言葉が枯れるまで

 漂う線香のにおいは、つんと鼻の奥を刺激する。慣れないにおい、だ。嵐山准は黒服を纏ったおとなたちの間をすり抜ける。まだ裾のあまる中学の制服、自分と同じものを着ているはずのひとを探していた。
 そう広くはない会場だ。ホールの人だかりを抜けて、奥の部屋。線香と花のにおいが混ざり合ったそこにも姿が見えないとなれば、あとは、こどもの専売特許。曲がった廊下のさき、階段の踊り場、使われていなさそうな倉庫。ぱたぱたと駆けるところを見つかれば、きっと側にいなさいと言われるから、おとなたちの目を盗んで、小さな建物の中を走る。

「迅、」
 地下にひとつ降りた階段の、横。さらに下へ降りる階段があったかもしれない平らな床の上。ぴたりと壁に背を沿わせて、息を潜めている迅悠一に、階段の半ばからそっと声をかける。
 ゆっくりと、迅が顔を上げて嵐山を見つめた。
「どうしたの、あらしやま」
 汗、すごいよ。
 迅は妙に冷静に呟いて、制服のポケットからハンカチを取り出す。手すりを支える金属の間から差し出されたそれを受け取って、けれど顎を伝う汗を吸わせることはない。ぎゅっとハンカチを握った。はく、と言葉にならない声が、中途半端に開いた口から漏れる。
 薄暗い階段横に座り込んだ迅の顔が、こちらを見ているはずのその顔が、よく見えない。泣いてはいないのだと思う。口元にはかすかな笑みさえ浮かんでいる。それが、ほんとうの顔なのか、嵐山にはわからない。
「……迅、どこに、いったのかと」
「あぁ……それで探してた?」
 ゆっくりと頷けば、迅は「ごめんね」と囁いた。あおい瞳が気怠げに細まって、浮かべた笑みが深くなる。
「すぐ戻るからさ。もう、移動するんでしょ」
「いや……まだ、時間、あるみたいだ」
「そっか」
 迅に会うのは久しぶりのような気がした。見かけたり、顔を合わせたりすることはあっても、ふたりでこうして話すのは。迅とちゃんと会うのは、彼の母が亡くなってから、はじめてのことかもしれない。
 嵐山はそっと階段に腰を下ろした。金属棒の向こうに、迅の茶色い髪が見えている。嵐山が座ったことに気付いただろうに、迅はまた俯いて、何も言わなかった。つめたい床が、じわじわと体を凍えさせていく。迅はどれくらいここにいたのだろう。
 なにもできないことはわかっていた。なにも、なにもだ。こんなときにどんな言葉をかけるべきなのか、かけないべきなのか、嵐山はしらない。この場に集まったおとなたちでさえしらないように思う。
 迅の母は、これから火葬場に運ばれて、燃え尽くされる。嵐山もついさっき、お別れの挨拶をしてきた。迅とはあまり似ていなくて、きれいに笑うひとで、棺から見えたその顔は眠っているようにも見えて。けれど隔てられたみえない境界線が、こころのなかに重くなにかを落として、かなしくて、さみしい気持ちにさせる。痛みにも似たそれを、迅も感じているはずだった。嵐山以上に。なのに。
「おれさ」
 ぽつりと、迅が呟いて。
「……おれ、ずっとかあさんの顔、どこかで見てたような気がしてたんだよね」
 そこに涙のいろはなくて。嵐山が相槌を打つか決めかねているうちに、ぽつりぽつりと言葉が溢れていく。
「かあさんに似たひと、どっかで見たんじゃないかって、それこそ物心つくころには思ってて」
「それをかあさんにいうと、『悠一はわたしに似てるからね』とか言われて。『鏡で毎日見てるのよ』とか」
「全然、似てないのにさ」
「どこで見たんだろうって、小さいころはずっと考えてたんだ」
「かあさんに、似てるひとで、同じじゃないんだよ。かあさんと同じじゃないけど、似てるひと」
「まあ、そのうち、気にしなくなったんだけど。でも、さっき、急に思い出して。それで」
「それ、で……」
 嵐山は黙ったままその言葉たちを聴いていた。それはぽろぽろと、涙のように滑り落ちていく。けれど迅は、きっと泣いていなくて。その言葉に悲しみをちっとも滲ませなくて。
「……赤ん坊の頃だったのかなぁ」
「まだ、生まれる前の、胎児のとき」
「見えてるんだってさ、一応。お腹の中にいるときも。こないだ授業でやったの、覚えてる?」
