指先にささやかな約束を

 ミルク色のスニーカーに通したカナリアイエローの靴紐を結ぼうとして、ロングスカートの淡い水色が視界に入る。ぴたり、と月子の指先が動きを止めた。……トップスは同系色のシャツに白いベストを合わせたけど、やっぱり、別の服の方が――ちらりと浮かんだ考えを慌てて振り払い、さっさと靴紐を結んでしまう。もう時間がないからこれでいこうと、ついさっき決めたところではないか。今から着替える猶予はない。
 トートバッグを手に取り、玄関を出る。雲一つない快晴の空から初夏というには強気な光が降り注いでいる。庭の緑も好き好きに茂り、機嫌が良さそうだ。薄く色の入ったサングラス越しにそれを見て、鞄の中の折り畳み日傘の存在を確かめる。持っている。扉に鍵をかけ、短いポーチを抜ける。腕時計の長針はあと一分でバスが出てしまうことを告げている――走った。

 ゴールデンウィーク真っ只中の駅前は午前中だというのに賑やかで人通りも多い。通行人の隙間からあたりを探せば、すぐに、少し離れた木陰に見慣れた姿を見つけることができた。迅の視線は上空に向いており、まだこちらには気付いていない。月子は前髪を軽く整え、ひとつ深呼吸をしてから、小走りで駆け寄った。
「おはようございます、迅くん」
「おはよう、月子さ、ん……」
 ゆっくり振り向いた迅の言葉が不自然に途切れる。どうしたのだろう、と首を傾げると「……私服だ」という囁きが落ちて来た。
 ちょっとだけ、顔が熱くなった。普段だって私服といえば私服なのだけど、迅が言いたいのはつまり、『おしゃれをしている』ということだろう。迅が気付いているかはわからないが、化粧も普段なら使わない色を使って丁寧に仕上げた。髪型こそいつもと同じだけれど、今日の月子は間違いなく気合が入った格好をしているのだ。
「変、では、ないですか?」
「変じゃない、すごく似合ってるし……かわいい」
 訊いてしまったら半ば義務的に言わせてしまうのではと思ったが、こぼれ落ちたように掠れる声音は心からの言葉としか思えなかった。かわいい。迅からそう形容されるのは慣れなくて、ますます顔が熱くなる。
「ありがとうございます。……迅くんも、今日も素敵です」
 これ以上かわいいって言われたらちょっと耐えきれないかもしれない――そう思った月子はゆるやかに話題を変える。迅は「いつもと似たような格好になっちゃったけど」と苦笑を浮かべた。確かに、迅の服装は普段とそう変わらない。だけど本当に、すぐ見つけてしまったくらい、目を惹く。
 しばらく、ふたりのあいだには沈黙があった。お互いに照れてしまっている、というのがなんとなくわかる。
「……電車、乗りましょうか?」
 月子が言うと、迅はふにゃりと笑って「うん」と頷いた。

 快速列車は少し混んでいた。ふたりは車両の端の方で吊り革を握り並んで立つ。ガラスに薄く反射するその姿に月子は不思議な気持ちになった。迅と、ふたりで、出掛けている――『デート』をしている。一年前の自分に言っても信じないだろう。
 ふと、隣から見られている気配を感じて顔を上げる。いつもより近い距離は、視線が自然に合わない。
「どうしました?」
「ん……月子さんって外に出るときいつもサングラスつけてるなあって考えてた」
 列車内だからと囁くように問いかけると、迅も少し月子の方へ顔を寄せて囁き返す。その距離に心臓が勝手に跳ねた。
「あ、それは、強い光に弱くて。今くらいの季節なら大丈夫なことも多いんですが、念の為、予防で。迅くんもよくサングラスをかけてますよね。青いレンズの」
「うん」
「今日は?」
「つけずに済むかなあ。……おれのは、風避けだから」
 なるほど、と月子は頷いた。もしかしたら迅のサングラスは界境防衛機関ボーダーの防衛員として働くときにつけるものなのかもしれない。納得して、ついでに少し落ち着いた月子を、迅はふにゃりと頬を緩ませながら見つめている。
