葉を紡ぐ。
「おやすみなさい」
 返事はなかった。たぶん、明日の朝もそうだろう。
 母は、もうどこにもいない。

 悲しみに貴賎がなくとも、不幸に規模はある。
 わたしと父を包んだ喪失を笑うように、母が帰ってきた翌日の日曜日――三門に『穴』が空いた。

 その穴の正しい呼び方は『門』である、と発表された。『門』から現れた白い――シーツよりも白百合よりも骨よりも白い、見たことのない化け物は『近界民』で、それを撃退したのは『ボーダー』で、母を看取った病院は瓦礫の山となれ果てて、何人ものひとがいなくなって。
 母が。あとほんの数日、永らえていたら。
 わたしと父も、いなくなっていた。
 日曜日は、いつもお見舞いに行っていたから。
「――お母さんは救けてくれたんだと思うんだ」
 静かなダイニングに父の声が落ちる。混乱と瓦礫を残した街の片隅、わたしは自分の心臓が止まっているような錯覚とともに日々を過ごしていた。ほんの僅かな期間にふたつの喪失が起こって、わたしの心はうまく機能していない。
「母さんが、あの日に死んだのは、俺たちを守るためだったんじゃないかと、思うんだ」
 一つひとつを噛みしめるように、父は言う。お母さんが、水曜日に死んだのは、わたしたちを守るためだった。なぞるように繰り返す。そんなわけがない、と十三歳のまま静止していたわたしが父に嚙みつこうとする。それを、十七歳のわたしは宥めた。
 ――そう思わなければ耐えられない。
 はらりと涙が溢れる。母を看取ったあの日から枯れたとばかり思っていたのに。
 近界民による侵攻が起こっても起こらなくても母は遠からず荼毘に付されただろう。母がこの世を去ったのは、その身体が停止したからであり、わたしたちを守るためではない。あんなことが起こるなんて誰も知らなかった。
 けれど、母の死に意味はあり、わたしと父が生きているのは彼女の望みだ、と思うこともできる。意味のない死より意味のある死のほうがいい。父はそう判断したのだろう。
 それを責めることはできない。誰のことも責められない。わたしたちの場合、憎むべきは病魔であり、医学でも隣人でも近界民でもボーダーでもなかった。
「だから、俺もだれかを守りたいと思う」
 わたしは色々なことを、ほんとうに色々と考えたけれど、さいごには「いいと思う」と頷いた。日曜日に一緒に死んでしまいたかったと言われるよりは、ずっといい。
 そして父はボーダーに入った。

 近界民に悪感情がないといえば嘘だけれど、憎悪を薪のように炎へくべてはいない。だってわたしはあの侵攻で何も失っていない。失っているものがあるとしても、水曜日に喪った母よりも大切なものはなかった。ボーダーさえも憎悪する市民がいる街で、誰も憎まずに済んだことが、おそらくわたしにとっての意味だ。
 だからこそ、こんな写真も撮れた。
 ダイニングテーブルに写真を広げる。コンテストへ応募するために撮り貯めた写真だ。あの写真も、まだ持っている。応募したものよりもこっちの方がいい写真だということは、誰に言われるでもなくわかっていた。
 夕暮れと本部基地。無骨な灰色の建物は、空と同じ朱鷺色に染め上げられ、輪郭は夕闇にとろけている。沈みゆく太陽は光の穂先を街へ伸ばし、雁の群れが列をなす。
『おまえはなんでボーダーの写真を撮ったんだ?』
「きれいだったから」
 先輩には言わなかった答えを囁く。
 わたしは、三門という街の夕暮れがただきれいだったからシャッターを押した。そこに含みも憂いも啓蒙もない。界境防衛機関『ボーダー』があることも、近界民が日夜襲う土地であることも、すべてを受け入れて――あるいは、どうでもよくて。
 だから、きれいだ、と言うのも躊躇った。先輩の家は警戒区域の内側にあるらしい。口はたしょう悪くても気遣いができる人なので直裁に言わないが、ボーダーに対して良い感情ばかりでないことも知っている。
 そういう人は決して少なくなかった。つい先日も、食堂でボーダー隊員が水をかけられる騒動があったという。
「ただいまー」
 玄関から父の声が響く。廊下への扉を開けて「おかえり」と返した。
 警戒区域内で働く父が、今日もちゃんと家に帰ってきたのは母に祈ったからではなく、整備された連絡路と、仕事の量をきちんと調整できる上司のおかげだ。記者会見で見かける根付さんは父よりも若いけれど、その手腕は確かなものだという。
 父はネクタイを緩める前に仏間へ行き、母にも「ただいま」を告げた。母への挨拶を、父は欠かしたことがない。痛みがなくなっても、忘れることはなかった。そうしてわたしと父の日常は回り続けるのだろう、と思う。

