きみがため熟れる木苺
――からんっ、とドアベルが軽やかに音色を響かせた。扉を飾るステンドグラスは春の陽射しを受けて色とりどりに光を染める。芳しい珈琲の香りが迅を出迎えると同時に、店の奥から「いらっしゃいませ」とやわらかな声がかかった。会いたいと思っていたひとの、声だ。
「こんにちは、迅くん」
淡い色のくちびるでやさしく名前を紡がれると途端にふにゃりと表情が崩れそうになって、迅はどうにか微笑を繕い「久しぶり、月子さん」と応える。はにかむように笑う蒼みがかった黒の瞳と目があった。
使い込まれた棚を背に気取らず佇むエプロン姿も、ペンダントライトに照らされて艶めく飴色の髪も、もうずいぶん見慣れたはずなのに、目を離せない何かがある。あらゆるものを置き去りにしてどこまでも進む時の流れのなかで、ただ目の前の今に縫い留められるみたいに。
月子は、今日も〝カフェ・ユーリカ〟にいてくれた。
その事実に胸の奥がほわりとぬくもって、じんわりと甘い痺れにも似た感覚が広がる。ここでこうして彼女に会うことを、迅は夢にまで見た。それくらい、会いたかった。いつまでも見ていたいくらいだ。
古いながらも大切に手入れされてきたことがわかる店内はあたたかく、淑やかに響くジャズの低音がリラックスを誘う。ため息をこぼすように呼吸すると、染み付いた珈琲の香りがゆっくりと肺を満たしていく。けれどからだの芯からとろけるようなこの心地よさは、空間の居心地だけでは生まれなかっただろう。彼女が、ここにいるからだ。
「迅くん?」
月子が小首を傾げる。それで、自分が扉の前に棒立ちになっているのを思い出した。飴色の髪の先がちいさく揺れるのを視界に納めつつ、迅はカフェ・ユーリカの特等席に向かう。
「月子さんに会えたのがうれしくて、噛み締めてた」
水の入ったグラスを出してくれた月子を見つめながら告げれば、そのまろい頬にさっと朱が滲む。穏やかな弧を描いていたくちびるが、ふにゃ、と形をゆがめた。
「……私も、会えてうれしいです」
店内にはふたりきりなのに、内緒話をするみたいな囁き声だった。月子も『いつも通り』を頑張っていたらしい――それがわかるともうなんだか堪らなくなって、迅は思わず手で口元を隠した。他人の目はないが、たしょうは格好つけさせてほしくて。だって、迅は、少し前に二十歳になった。彼女が引いた線を越えられる年齢に、なったのだ。
四月はもう半ばを過ぎている。こうして顔を合わせるのは一ヶ月ぶりだった。桜の蕾がふくらみ、咲いて散っていく、短くも長い空白を経て、ようやく会えた。前に会ったとき――月子のブレンドコーヒーをご馳走になったあの日のこと――を思い出すと、血液がぐわんと熱を持ち始めて、迅はそっとグラスに口をつける。
冷たい水が喉を滑り落ち、はしゃぐ心をやわらかに嗜めてくれる。夢見心地な気分が落ち着いてしまうと、今日の約束をしたときのそわそわとした感覚も戻ってきてしまうのだけど。
「今日は、このあと本部に行くんですよね」
月子が確かめるように呟く。迅はくちびるについた水滴ごと緊張を舐め取りつつ「うん、ちょっと用事があって。約束の時間までには戻ってくるよ」と頷いた。
用事とは言うが、実態は大したことでもない。ここのところ、迅は遠征選抜試験の監督役とそれに伴う雑務でほとんど本部にこもきりで、喫緊でやるべきことは粗方片付けてある。
ではなぜ本部に行くのか。それもこれも割り当てられた休日がカフェ・ユーリカの営業日だったからだ。少し待てば定休日と重なる日もあったが、迅は待てなかった。待たないことを選んだ。『本部に行くついでに』という体裁で昼に会う約束をとりつけたのも、つまり、そういうことである。
迅としては一日中ずっと月子を見ていても構わないくらいだったが、さすがにそれは月子の方が構うだろう。本部に用事がある、というのはとても便利な口実であった。