 返事はしなかった。手元に目線を落として、迅が貸してくれたハンカチを見つめる。迅のすきなあおいろのハンカチ。名前の刺繍は、きっと迅の母がしたものだ。
「あのときに、みたのかもしれないって、さっき、気づいた」
 声が、かすかに震えていた。
「……おれが、かあさんに似てるって思ってたひとは、かあさんだった」
「そのひとは、かあさんだった。いまの、かあさん。眠ってるかおの」
 迅がなにを言っているのか、理解できているわけではなかった。それでもなにか、胸を締めつけるようなものがあって。ぽつり、と溢す言葉をただ受けとめて。けれど彼の言葉を邪魔しないように、あふれそうになる涙はぐっと堪えて。
「おれは未来をみてたんだ。生まれる前から。かあさんのお腹の中にいるときに」
「今日のかあさんの顔は、おれが小さいころ見てたかあさんの顔と、似てるけど違ってて、それは当たり前なのに、だから、小さいころはちがうひとだと思ってて」
「いまの記憶に残らないくらいむかしにみたそれを、おれはずっと覚えてたんだ」
「おんなじじゃないけど、おなじひとだったんだ」
「おれは、それにずっと気づかなくて」
 はは、と、息がもれて、迅が笑う。かすかに宙を震わせて。迅をみれば、ぼんやりと壁を見つめている。つむじが見えた。自分より低い位置にある頭が、まるで弟妹のようにいたいけなものに見えた。
「……笑っちゃうよなぁ」
 ひとしずくの涙が、穏やかな水面を乱すように。その声が震えて、滲む。
「似てるもなにも、おんなじひとなんだし。ちょっと、歳がちがうだけで」
「それなのに、今の今まで、気付かないんだからさ」
「ほんと、さぁ」
 わらっちゃうよ。
 ぽつりとこぼして、迅は口を閉じる。いまの話がどういうものだったのか、嵐山にはわからない。思い出話というには、それらしくない。そもそも、とても不思議なはなしだ。赤ん坊のころに、迅は今日の、母のあの顔を、見ていたというのだろうか。そしてそれを、覚えていた。こころのどこかで。そうなのか、と頷くべきなのか、迷った。
 笑ってしまうというわりに、迅が笑ったのは一度だけで。震えるような、嗚咽にも似た短い笑い声。あの声に揺らされたのは夢だったように、静かで冷たい空気がふたりを取り囲んでいる。
「……迅は」
 悩んで、悩んで、やっとそれだけ絞り出した。一度開いた口は、ぽつりぽつりと語った迅とはちがって、いろんなことをたくさん言いたがる。けれどその言葉たちを削ぎ落として、ただ一言を告げた。
「迅は、お母さんに似てる」
「……そっか」
 震えているのかどうか判別のできない、短い言葉。迅はまた黙ってしまう。
 迅のつむじから、手元のハンカチへと視線を落とした。彼も、しらないのだと思った。こんなときに、なにを言えばいいのか。嵐山や、まわりのおとなたちがしらないように、迅も、しらないのだ。
 なにも言わずに泣いてもいいということさえ、きっと彼は、しらない。それを教えてくれるはずのひとは、これから灰になる。
「そうだと、いいなぁ」
 その声に、ほんの少しだけやわらかな光を感じたのは、そうであって欲しいと思う嵐山が勝手に感じた、ただの幻想なのかもしれない。それでも、やっぱり、そうであって欲しいと思った。
「……もっと、みておけばよかった。かあさんのこと、みて、おけばよかった」
 じわりじわりと滲んだ声がくぐもっていく。迅は膝に顔を埋めて、みておけば、と繰り返す。それは早すぎる別れへの戸惑いとか後悔以上の、懺悔ともいえるようなもので。ちいさな声で、迅はなにかを囁く。なにを言うべきかわからなくても、なにかを言わなければどうしようもない。こころを突き刺す痛みには、それぐらいしかできない。それぐらいしかできない痛みを思えば、迅の母を見つめたときの痛みがかえってきて、あのときよりもずっと強く、突き刺すようで。
 迅が懺悔するようにこぼす言葉の意味を、嵐山は知らない。 きっとまだ、触れていいものでもない。だから。時々跳ね上がる迅の背中を、目を閉じてみないようにした。涙と嗚咽を殺して震える声を、その言葉を、耳塞いできかないようにした。それでも、迅と、迅の母をおもって溢れる涙と嗚咽だけはどうしようもなかったけれど、嵐山はそこに座ったまま、側にいることにした。ひとりには、させたくなかった。

