筆跡
蛍光灯のひかりが白々と書類を照らしている。人々は寝静まり、かすかに家鳴りが聞こえた。外から響く音のほうがずっと明瞭な夜だった。
傍らに置いた万年筆を手にとった。ずしりとした重みは今までの人生になかったもので、心臓がわずかに跳ねる。しんと冷えた感触がまだやわい手にしみこむ。キャップを外すと、金色のペン先がひかりを浴びてかがやいた。
インクが出ないことに気付いて、文房具店に相談へ行ったのは昼間のことだ。
いい万年筆ですね。
店主らしき男性の微笑んだ言葉が過ぎる。深いしわの刻まれた日焼けた手は、とても大切なものにふれるように万年筆を扱った。
濃紺の軸には細やかな傷ができている。ところどころ塗装が剥がれ、金属の下地が見えていた。自分ではわからなかったがペン先もすこし曲がっていたらしい。パーツの交換はなるべくしないでほしいと伝えると、店主は驚くでもなく、かしこまりましたと微笑んで隅々まで丁寧にメンテナンスをしてくれた。
ペン先を紙にあてがう。これに名を記すときは、この万年筆を使うと決めていた。深い夜のようなブルーブラックのインクが軽やかに伸びる。轍のなかで藍がゆらり揺れた。
奈良坂 透
とめ、はらいはしっかりと。はねは控えめで、全体の均整がとれた端正な字だ。慣れない万年筆に身構えていたが、思っていたよりも書きやすかった。まだ濡れたままのインクがなめらかにひかりを映す。
この名前をつけてくれたひとのことを思い出した。
崩れた家から、万年筆と数枚の写真に、彼が気に入っていた一眼レフと、それから位牌を掘り出したのが、もうずいぶんと昔のことのように感じる。かの人の名残はただそれだけだった。
おじいさま。
こころのなかで彼を呼ぶ。
どうしたんだ、とおる。
やわらかな声はもうどこにもない。膝のうえに招き、おかあさんにはないしょだよ、と飴をひとつぶ手のひらにのせて、やさしく目を細めて笑っていたひと。
子ども好きだった祖父が、あの侵攻と今の三門を知らないまま安らかに眠れたのはきっと僥倖だった。
まんじりともせず、記した名前を見つめる。黒のポールペンで書かれた父の名前も並んでいた。インクが乾くのを待つ。秒針の音が耳についた。濃い藍はゆっくりと黒へ移ろう。
人さし指のはらでそっと文字にふれる。そこになにも付いていないことを確認してから、封筒のなかに書類を滑り込ませた。
息を吐く。思いのほか大きく響いた。封筒が折れないようにクリアファイルで挟んでからスクールバックに入れる。万年筆は枕元のサイドテーブルにそっと置いた。
ぱちりと照明をおとし、ベッドに横たわる。
二年が過ぎ、狭いながらも物が増えた部屋を眺めた。仮初めの家に物が満たされるたび、なにかを失ったような気持ちになる。
万年筆の細やかな傷が月影に瞬いていた。そのひかりをじっと見つめていれば、ゆるやかに瞼がおちていった。
*
「ふふ」
となりから囁くような笑い声がこぼれた。参考書に向けていた顔を上げる。やわらかな笑みを浮かべた従姉は、ふたつのノートを見つめていた。
「どこか間違えているか?」
彼女とこうして勉強をするのは幼い頃からの習慣だった。見舞いに行った病室で、あるいは彼女の部屋で。傍らには祖父がいた。
今はボーダー本部の片隅、ふたりで。そうすることがいつしか当たり前になっていた。
「ううん、違うの。あのね」
なにか重大なひみつをこっそりと打ち明けるように、声はひそめられた。
「前に、くまちゃんと茜ちゃんから、私と透くんの字は似てるねって言われたの。そのときはそうかな? と思ったんだけれど、いま見たら、ほんとうに似ていて」
その言葉に導かれるようにノートを見る。ふたつの文字は大きさの違いこそあれ、とめはねはらいの癖が似通っていた。数字の書き方も同じだ。
本当だ。呟いた声に笑みが重なる。
「私たちふたりとも、きっとおじいさまの字に似てるのね」
「……ああ、そうか」
ひらがなの練習も、漢字ドリルも、何度も一緒にやった。彼女と――祖父と。
自分と彼女は同じひとをおじいさまと呼んだ。彼はたしかにここに生きていて、だからふたりはここにいる。
シャープペンシルで綴った文字を撫でた。筆箱には傷ついた万年筆が収められているけれど――この筆跡もまた、彼の。
「……そうかもしれない」
「透くんの字、おじいさまにそっくりでびっくりしちゃった」
よろこびを滲ませる声に、玲の字も似てるよ、と返す。自分でも気付かないうちに頬がほころんでいた。
この笑みも。ほんのすこしだけでも、似ていればいい。