かみさまを許さない

「線路のうえをトロッコが走っています。さて、その前方に人影がありました。運転手が警笛を鳴らしますが気付く様子はありません。トロッコは速く、このままではその人影は轢き殺されてしまうでしょう。――しかし、あなたはちょうど、線路の分岐器の側にいました。あなたがレバーを動かせば、トロッコは進行方向を変えて、その人影を助けることができます」
 大学の広い講義室にマイクを通した教授の声が響いた。「あなたならどうしますか?」さざなみのような密やかな声が問いかけに応える。「動かす人、手を挙げて」講義室の席を埋める大多数が手を挙げた。かくいう嵐山もそのひとりだ。
 講義室を見渡した教授は「そうですよね」と頷いた。嵐山は手元のノートに板書を書き写す。『トロッコ問題』とあった。それから二つに分かれた線路の図があり、一本の部分には電車の絵が、分かれた先の上の線路に人の絵が、ちょうど分かれる部分にレバーが描かれて、その側には『あなた』と記された人の絵がある。
「では、条件を変えましょう。前提は先ほどと同じ、轢かれそうな人が……そうですね、今度は五人います。もちろん、あなたは分岐器を操作してその人を助けることができる。ただし――分岐した先にも、線路のうえに人がひとりいます」
 同じような図が描かれて、けれど今度は、上の線路の人数は五人に、下の線路には一人が描き込まれる。嵐山はぴたりと手を止めた。シャープペンシルの芯が軋んでぱきりと折れる。周囲では先ほどよりもざわめきが大きくなっていた。前の列に座ったふたりの女の子が、どうする、どうしよう、と声を交わしている。
 五人を助けることができる。ただし、一人を殺すことによって。そういう問題だった。これは嵐山があとから知ったことだが、『トロッコ問題』は有名な話らしい。
「あなたがレバーを動かしても、動かさなくても、法的な責任に問われることはありません。線路のうえにいる六人はあなたにとって見ず知らずのひとであり、また、あなたがレバーを動かせることは、あなたしか知りません。つまり黙っていれば、感謝されることも恨まれることもないとしましょう。まあ、悲しむひとを見ることにはなりますが」
 講義室にあふれる声をただ聞いていた。一人の犠牲で五人を助けられるなら、そうすべきだ。いや、何もしないべきだ。ない混ぜになった言葉たちはそのたったふたつを主張していた。つまり、そう、未来を変えるか否かを。
 あおい瞳の友人の姿が脳裏に蘇っていた。彼の視る世界を、ほんのすこしだけ、垣間見た。
「そろそろ聞きましょうか。レバーを動かすひと」
 およそ三分の二の生徒が手を挙げた。「動かさないひと」三分の一よりも少ない手が見える。「どちらにするか決めていないひと」嵐山は手を挙げる。
「ふむ、動かせないひとが多いですね。では少し質問を変えます。あなたは、レバーを動かせる位置にはいませんでしたが、Aさんがレバーを動かせることがわかる位置にいました。さて、どうやらAさんはレバーを動かして、そう、五人を救うために一人を殺すという選択をしました。――あなたはAさんを、許せるでしょうか」
 つきん、と胸がいたんだ。自分で書き記したはずの文字がぐにゃりと歪んだような錯覚をうける。『トロッコ問題』――嵐山は知っている。常に、分岐点のその先を視ているひとを。
「許せるひと」
 手を挙げた。講義室の大多数が。「許せないひと」ちらほらと、数える程度に手が挙がる。嵐山は膝においた手を握りしめた。じわりと汗をかいていた。「わからないひと」手は、あげなかった。
 この問題に正解はありません。教授の声が響く。少数を犠牲にして多数を救う、これを功利主義。たとえ少数であっても目的のために利用してはならないのだから何もすべきではない、これを義務論。功利主義を選択するひとは、この、『犠牲』の手段が直接的になっていくほど減るのだという。例えば、人をひとり線路のうえに突き出せばトロッコを止められるといったときに、他人を突き出す選択をする人は少ない。何もしないか、自らが飛び込むかのどちらかだ。
 嵐山はきっと、大切なひとに関わりのない場合なら身を投げる選択ができる。彼は、おそらく、それができない。未来を視る自分の有用性を理解しているから。けれど彼は、何もしないことも選べなかったのだ。
 何もしないを、選べない。よりよい未来を、選択を、常に選び続けなければならない。黙っていれば誰からも何も言われないだろう。しかし自分自身の声は、どう響くのか。
 そして、嵐山は。迅を許せるだろうか。例えばその、線路の上にいるひとりが、自分の大切なひとだったときに。
 ぼんやりとしているうちに、授業の終了を知らせるベルが鳴った。周りが片付けをはじめるのに気付いて、書きかけのノートをそのまま閉じる。迅に会いたい、と思った。まだ言葉はかたちになっていないけれど、会って、彼もまたただの人間なのだと、そう思いたかった。彼がかみさまでないのなら、そうであるならこそ、彼の選択を――彼とともに、選択することができるから。


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