「いつもの、で言えば、髪型はあんまり変えないの?」
「そうですね……ユーリカが休みの日でも、仕込み作業があるときは髪を結ぶので、週のほとんどこの髪型で過ごしてることになって……だから、髪を下ろしているととかえって落ち着かないんです。ヘアアレンジのレパートリーも少なくて、いつものになっちゃいました」
 もう少し凝ったアレンジをしたい気持ちもあったのだが、服に気を取られて時間が足りなくて断念した、というのは言わないでおく。
「なるほど。今度、さわってみてもいい?」
「髪をですか?」
「うん」
「それはぜんぜん良いのですが……ヘアアレンジがお好き、なんですか?」
 誰かの髪を結んであげたことがあるのだろうか。胸の奥がかすかに疼いた。迅はこれまでどんな人と付き合ってきたのだろう――そんな、気にしたって仕方のないことを考えてしまう。
「いや……ごめん、単純に月子さんの髪にさわってみたくて言った」
 ぱちり、と目を瞬かせる。
「それは、ど、どうぞ?」
「ありがと」
 ふっ、と迅が笑って、的外れなことを考えていた自分への羞恥がじわじわと込み上げてきた。それから、かすかなよろこびも。迅は、月子ではない他の誰かの髪をさわったことがあるのかもしれない。でも、迅が今さわりたいと思っているのは月子の髪だ。それを理解して、月子もはにかむように笑った。
「そのときには迅くんの髪もさわらせてくださいね」
「月子さんの好きにしていいよ」
 陽だまりで昼寝する猫のようなふにゃりとした顔で迅が応える。告げられた言葉よりも、今日の迅の全体的にゆるんだ表情が気になった。誕生日のお祝いをした日も、そのあとカフェ・ユーリカに寄ってくれたときも、よく笑ってはいたけれど……いつもと違う場所へのお出掛けだから、だろうか。月子だって、今はどこか地に足がついていない自覚はある。
 次の駅を知らせるアナウンスが流れると、ふたりの会話は自然に途切れた。駅に着くたび車両の乗客は増える。会話がしにくくなっても、胸の奥は弾むばかりで気まずさを感じる隙もなかった。迅は車窓を流れていく景色をぼんやりと眺めている。でも、ふと目が合えばその青い瞳は嬉しそうに細まった。


 学校がひとつ丸ごと収まってなお余るような、大きな公園の芝生広場が蚤の市の会場だ。青空のもと出店者たちのテントがいくつも並んでいる。アンティークショップや古着屋、雑貨系のメーカーに、器やアクセサリーといったハンドメイド作家が主な出店者だ。奥の方にはキッチンカーやイベント用のステージもあり、大規模な催しになっている。
 月子が入口近くで受け取ったマップを広げると、迅も横から覗き込んだ。
「迅くんはどこに行きたいですか?」
「んー、あんまり下調べせず来ちゃったから、月子さんの行きたいところからでいいよ」
「では、ひとまずぐるっと回りながら、気になるところに入ってみるという感じでどうでしょう?」
「了解」
 そうなると右回りか左回りか――地図をじっと眺めた月子は、まずは服飾品や小物雑貨が集まっている方面から向かうことにする。うっかり衝動買いしてしまってもいいように、なるべく軽いものが多いところからだ。
 
 蚤の市は出店者も含めて人が多いが、会場自体が広いので混み合っているところは少ない。ふたりは開放的な芝生の通路を歩きながら、テントに並ぶ様々な品物を眺め、時に手に取ってみる。
 古着屋でレトロなシャツをあてがってみながら好きなファッションについて話したり、アクセサリーショップで迅に髪留めを選んでもらったり、何をするのも楽しい。前に一人で来たときよりもずっと。
 飴色の釉薬の揺らぎが美しいコーヒーカップとソーサーを二脚買ってしまおうか悩んでいると、風に乗って歌声と手拍子が聞こえてきた。いつの間にか中央のイベントステージ近くまで来ていたようだ。ミニコンサートが始まったらしく、月子たちがいるテントも含めて周囲には人が集まって来ている。
「観にいきましょうか? ……迅くん?」