「この写真、いいなぁ」
 寛いだ様子で写真を眺める父が呟く。スマートフォンの液晶から顔をあげて「どれ?」と尋ねた。父が見ていたのは、やはりというか、夕暮れと本部基地の写真だ。夕飯を食べるときにダイニングテーブルの隅に寄せてそのままにしていた。
「きれいでしょ」
「ああ。本部って夕方にはこうなってるのか」
「いつもじゃないよ。条件がよかったんだと思う」
 近づけたり離したりしながら、父はしげしげと写真を見る。よく考えれば、この写真には父がいる。もちろん本部基地の中は見えないし、それを言ったらいったいどれだけの人間がこの一枚に収まっているのか、という話だけれど。
「この写真さ、使っていいか? 仕事で」
「ボーダーの?」
「デザイナーがいい写真はないかって探しててな」
「……どういう用途なのかにもよるけど」
 自分の写真が意図と違う使われ方をするのは、言葉にしがたい拒否感がある。父もそれは理解しているのか、守秘義務に反しない程度に概要を教えてくれた。簡単に言えばイメージ戦略らしい。ボーダーと市民が協力して街を守っている、というようなメッセージだ。
「実は企画の元は父さんが出したんだ」
 そう照れたように言われては断りにくい。コンセプトもそれほど受け入れ難いものではなかった。ボーダーと市民は、そのまま父とわたしに言い換えられる。わたしが守っているのはわたしの日々であって、街ではないけれど。
 撮影者の名前は隠すこともできるし、あくまでも候補の一つとして提供するだけ、と確認してから了承した。採用されたら使用料も出ると思う、と言われたことが大きいのは内緒にする。ちょうど新しいレンズが欲しかったのだ。