「わかりました、お気をつけて。あ、遅くなりそうなときは連絡をいただけると嬉しいです」
「了解。……早くなりそうなときは?」
「またここに座ってくだされば」
ちょっとだけいたずらっぽく、けれど確かな親しみが込められたささやきは、仔猫が毛糸玉を解くようにたやすく迅の心臓を震わせる。
休日を割り当てられたときは上層部をほんの少し恨みがましく思ったが、むしろ感謝の気持ちが湧き上がってきた。いきなりプライベートな空間で顔を合わせていたら、とても耐えられなかっただろう。今は店主と客、という意識がかろうじて働いているから、迅の心臓は破裂せずに済んでいる。
「それから、あらためて。お誕生日おめでとうございます、迅くん」
「……ありがと」
月子はカウンターの内側で、ややかしこまったように姿勢を正し、ゆっくりと祝いの言葉を紡いだ。月子からのそれは、当日にメールで受け取ったし、電話したときにも聞いたから、これが三回目だ。それでもやっぱり直接受け取るのはこそばゆさが勝る。
「今日の珈琲はごちそうさせてくださいね」
「いや、そこはお気遣いなく。月子さんのブレンド、ちゃんと注文して飲もうと思ってたんだ」
「そう、ですか?」
よっぽどご馳走したかったのか、月子は少し残念そうに眉を下げた。だが、ここは迅も譲れない。彼女が迅のことを想いながらメニューに加えてくれたブレンドコーヒーを、彼女の最初の客としても堪能したいのだ。……おそらくもう他の誰かに先を越されてしまっているだろうけど。
「それに、夜にごちそうしてくれるんでしょ?」
迅がそう続けると、珈琲を淹れようとしていた彼女はぴたりと動きを止めた。迅を見つめ返す瞳がかすかに揺れている。鍋の底からふつふつと泡が踊るような、湧き上がる熱による揺らぎだ。
「、はい。準備、してあります。もちろん。迅くんからの貴重なリクエストですから」
「迷惑じゃなかった?」
「まさか! むしろ私のほうこそ、その、迷惑じゃないかとか……私の作ったもので本当にいいのかなと、考えていました」
「月子さんのつくったものがいいんだよ」
会う約束をしたとき、月子は『誕生日のお祝いをさせてほしい』と言った。そんなふうに言われることがまずうれしくて、それがもう迅にとってはプレゼントみたいなものだった。なにかリクエストはありますか、と電話口で問われて、迅は思いつくままに告げた。
去年みたく月子さんのケーキが食べたい、ふたりでゆっくりできたらうれしい、もし夕飯もご相伴にあずかっていいなら月子さんのつくったパスタがいい、あとお酒も飲めるようになったからあの約束も――とまあ、ひとつひとつはささやかながら、欲張りに。言えなかった願いごともあるけれど。
「……ありがとうございます」
「おれが言う側じゃない?」
「でもそんなふうに思ってくれてうれしいので、とても……」
少しばかり早口で囁いた月子は珈琲豆を測り、いつもの電動ミルではなく、手挽きミルで挽きはじめる。それが、まだここにいてほしい、という意思表示であることは、迅も承知している。月子には何も言われていないけれど、まず間違いなく、そうだ。
「月子さんも考えておいてね。誕生日にしてほしいこと」
月子は一瞬、まごつくように口を動かした。たぶん、祝われるような歳ではとか、気持ちだけで十分ですとか、そういったたぐいのことを言おうとしたのだろう。でも、迅がじっと見つめていると、くちびるにゆるやかな笑みをのせて「はい」と頷いてくれた。
気持ちが通じ合うというのは、たぶん、こういうことを言うのだと思った。同じ気持ちを持つこと、だけではなくて。あなたを喜ばせたい、と躊躇いなく伝えられること。それをくすぐったくも素直に受け取ること。そうしてもいい、と信じられること。