 返事がない、と隣を見上げ、月子は小さく息を呑む。迅は人差し指の関節で眉間を抑え、ぎゅっと瞼を下ろしていた。顔色が悪い。――いつから? そんなの、月子が浮かれていろいろ見て回っている間に決まっている。
「ん……ごめん、どうかした?」
 ぱち、と目を開けた迅がへにゃりと笑いながら問う。その顔を見て確信した。迅の体調は万全ではない。そうだ、月子の目の前にいる人は、何か辛いことがあっても笑顔で隠してしまうひとだった。
「迅くん、行きましょう」
「え、」
 どこに、と迅のまなざしは語っている。月子は「あっちの方は自由に使っていいことになっているので」と芝生広場の端を指差した。戸惑っている様子の迅の手を握る。冷たい。青い瞳が手元と月子の顔を交互に見たが、月子がゆっくり歩き出せば、おずおずと手を握り返し着いてきてくれた。

 少し歩くだけで人影はまばらになり、話し声や音楽も遠くなる。ベンチは空いていなかったが、それくらいは想定済みだ。木漏れ日が落ちる芝生から小石を除き、小さなレジャーシートを広げる。困ったような顔をした迅がシートの端を持って手伝ってくれた。
「座ってください」
 どうぞ、と手のひらで示す。迅は何か言いかけたが、月子がじっと見つめると大人しくシートに腰を下ろした。
「迅くん、体調良くないでしょう」
「いや、」
「……」
「…………あ〜……、ちょっと、寝不足、かも?」
 へら、と迅が笑って、月子は思わず眉を寄せる。気付かなかった自分が腹立たしかった。月子があまりにもはしゃいでいたから迅も言い出しにくかったに違いない。しかし、そういったことを考えるのは後だ。体調が落ち着かないことには長距離の移動も負担がかかる。今は少しでも休んでもらわなければならないのだから。
「何かあたたかいものを買ってきますね。迅くんはここで休んでいてください」
 寄り添いたい気持ちもあるが、隣にいたところで役には立てない。月子が言うと、迅は青い瞳をそろりと左右に動かす。何か言葉を探しているらしい。しかし、ゆっくりとまばたきしたあとは諦めたような表情で細く息をつく。
「……ごめん」
 それこそ駅で待ち合わせた時点で体調が良くなかったのかもしれないな。少なくとも今、迅は自分の体調が悪いことを自覚している。そうなるくらい月子が連れ回してしまったせいだ。その事実は胸をずしりと重くしたが、大丈夫と言い張られなかったことに安堵もしていた。
「迅くんが謝ることはなにもないですよ。……私の方こそ、気付くのが遅くなってごめんなさい」
「それこそ月子さんが謝るようなことじゃないでしょ」
「でも、体調が悪い人を連れ回してしまったのは事実なので……。お水、喉が渇いたら飲んでくださいね。全部飲んでいいので。今より気分が悪くなったらすぐ電話してください。欲しいものがある、とかでも」
 飲みかけで申し訳ないがミネラルウォーターのペットボトルを渡す。絶対に無理をしないでください、と言葉を重ねると、迅はやわく苦笑を浮かべて頷いた。


 テイクアウトカップに入ったホットレモネードとディカフェのラテを手に迅のもとへ戻る。遠目には体調が悪化している様子は見られない。向こうからも月子が見えたようで、座ったままひらりと手を振られた。
「お待たせしました」
 近付いてみると、木漏れ日のやわらかな光に照らされた迅の顔色は少し良くなっている。レモネードとラテのどちらがいいかを訊ねれば、迅はラテを選んだ。カフェインレスですからね、と月子が付け足すと、迅は眉を下げながらも笑って受け取る。
 迅は小さなレジャーシートに月子のためのスペースを作ってくれていた。そっと隣に腰を下ろす。迅はラテには口をつけず、テイクアウトカップを両手で持ったまま身動ぎせず座っている。
「体調はどうですか?」
「平気。だから、もう帰るって言わないで」
 ぱち、と月子は目を瞬かせる。ちょうど告げようとしていたことを言い当てられたのに驚いたのもあるが――迅の横顔がまるで小さな子どもみたいだったから。
