喫煙室

「好きな女の骨を拾ったことはあるかい?」
 廊下の突き当たり、ガラスで区切られた喫煙室に男の声が響いた。蛍光灯の白い光を紫煙が薄っすらと遮る。ボーダー本部の、それも上層部と呼ばれる人たちのうち昼夜の区別がついているのはどれだけか。通信室のいちオペレーターに過ぎない自分にはその多忙さも理解しきれないが、唐沢さんの目元に刻まれた濃い隈を見ればその一端は窺い知れる。二徹、いや、三徹と見た。顔見知りの雑談としては相応しくない話題も出てこようというものだ。
「骨、ですか」
「そう、骨」
 真夜中も半ばを過ぎた本部は子どもたちが少ないぶん静かで、喫煙室には二人だけだった。普段ならもう何人かたむろしているか、全く誰もいないかだ。冬島さんのところで麻雀大会でも開かれているのかもしれない。
「好きなひとのは、ないですね」
 麻雀の方に行けばよかった、と思わなくもない。なのに真面目に答えているのが自分でも意外だった。相手がこの人だからだろう。唐沢さん。唐沢克己さん。営業本部長で、ボーダーの資金のほとんどを任されていて、それに完璧に応える敏腕交渉人。同期には彼へ片思いしている子がいる。ちょっぴり黒い噂もあるのも、まあ、この人に限っては魅力になっている。そんな人から出てきた〝好きな女の骨〟という言葉には妙な引力があった。
「そうか」
 立ち籠める煙がゆらゆら揺れて霞む。煙草を支える指先でさえ隙がない。
「俺もないんだ」
 吐息に紛れるような囁きだ。全て幻なのではと思うほど喫煙室の中はいつも通りで、なのに滲みに似た言葉が鼓膜に残る。好きなひとの骨を、拾ったことがあるかい。俺もないんだ。
「……それは、かなしいですね」
 ふかく呼吸する。吸って、肺を煙で満たして、吐き出す。
「――きみなら、そう言うと思ったよ」
 弛んだ笑みのなかに小さな労りを見つけた。知ってたんだなぁ、ぼんやり笑う。短くなった煙草をくしゃりと潰して、新しい一本を咥えた。かちりとライターを鳴らすも火はつかない。オイルが切れているらしい。安物のライターはすぐにこうだ。
「よければ」と唐沢さんが鈍く光るジッポライターを差し出してくれた。有り難く受け取って火を灯す。最初の、まずい煙を吐き出す。吸い過ぎだよ、と窘める人はもういない。
「無遠慮に聞いて悪かったね」
「いえ……」
 恋人を亡くした。あの、最初の、侵攻で。彼女の遺体は見つかっていないが、そこに希望を見出すことは少し前にやめた。生きている方が彼女にとっては地獄かもしれないと思ったら、いっそ静かに眠らせてやりたくなった。生かし続けることが苦しくなった、のかもしれない。
 それでも自分はまだボーダーにいる。彼女を捜すためではなく――では、何のために。答えはないが、ボーダーを辞めてもいない。
「もう、四年も経ったんですね」
 頭を打ち付けて切った額の傷も、瓦礫を掻き分けて剥がれた爪の痕も。なくなりこそしないが目立たない程度に治り、そこに傷があることを忘れるときがあった。喪失は慣れるものだ。その瞬間がどんなに辛くてもずっとそのなかに揺蕩っていれば、ガラスの破片が海で丸くなるのと同じに、抱えられるものになる。髪を切った違和感が三日も経てばなくなるように、土産物のキーホルダーを失くしたときのように。
 彼女のことを忘れたわけではない。思い出は今も鮮明で、ああけれど、彼女がいないことは受け入れられた。故人を偲ぶ、ということが、できるようになってしまった。彼女がいた過去は過去で、もう現在と切り離された出来事で。新しくだれかを愛することはできないけれど、ひとりで生きていける。ひとりで眠る寒さだけが、あの温もりを求めさせる。
「四年も、経ったので……」
 かたちにならない言葉を探してまごつく。唐沢さんが小さく相槌を打った。わかるよ。その一言が、なんだかもう、どうしようもなくて。
「ひろってやりたかったな」
 ぽとり、とおちる。灰が。しろい、おまえがなれなかった、もの。ひろってやりたかった。せめて。せめて、そう、しずかに。ねむらせてやりたかった。
「……ああ」
 低い声が煙に紛れる。重なって霞む煙が今この場所と現実を切り離していく。体に悪いよ。禁煙しないの。声をなぞろうとすると途端に不明瞭になっていくのが嫌だ。きっとこうだったと脳の中で繰り返す声は、間違いなく彼女のものじゃない。そんなに吸ってたら長生きできないよ。できたよ。すくなくともおまえよりはさあ。
 煙草を吸って、吐いて。じわりと広がる灰を落として。眩いほどの蛍光灯を見上げて。煙でゆるやかに遮って。冷えた壁に背中を預けて。それから。
「もう四年も、経ったってのにね」
 熱く溶けるような瞳を持て余しながら小さく笑う。唐沢さんは「本当にね」と微笑みながらも、廊下のはての暗闇を見つめて煙草を燻らせた。


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