こり、こり、と手挽きミルが軽やかな音を立てて豆を砕く。その音と、いちだんと強く香る珈琲豆の香りと、赤く色づいた頬。目の前に広がるそれらを余さず拾い上げ、月子が自分のために珈琲を淹れてくれる時間を楽しむ。
丁寧に淹れられた珈琲は、あの日と同じ、まどかにまるくやさしい味わいをしていた。
珈琲一杯を飲むにはやや長い時間を過ごした迅は、名残惜しくもいったん月子のもとを離れ、しかし日が暮れるよりも前にカフェ・ユーリカに戻っていた。
閉店まであと一時間ほどだが、店内には数人の客がいて、月子は珈琲を淹れているところだった。カウンターの手前側の席に腰掛けている老婦人のためのものだろう。
いらっしゃいませ、と控えめな声と笑みで迎えられて、目礼を返す。ドリップの途中で手が離せないようだ。迅は邪魔をしないよう、真ん中の特等席ではなくカウンターの奥側の席に座り、老婦人と話す月子の横顔をこっそりと眺めた。
「このあいだは来てくれてありがとう。あのひとも喜んでいたわ」
「いえ、困ったときはお互いさまですから。……宏隆さんのお加減はいかがですか?」
「元気よ、元気。庭に出られるようになってからはずいぶん良いの。土いじりがあのひとの生き甲斐なのね」
「薔薇のシーズンが近いですし、張り切っていらっしゃるんでしょう。美代さんのいちばんお好きな花だとお聞きましたよ」
「それは……あのひとったら薔薇ばかり植えるんですもの。だから、そう、私もそういうことにすることにしたのよ」
「まあ」
鈴の鳴るような笑い声がふたつ、さやかに重なった。これまでふたりになれる時間を狙って訪れていたこともあり、自分以外の誰かと話す月子の姿は新鮮に映る。自分に対するものとは少し違う表情は、優越感にも似た何かとなって胸をくすぐるのだ。でもやっぱり、誰と話していても、月子は迅の好きな彼女のままで。
この席はこの席で、いいかもしれない。そんなことを考えていると、珈琲を淹れ終えた月子が迅の前までやってきた。
「お待たせしました。……いえ、もう少しお待たせしてしまうのですが……」
ひそめられた声に落ち着いていたはずの心臓がまた跳ねて、迅は苦笑しながら「大丈夫」と返す。
「待てるよ。……ここで待ってていい?」
「もちろんです」
ふんわり笑う月子は、他の客の目があるからか先ほど会ったときよりも隙がない。それを惜しく感じるが、あのかわいい彼女を他人に見せたくはないのでよかったとも思う。たとえ、店にいるのが月子を孫か娘のように思っているであろう年齢層の人々であっても。
「お飲み物は……どうしましょうか? さっぱりしたものがよろしければ、今なら柚子ソーダとアップルジュース、あたたかいものだとミントティーをお出しできますよ」
珈琲ではないのは二杯目になるからだろうか。いや、このあとご馳走してくれる気だからだ。迅は少し考えてから柚子ソーダを頼んだ。若干の空腹を感じはじめているので、炭酸で誤魔化そうかと思って。
月子はかしこまりましたと微笑み、カウンターの真ん中、定位置に戻る。すると老婦人が「新しいブレンドもおいしいわ」と月子に笑いかけた。
「ありがとうございます」
行儀よく応えた月子は、しかし耳のふちがじんわりと赤くなっている。とはいえ、迅も人のことを言ってられないかもしれない。彼女が自分のことを想ってつくってくれたブレンドが、他の誰かを笑顔にしているということは、ちょっぴり照れくさくて、でも自慢したいような気持ちもあって、妙に嬉しかった。
常連客らしき人々はラストオーダーの時間には会計を済ませて帰って行った。老爺を扉まで見送っていた月子は、ドアベルの残響を聞き届けてから、くるりと振り返る。その表情に、彼女のなかで自分が『お客様』ではなくなろうとしていることを感じた。
「お店、閉めようと思います。……夜ごはん、上で準備しているので、先にあがっていただいても」