「……迅くんの体調が悪いようなら、無理をしてほしくないと思います。それは絶対に、そうです。蚤の市にはまた来れますから。……でも、迅くんの体調は迅くんがいちばんわかっていると思うので……そこは尊重したいですし、本当に体調に問題がないなら、私は、休憩してからまた一緒に回れたらいいなと思っています」
 本当は、もう帰りましょうと言おうと思っていた。でも、たぶん、月子ひとりで決めてはいけないのだ。言葉を選びながら考える。迅がどうしたいか、きちんと耳を傾けなければならない。
 血の気の失せた横顔に気付いたとき、強引にこの場所で休憩すると決めたことは後悔していない。そうでもしないと迅は月子を気遣って無理をしていただろう。だけど今は少し顔色も良くなったし、これからどうするか話し合うゆとりがある。
「体調は大丈夫。本当に」
「寝不足と仰っていましたが……」
「うん。さっきちょっと仮眠した」
「ちょっとの仮眠で大丈夫ですか?」
「……さっきの、ステージみたいな……人が集まってるところにいかなければ大丈夫」
「なるほど……人酔いしてしまったのかもしれませんね」
 寝不足のときは普段は平気な音や光、においにも敏感になることがある。月子があれもこれもと目移りしてうろうろと歩く時間が長かったのもよくなかったのだろう。
 やっぱりはしゃぎすぎていた――反省していると、まるで心のなかを読んだみたいに「月子さんのせいじゃないよ」と迅が囁いた。
「……ありがとうございます。迅くんのせいでも、ないですからね」
 自分が謝ると迅を苦しめることになると気付く。少なくとも月子は迅に謝られると、胸の奥がつきつき痛む。だから、もう謝るのはよそうと思った。繰り返さないための反省は大事だけど、失敗を引きずりすぎるのはよくない。
「そうだ。おなかは空いてませんか? 飲み物と一緒にお菓子も売っていたので買ってきたんです」
 レモネードはいったん芝生の上に置き、トートバッグから小さな袋を取り出す。細いリボンが巻かれた透明な袋の中には細長く焼き上げられたビスキュイ――フィンガービスケットがお行儀よく並んでいる。洋酒などの体調を悪化させそうな材料が入っているものは避け、なるべく胃に重たくない、軽やかな食感のものを選んだ。
「ありがとう」
 迅がひとつ取ったのを確認してから、月子も自分のものを指でつまむ。ビスケット、とは呼ばれているが、実際はスポンジ生地だ。細長く焼成されているぶん表面のさっくり感は強いが、口の中ではほろりと崩れる。そこにレモネードをひとくち飲めば、じゅわりとおいしい。迅のラテのほうはさらに相性がいいだろう。
「ラテにひたして食べるのもおいしいですよ。ティラミス風に」
「ああ、これティラミスの中身なんだ」
「長くひたすとぐずぐずになるので、さっとどうぞ」
 ひとつ食べ終えた迅がカップの蓋を外し、ビスキュイをもうひとつ取る。その様子を見て、月子はほっと胸を撫で下ろした。食欲がないわけでもなさそうだし、本人が言うように体調は良くなっているのだろう。おいしそうな顔を見ているとほわりと肩の力が緩む。
「あ、ほんとだうまい」
「ね。好きなだけ食べてください」
 迅がみっつめのビスキュイを手に取る。月子もふたつめを食べた。……レモネードも合わないわけではないが、ラテとも合わせてみたいな、と思う。カフェインレスでどういう味に仕上がっているかも気になる。
「飲む?」
「……迅くんって、どうして私の考えていることがわかるんですか?」
「なんでだと思う?」
 じ、と青い瞳が月子を見つめる。へにゃり、とやっぱりいつもより緩んだ笑みは、でも、疲れのせいでそうなっているわけではない。そのまなざしが言葉よりも雄弁に語る。
「ありがとうございます……」
 頬に集う熱に気付きつつ、差し出されたラテにさっとビスキュイをひたす。ひとくちかじって、そのおいしさに頬が緩む。小麦と卵の素朴な味わいの生地に珈琲の苦味とミルクのまろみが加わり、口どけたあとの余韻まで完璧に調和している。