 茹だるような夏の陽射しがアスファルトをじりじりと焦がしている。日傘の下で溜息を吐く。こうも暑いと滝行でもしたくなる。実際にしたことはないけれど、蝉の声を浴びるよりは水を浴びたほうが涼やかだろう。
 忘れ物をした、と父から連絡があったのが数十分前。会議続きで身動きがとれないというので、ダイニングテーブルに置きっ放しにされていた紙袋を手に家を出た。夏休みでなければ断っていたのに。
 警戒区域へ繋がる連絡路の入り口で待った。青い空の隅には灰色の本部基地が見える。もしも会議が早く終われば父が、無理なら同僚の方が取りに来るらしい。父のミスに付き合わせるのが申し訳なくて、せめてものお詫びにコンビニで冷たいお茶を買った。
 これがぬるくなる前に現れて欲しいと真夏の太陽に願う。……いっそ自分で飲んでしまおうか。
「あの」
 と、低い声が響いた。日傘を持ち上げて声をかけてきた男性を見上げる。ポロシャツ姿のその人は名刺を取り出してボーダーに所属するデザイナーであることを明かし、それから父に頼まれて来たのだと続けた。あらかじめ聞いていた名前だったので、紙袋とお茶を手渡す。
「父がいつもお世話になっております」
「いえいえ、こちらこそお世話になっています。それから、写真の件ではご助力ありがとうございました」
「……あなたが?」
「ええ。もう掲示されてますよ。見ましたか?」
「いえ、直接は……父が写真を撮ってきてくれましたけど」
「では是非。ぼくとしてもいい仕事ができたんじゃないかと思ってるんです。青空の、爽やかなイメージも候補にはあったんですけど、あの一枚はなんていうか、街も基地もぜんぶ夕日にとけこんでいて……これが今の街の姿なんだと、素直に思えました。いい写真をありがとうございます」
 プロのデザイナーに褒められて唇がもにょりとする。赤い頰は陽射しにあてられて元からとしても、耳まであつい。こちらこそありがとうございます、もつれそうな唇をどうにか動かす。
「あと、ぼくの実家が写ってるんですよ」
 それでつい、と男性がはにかんだ。
「隊員は気遣ってくれる子も多いけど、そのうちなくなっちゃうかもしれないから――残しておきたくて」
 そうなんですね、と乾いた喉で呟く。わたしも、もしかしたら残したかったのだろうか。いいや、わからない。わかるのは、あの日の夕暮れがきれいだったことだけだ。薄紫の花園で微笑んだ母と同じように。

 父の同僚と別れて帰路につく。またコンビニに寄って涼もうと考えていたら、ポケットにいれたスマートフォンがメッセージを受信した。父さんかな、と画面を開けば先輩からだ。バターサンドをもらった日からいよいよ就活と卒論に迫られているらしく顔を合わせていない。
『やっぱいい写真だな』
 それから、画像が一枚。駅に掲示されているボーダーの大型広告。いくつかの写真を組み合わせたもので、三門市内の風景や嵐山隊をはじめとする隊員、デスクワークで支える人たちも写る。そのなかでも目立つ位置にあの一枚があった。――夕暮れと本部基地。撮影者の名前はどこにも出ていないはずだ。
 送られてきた九文字の意味を考える。ボーダーの本部基地は、ある時点までは街にとって異物で、いつからか一部になった。先輩はそれをどう思っていたのだろう。あの写真には、もしかすると彼の家も写っていたのだろうか。
 先輩の話が聞きたい。衝動的に思ったけれど、そう簡単なことでもない。どれだけ風景にとけこんでも、年月を経ても、繊細な話題には変わりない。この街がボーダーも近界民も知らなかったころに戻れないように。
『七十億分の三だったみたいです』
 悩んだ末にそう返した。すぐに返事が届く。
『素直に褒められておけよ』
 声が思い浮かんだ。からかうような低い声が。
 きれいだったから――あの日、そう言ってもよかったのかもしれない。あの写真をいちばん最初にいいと言ったのは、先輩だった。
『就活終わったらどこか遊びに行きましょうよ』勢いのまま文字を打ち込む。
『あと、写真を撮らせてください』今度の返事はすぐには来なかった。スマートフォンを片手に夏を歩く。日傘を傾ければ目に痛いほどの青空がある。
 彼を撮りたい、と思った。べつにきれいな人ではないから、これは残したいということなるのか。そう考えると浮つくような感覚があって、気恥ずかしさが頰に集う。
 でも、きっと撮りたいものがあるうちに撮るべきだ。
 ラベンダーと微笑む母の写真は、七歳のわたしが撮っただけのことはあり、ピントは甘く輪郭が少しぼやけている。
 仏間に飾られたそれを見るたび、どれだけ撮り直したいと思っただろう。もういちど、会えたならと。けれど母は、やっぱりもうこの世にはいないから。
『まあいいけど』
 液晶に文字が映る。素っ気ない言葉に笑みを零す。
 わたしの人物写真はたしょう縁起が悪いけれど、先輩なら笑って許してくれるだろう。

三門市モブ市民アンソロジー『市民群像』寄稿


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