「片付け手伝うよ」
さすがに家主が居ないところに上がるのは、と思う。家主が風邪をひいたとき勝手に上がり込んだことがある身で言っても説得力はないかもしれないが。
月子は「ありがとうございます」とやや硬い表情のまま応えた。たぶん、緊張している。気持ちはよくわかるので、迅は手早く椅子から降りて「何したらいい?」と作業を促した。
『staff only』の扉をくぐり、パントリーを抜けると、フローリングを分断するような細長い土間が現れる。いわゆる裏口ではあるが、ここが家としての玄関にあたるらしい。フローリングの対岸には階段があり、その先が月子のプライベートな空間だと迅は知っている。
玄関横に並べられた植木鉢の下の合鍵はもう回収されてるのか――かつて訪れたときのこと考えていると「靴はこちらでどうぞ」と月子がスリッパを出してくれた。土間の先からは土足厳禁ということだ。
月子の後に続いて階段を一段上るたび、きしりと響く音の影で鼓動が早まっていく。「ごめんなさい、階段、少し幅が狭くて……」と月子がつぶやいた。沈黙を埋めるための言葉に緊張が伝わってきて、迅は「エスコートできないなって思ってた」とことさら冗談っぽく紡ぐ。月子も笑みをこぼしたのが、かすかな息遣いからわかった。
階段の先の扉を開くと、ダイニングキッチンとリビングが一間続きになった空間が現れる。扉を支えた月子が「どうぞ」とちいさく笑みを浮かべて招き入れてくれた。
一階と雰囲気は似ているが、珈琲の香りは少し薄く、代わりにどこかほっとするような甘い香りがゆるりと漂っている。年季の入った木のぬくもりが感じられる家具と、あたたかな色味のファブリックで居心地良くまとめられた空間だ。月子がここで育ったことがたやすく想像できるような、そういう部屋だった。
冷蔵庫に貼られたカレンダーだとか、棚の上の置き物とか、ソファーにかかるブランケットとか、そういうちょっとしたところに彼女が営む生活が滲んでいて、ひとつひとつは珍しいものでもないのに、つい見てしまう。
今さらながら、本当に月子の迷惑ではなかったか心配になってきた。同じ建物にあるからつい店の延長線のように考えてしまうが、月子に対しての下心がたっぷりある自分を家に上げさせてしまったのだ。もう上がってしまったわけだからどうしようもないのだけれど。そう、仕方ない――月子さんだってほんとに嫌だったら一階で済ませただろうし、と心のなかで呟く。大丈夫なはずだ。だんだんと開き直ってきていることは、自分でも自覚していた。
「すぐつくるので、ちょっとだけ待っててくださいね。どこでも好きなところに座ってくださっていいので」
言いながら、月子はレモン水を注いだグラスをダイニングテーブルに置く。迅は「手伝えることあったらなんでもするから言って」と応えて、ダイニングの椅子に座った。おそらく月子は手伝わせてはくれないだろうから、洗い物はやらせてほしいと頼もう、と思いつつ。
壁付けのキッチンに立つ月子の背中を見つめる。何を話すでもなくただ呼吸を繰り返すうちに、好き勝手に跳ねていた心臓がまどろむように鎮まっていく。緊張していたはずなのに、不思議な感覚だった。
背中越しにおいしそうなにおいや音が届いて、それは自分のためのもので。彼女が手際よく仕立てていく世界のなかに自分がいるということが、しっくり馴染んでいくような。街にいくつも灯る、あのあたたかく光る窓のひとつに、ふたりはいるのだ。
月子の方も調理を進めるうちに少しずつ肩の力が緩んだらしい。パスタが茹で上がる頃にはくるりと振り返り、「もうすぐできます」と朗らかな笑みを見せてくれた。
