朱を差して

 ぱちん。気の抜けた音が響いた。視界が横にずれる。一拍のあと、頬がひりひりと熱を持ち始めた。
「……これでいいの?」
 鳩原未来がおずおずとした様子でいった。たったいま犬飼の頬をなぶった右手をやわく握りこみながら引っ込めて、戸惑いもあらわに犬飼を見上げている。
 「うん」、と犬飼は頷いて、鳩原が触れた頬を指先でなぞった。この感じだと、すこし赤く腫れているかもしれない。どうだろう、わからない。「腫れてる? ほっぺ」ますます意味がわからないというふうに、困ったような笑みを貼り付けた鳩原は「わりと」と答えた。
「どうしたの」
「叩かれてたじゃん、今日」
 あぁ。鳩原が頷いた。そばかすの散った頬は片側だけが不自然に赤かった。叩いたのは犬飼がさっきまで付き合っていた同級生だ。
「あたしが叩かれたから、あたしに叩くように言ったの?」
「いや、女の子に叩かれるのって、どんなもんかと思って。これならべつに叩かれてもいいな」
「犬飼って、ときどきよくわからないことするよね」
「そう?」
「するよ」
 呆れたような瞳が犬飼を見上げる。冴えない顔をしている、と犬飼は常々思っているのだけれど、痛ましげな片頬の朱は化粧を仕損じたようにもみえて滑稽だった。
「おまえよりはマシだよ。なんで避けなかったの」
「避けられなかったんだよ」
「うそつけ」
 ひりついた頬を、ふたたび指でなぞる。「まあ、おそろいになった」にやりと笑って言うと、鳩原はますます怪訝そうにしながら、しかしそれを適当な笑みで覆って、「そうだね」と頷いた。


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