ぽつりとおちた声で目がさめた

 わすれたい。
 ぽつりとおちた声で目がさめた。部屋のなかが薄暗い。耳を澄ませば雨の音がきこえた。
「おんなじじゃん」
 あの日と。ぼんやり響いた自分の声は、気怠げに微睡んでいる。
 眠るときに肩まで引っ張り上げたはずの布団は足元でくしゃくしゃになっていた。うっすらとまとわりつく寒気に身を縮こませれば、ひやりと冷たい肌がかすれあう。革靴にまで染み込んだ雨水と、かじかんだ指先を思い出した。ジャケットは濡れて重くなって、裾からおちる水滴が足を伝った。五月にしては寒い日だった。
『鳩原ちゃんはさ』
 彼女に告げたことばが、どこからかあふれる。いつかの誕生日。彼女がくれたペーパークラフトの飛行機を引っ繰り返して作り込みに感嘆しながら、犬飼は言ったのだ。犬飼の好きな飛行機をくれた彼女に。犬飼が焦がれた翼をもつ名の彼女に。
『旅行に行くならどこがいい? 飛行機に乗って、行くならさ』
 なんて言ったんだっけ。
 彼女は、鳩原未来は。犬飼の問いに、どう答えたのだろう。思い出せなかった。頭の奥が痺れて、霧のなかに取り残されたように動けなくなる。思い出してはいけないと、声がする。夢のなかできいた声だった。
 笑っていたような気がする。犬飼も、鳩原も。会話のおわりには笑っていて、それで。それで――。
「……はとはら」
 からだが震える。寒いせいだ。行儀悪く足で布団を持ち上げて、包まるように逃げ込んだ。冷えた布団は熱を返さないが、じわじわと温もりがこもっていく。再び訪れた眠気に従えば、意識を放り出すのは一瞬で済んだ。

『そっか。じゃあ、行こうよ。大学生になったら、夏休み、ふたりで』
 はにかんだ声が、次の瞬間には滲む。わすれたい、わすれたいな、わすれていいかな。誰に向けた言葉かもわからない。もう覚えていない。けれどたぶん、犬飼の前に立っていたそのひとは、そっと頷いたはずだった。


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