宣言通り、ダイニングテーブルはあっという間に料理で埋まり、ワイングラスには白葡萄ジュースが注がれる。ワインではないのか、と思っていたら「あとで飲んでいただきたいカクテルがあるので」と月子が補足した。半分くらいは飲み慣れていないかも、という配慮だろう。
花のように盛り付けられた生ハムで飾られたサラダは、オリーブオイルとレモンが主体のシンプルなドレッシングでしゃくりと瑞々しい葉野菜の食感を引き立つ。皮目がパリッと焼けた小さめのチキンソテーにはフレッシュなトマトソースを合わせてさっぱりと食べられる。セロリや玉ねぎなどの野菜が賽の目に刻まれたスープはじっくり煮込まれて味わい深い。メインはこっくり深く包んでくれるようなサーモンのクリームパスタ。あったかくて、ふんわりしてて、やさしい――はじめて月子と出会ったときにつくってくれたパスタと同じだ。月子がつくるものは、あのときからずっと、迅のこころまで満たしてくれる。
ローズマリーのフォカッチャも添えられたボリュームたっぷりの晩餐だった。手間がかからないようパスタをリクエストしたんだけどな、と思いつつも頬が緩む。
おなかが満ちれば会話も弾んだ。老婦人との会話を思い出して月子の好きな花を訊いてみたり、カフェ・ユーリカの常連客であるボーダー隊員たちの近況を話したり。迅に限らず隊員たちは忙しく、月子のほうに顔を出した隊員はまだ少ないらしい。いちばんではなかった、ということにちょっとだけ拗ねたくなった。
ゴールデンウィークにはふたりで蚤の市に行く約束もした。月子と出かける約束をするのは二度目だ。あのときは『普通の買い物』という名目だったが、今度こそデートである。いや、今日のこれも、デートだけど。
「なにかいいものが見つかったら、ひとつだけならプレゼントしますよ」
ひとつだけなら、を強調しつつ、月子は何個でも贈りたい、というような顔をしていた。迅は「ひとつだけなら慎重に選ばないとだね」と悩む顔をつくってみせる。月子は「思わず選ばされるような、素敵な出会いがあるかもしれませんよ」と笑った。
デザートはリビングで食べることになった。カクテルをつくるため、キッチンに残っていた鍋やら何やらを一時的にダイニングテーブルへ移動したからだ。迅は洗い物をする気しかなかったのだが、月子には「お誕生日のひとは甘やかされるべきなので」と断られてしまった。そんなふうに言うんだったら存分に甘やかしていただこう――迅はころりと決意を翻したのである。
リビングにはふかりとした絨毯が敷かれている。月子なら横になれるだろう二人掛けのソファーにはふわふわのブランケットとカバーの刺繍が美しいクッションが二つ。迅がソファーの端にそっと座ると、すぐに月子がやってきた。
「お待たせしました」
嫋やかな手により、ローテーブルの上にふたつのケーキが置かれる。
雪が積もった小高い丘のような、ドーム状の小さなケーキだ。真っ白い生クリームで覆われ、頂点には赤いベリーがちょこんと飾られ、ケーキの周りにもいくつか添えられている。迅の前に置かれた方は『Happy Birthday』と書かれたチョコレート付きだ。
「今年は〝ガトー・フランボワーズ〟……ラズベリーのショートケーキにしてみました。こちらの方がカクテルに合うかと」
平たい楕円に細い脚のついたグラスを差し出され、こぼさないよう慎重に受け取る。夜のような濃褐色と、わずかに黄色みがかった白が層になっている。
「カクテルの方は〝カフェ・コレット〟を少しアレンジしたものを。下はエスプレッソにブランデーをいれたもの、上は蜂蜜をまぜたホイップクリームです」
月子が迅の隣に腰を下ろした。ふれあうほど近くはないが、遠くもない。ソファーのわずかな沈みを感じられる距離だ。月子は膝を少しだけ迅の方に向けた。グラスを手に取り、胸の高さまで掲げる。迅もグラスを取り、軽くグラスを合わせて乾杯する。
「お誕生日おめでとうございます」