「おいしいですね」
「さすが月子さん」
 なんてことのない呟きに律儀な返事がある。さあっと風が芝生を吹き抜けた。真上に昇った太陽は朝からずっと元気で、木陰でも少し暑い。涼やかな風が肌を撫でて冷やすと、そのぶんだけ迅の体温や気配が静かに伝わってくる。隣にいられることが素直にうれしいと思えた。
「……私の考えていることがわかる迅くんに、ひとつお願いを訊いてもらってもいいでしょうか?」
「どうぞ、なんでも」
 迅は恭しく応える。月子は「叶えるのが難しいお願いかもしれませんよ」と笑みを浮かべる。迅は「大丈夫だよ」と軽やかに請け負った。それはおそらく、月子への信頼なのだろう。
「では、次から、私がどんなに楽しみにしているときでも、体調に違和感のあるときは教えてください」
「了解。……月子さんもそうしてくれる?」
「はい。よっぽどひどいときは家で休むとして、少し良くないくらいなら、負担の少ない過ごし方を考えてみるとか……」
 一緒に過ごすことを諦めきれない自分にちょっとだけ苦笑を浮かべる。でも、迅もきっとそれを望んでくれている、とわかるから。
「どうしたいか、どうしてほしいか、ちゃんと伝え合って――ふたりで決めていきましょう」
 約束です、と小指を差し出す。迅はぱちりと瞬きして、月子の指を見た。はっ、と我に返る。ゆびきりなんて子どもっぽい。しかし月子が手を引っ込める前に、迅の小指が月子の小指に絡んだ。
「約束する」
 きゅ、と絡められた指先から熱が伝わる。迅の手があたたかいことに安堵して、それからじわじわとよろこびが満ちていく。ふたりで、お互いのための約束を交わすことがこんなにうれしいことだとは思わなかった。
「……では、このあとはどうしましょう?」
「したいことで言うなら、手を繋ぎたいんだけど」
 たったいま離した指先が再びふれあう。蚤の市を回る間ではなく、今、手を繋ぎたいということだろうか。おずおずと握手するように迅の手を握ると、ふっと笑う呼吸が響いた。
 するりと手が動いて指を絡め合うよう言葉なく促す。手のひらがぴたりと合わさった。少し強くなったり、弱くなったり、迅の手は抑揚をつけて月子の手を抱きしめた。
「耳、赤いね」
「……手汗が出ている気がするので、一度離しても……?」
「さっきは余裕そうだったのにね?」
「さ、さっきは、だって、必要だったじゃないですか……!」
「今も必要だからだめ」
 からかうようで、どこまでもやわらかな声が耳朶を打つ。かわいいね、と囁きが重なる。月子はじわりと汗が滲む手できつく迅の手を握った。もうどうにでもなれ、と思ったのだ。迅はくすぐったそうに笑っている。その笑い声がふれあう肌から震動として伝わってくる。
「……今の時間はキッチンカーのあたりも混んでいますし、もう少しゆっくりしましょう」
「うん」
「どこか行きたいところはありますか? ランチが先でしょうか……」
「とりあえず、さっきの器のところかな。好きなのひとつ買ってくれるっていうやつ、月子さんが見てたコーヒーカップがいい。お揃いで買おうよ。月子さんのぶんはおれが払うから」
 迅の言葉に、月子は飴色の釉薬が美しいカップとソーサーを思い浮かべる。月子も、あれを二脚買おうと思っていた――迅とふたりで、二階で珈琲を飲むときに、お揃いのものがあったらいいなと思っていたから。
 ふ、ふふ、と抑えきれない笑い声をこぼす月子を、迅は不思議そうに見つめている。だから、繋いだ手を引き寄せて、月子の方へ傾けられた耳に「おなじことをかんがえていました」と囁いた。あのカップで、一緒にたくさんの時間を過ごしましょう――指と指を絡めたまま重ねた約束に、迅の頬がますます緩んだ。


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