「迅、返す」
 上の方が騒がしくなっていた。迅を呼ぶ誰かの声に、移動し始めているのだと悟る。嵐山は迅のつむじのうえに、借りていたハンカチを置いた。まだ広げられてもいなかったそれは、握ったときにしわは少しできてしまったけれど、きれいなままだ。それを受け取った迅が、「いいの?」ときく。いいもなにも、それは元々迅のものだけど。
「俺はだいじょうぶだ」
 濡れた目元を、制服の袖で拭った。すこしだけひりひりとするけれど、問題はない。ポケットには自分のハンカチが入っているし、両親と合流する前に顔を洗えばきっとばれない。
「……行かなきゃね」
 迅が囁く。その声は見つけたときのように落ち着いていて、震えも涙のいろもなくて。けれど、彼のこころの中まではわからない。なにを言えばいいのかしらない迅が、けれどうそは得意なことを知っている。
「……先に行ってるな」
 嵐山は立ち上がって、階段をゆっくりと登る。
 しばらくしてから、物音と、それから階段を登る足音が聞こえてきた。立ち上がれるその強さが、羨ましくて、かなしかった。
「あらしやま」
 踊り場を過ぎて折り返したところで呼ばれる。まだ踊り場にいた迅と、目があった。目尻が赤いように見えたけれど、気のせいかもしれない。そう思えるほど、いつも通りの迅だった。
「なんだ?」
「……いや、何でもない」
 やわらかく、頰を緩めたように見えた。笑った目元に涙が滲んだようにみえたことは、きっと言わないほうがよいのだろう。とっ、と階段を駆け上がった迅が、隣に並ぶ。
「行こっか」
 嵐山が返事をする前に踏み出された一歩を追う。隣で階段を登る。ちらりと見た横顔は、あおい瞳は、まだすこし危うくも見えた。けれど、彼が行くというのなら、行くだけだ。

 線香のにおいが強くなる。喪服を着たおとなたちが、迅を見て声をあげる。こっちだよ、と呼ばれて、迅は誰かの車の方へと足を向ける。斎場から火葬場へ、迅の母はもう運ばれていっただろうか。
「……また、学校でね」
「ああ、また、学校で」
 ちいさく笑みを浮かべた迅に答える。ここから先は、迅の母と近しいひとしかいけない。
「……迅がよければ、また、話を聞かせてくれ」
「つまんない話ばっかだよ」
「聞きたいんだ」
「……まぁ、いいけど」
 その笑みはほんとうな気がした。うそが得意な迅だけど、なぜかそう思ったから、嵐山はそれを信じる。そうでなくても信じるけれど。
 迅が車の後部座席に乗り込む。その車が角を曲がって見えなくなるまで、嵐山は見送った。

 空が青く、火葬場のあの煙突からでた煙が、この空に溶け込むことが、よかったような、かなしいような、さみしいような。言葉にすると、すべて違うような。言い尽くせない、というのはこういうことだと知った。こんなふうにごちゃ混ぜになった感情を、迅はぽつりぽつりと言葉をこぼすことで整理しようとしていたのかもしれない。
『おれは未来をみてたんだ。生まれる前から。かあさんのお腹の中にいるときに』
 それが、ほんとうだとしたら。迅が、覚えていないくらいむかしにみたそれを、ずっと憶えていたのだとしたら。きっと、これからも憶えていくのだろう。二度もみたその顔を、ずっと。
 かなしいと言わなくなる日が来るのだろうか。それもよかったと言う日が来るのだろうか。それはどんな日だろう。迅が、ほんとうに笑いながら、母とのことを語る日は。
 そのときに、迅の側に、対等にいられるだけの強さがあれたなら。すこしは、彼が自分に涙を許すことができるようになるだろうか。
 穏やかな風が頰を撫でて、それはいつか触れた、迅の母の手に似ている気がした。


close
横書き 縦書き