もう何度も、本当に何度も聞いたのに、添えられた一言はどこまでも優しく迅を包む。ありがとう、と答えれば月子もはにかんだ。
カフェ・コレットをひとくち飲んでみる。まず感じたのはホイップクリームのなめらかな口あたり。ふんわりととろけるような、やさしい甘みがある。蜂蜜のあの独特な風味はほんのわずかに感じる程度だ。
そっとグラスを傾ければ熱くほろ苦いエスプレッソが舌にふれた。黒と白をないまぜにこくりと飲み込めば、喉のあたりがじわっと熱を持つ。この熱と、鼻を抜けていく芳醇な香りがブランデーだろうか。
「おいしい」
「よかった」
ケーキもどうぞ、とやさしい声が促す。迅はグラスからフォークに持ち替えて、ガトー・フランボワーズをそっと切り分けた。
雪のような白のなかから、桜にも似たペールピンクのクリームとあざやかな赤いソースが現れる。たまご色のスポンジも合わせてひとくち頬張れば、口のなかでひとつに調和する。そこにカフェ・コレットを飲むと、ほろ苦さと甘さに木苺の風味が加わって一段と奥行き深い。
「確かに、普通の苺よりこっちの方が合う気がする」
「そうなんです……! 今の時期のいちごはとてもおいしいのですが、少し軽やかすぎるというか……木苺の、強くて深みのある甘酸っぱさの方が、ブランデーにも合っていて」
楽しそうに話す月子の声を聞きながら、迅は彼女が今日のために試作を繰り返していただろうことに思い当たる。迅のサイドエフェクトで過去は見えないけれど、わかる。彼女は間違いなくそうしてくれたのだ。迅の誕生日を祝うために。
ひとつひとつの要素を拾い上げてゆっくりと味わう。木苺の果肉感を残したコンフィチュールはきりっと甘酸っぱい。ペールピンクのクリームはもう少し穏やかな味わい。一番外側の真っ白いクリームはひんやりと甘く酸味はなくて、グラデーションのある構成になっている。カフェ・コレットの蜂蜜入りのホイップクリームはベリーの酸味をまろやかに包んで、エスプレッソとブランデーとの橋渡しを担っている。
「……お酒、どうですか? 気分が悪くなってはいませんか?」
カクテルを飲み進め、ケーキを半分ほど食べたところで、月子がそう声をかけてきた。
「大丈夫。そんなに弱くない……と思う。月子さんは? 強い? 弱い?」
「人並み、だと思います。顔は赤くなりやすいですが」
照れたように笑う月子のくちびるは赤く色づいている。アルコールのせいか、木苺のせいか。普通の苺とは違って、木苺は舌で簡単に押し潰せるほどふにゃりとやわらかく、果汁の色も濃い。
「……月子さん」
「どうしました?」
「おれ、二十歳になったけど」
そんなこと月子はもうわかっている。いったい何度祝いの言葉を受け取ったと思っているのか。それなのに、じんわりと熱を持った喉が勝手に動いて告げていた。
でも、理性が酒に溺れているわけではない。この熱はアルコールのせいではない。これはずっと迅の身の内にあった欲そのものだ。
脈絡も何もない発言だったけれど、月子が気付いたことに迅も気付いた。月子の瞳がそろりと動く。何かを言いかけたくちびるを見つめ、けれどそれが音をかたちづくる前に迅は言葉を重ねた。
「けじめって、もうついた?」
すこし、いじわるな言い方だったかもしれない。月子が狼狽えていることがわかる。彼女の隣に、手を伸ばせばかんたんに抱き寄せられるような距離にいるからこそ。
「…………つ、」
「つ?」
「……ついた、ことになるかと……思います」
くちびるも、頬も、耳も、なにもかもがあっという間に熟れていく。瞳はかすかにその色を強めて潤み、迅を見つめている。迅だけを、見ている。――あの日と同じように。
「嫌じゃない?」
ささやくように訊ねれば、月子はぎこちなく首を横に振った。それだと嫌がってるみたいだけど、と迅は笑みを落とす。そうではないと知っているからこそ。
遠慮がちに空けられていた間合いは少し身を乗り出せばたやすく詰まった。華奢な身体を引き寄せて、腕のなかに閉じ込める。月子はおずおずと躊躇いがちながらも、迅にわずかな体重を預けた。それをいいことに、迅は腕の力を強めて抱き締める。鎖骨のあたりに顔を埋めて、震える心臓を宥めるように呼吸する。どうにかなりそうな香りがして、かえって心臓は暴れた。シャツの襟からちらりと覗く肌からは目を逸らしておく。
「じ、迅くん……」
「誕生日の人は甘やかされるべきなんでしょ?」
「言いました、言いましたが……!」
「キス、していい?」
今夜の約束をしたときにはついぞ言えなかった一言が笑みとともにこぼれ落ちる。月子は真っ赤な顔をして黙った。いや、ちいさくちいさく、うめいている。自分の心音が邪魔でよく聞こえなかった。
迅が勝手に口づけても、月子は怒らないだろう。許すだろう。受け入れてくれるだろう。でも、聞きたかった。彼女のくちびるから。
「……あ、の……おて、やわらかに」
「うん」
「…………ど、どうぞ」
「手で隠してたらできないよ」
口元を隠していた指先を握ればその冷たさに笑みがこぼれる。前はこの指が口づけを阻んだ。それをてのひらで包んで離さないのは、あんまりにも冷たいから温めてやるためだと誰かに言い訳する。じっと見つめれば、月子が困ったように瞼を降ろす。睫毛の影が頬にかかった。迅の手のなかで指先が所在なさげに震えていることが愛おしい。熟れたように艶めくくちびるは木苺によく似ている。今この瞬間だけは、月子しか見えなかった。
ついばむ、にも至らない、ただふれあわせるだけのキスをした。
数秒で離して、またすぐ口づける。何度も。くちびるは迅の求めに応じてふにゃりとゆるんだ。互いのくちびるが潤んでより深く合わさる。息を止めていた彼女がわずかな声をこぼす。耳のうしろに指をそわせ、角度を変えて繰り返す。呼吸さえもふれあっていく。すきだよ、と幾度も囁くのに熱は一向に冷めない。艶やかな髪を指先で撫でる。くちびるはやわらかくて、あつくて、あまかった。カクテルよりもケーキよりも、この世のどんなものよりも。
いつのまにか月子の身体はくたりと力が抜けて、迅に身を預けるだけになっている。もうそろそろ離してやらなければと思う。もっと、と頭にはそればかりがあって。手のなかの指先が跳ね、息遣いが乱れて、月子が苦しそうなことに気付いてようやく、迅はキスをやめることができた。最後に舌先でちろりとくすぐってしまって、未練は隠しきれなかったが
月子は迅の顔を見なかった。俯いて、浅く呼吸している。飴色の髪の隙間から赤い耳だけが見えた。どくどくという拍動さえ聞こえてきそうなくらい、真っ赤だ。
これほど動揺する彼女を見れるのは自分だけだ――そう思ってしまうと心臓が甘美に震えた。そのおとがいを持ち上げてまたキスしたくなって、ぐっと堪える。
ゆっくりと顔を上げた月子は、ぜんぜんお手柔らかではないという目で迅を見ていた。ぜんぜんお手柔らかなほうだったと思う、と迅は潤んだ視線を受け止める。ちゃんと努力して、理性でもって、中断したのだと。
カフェ・コレットのホイップクリームはぐずぐずにとろけてエスプレッソとブランデーの夜に沈んでいた。ガトー・フランボワーズもクリームがゆるんでしまっていることだろう。食べ終わってからするべきだった。その点については迅も反省する。
「食べ終わったら、もう一回していい?」
「……食べ終わってから、考えます」
ふい、と顔を背けた月子がカフェ・コレットのグラスに口づける。次は月子からしてくれないか頼んでみよう、誕生日の人は甘やかされるべきらしいし――考えながらひとくち頬張ったガトー・フランボワーズは、クリームもコンフィチュールもすっかり室温に馴染んで、さっきよりも甘く感じた。