朝月夜の薄荷

 街の稜線から光がこぼれおちた。嫋やかな光の指先が群青色の暗闇をそっと抱き寄せ、とけあい、透明に澄んでいく。薄青の空には半分に欠けたましろい月がぽつりと浮かび、黄みや紫みを帯びた雲が悠々と漂っている。風は夜の面影をかすかに残し、清々しさと寒さのあわいで遊ぶように頬を撫でていく。影さえもふわりと軽い、やわらかな春の朝だった。
 静かな街に数多ある窓に明かりが灯ることはない。人の住まない街は朝を迎えても目覚めない。警戒区域と定められた空っぽの街にそびえる巨大な建造物――界境防衛機関ボーダーの本部基地だけが、まどろみも知らず明かりを灯し続けている。
 
 迅悠一は本部基地の屋上に佇み、しんと静まった街の夜明けを眺めていた。遠くに小さな円光が見える。誰もいない街の向こう、まだ人々が息づく街の、平穏な暮らしを伝える明かりだ。
 三月の風が寝ぐせのついた髪をさらに乱す。ぐっと腕を伸ばせば肩の関節がぱきりと音を立てた。迅は欠伸を噛み殺し、ミントタブレットを奥歯で砕いた。
 辛みと苦みから一拍遅れてスッと涼やかな薄荷ハッカの香りが広がる。まだ温もりを知らない朝の空気が、さらに冷ややかにからだのなかを通り抜けていく。それでも眠気はしつこく居座り、迅は青い瞳を細めた。
 ――珈琲が飲みたい、と思う。
 そんなの基地の中に戻ればいくらでも飲める。自動販売機もコーヒーメーカーもあるし、私物のドリップバッグを分けてくれる人にも心当たりがあった。けれど迅はそうしない。そうしたいとは思わない。
 そもそも、迅はあらゆる不調を誤魔化すすべをとうの昔に手にしていた。眠気を飛ばすのなら珈琲どころかミントタブレットも不要なのだ。トリガーを起動して、トリオン体に換装するだけでいい。褒められた使い方ではないが、上層部も無理なシフトで隊員を動かしている自覚があるだろうから、責められることはないはずだ。
 だから、たぶん、彼女の珈琲が飲みたいだけだった。
 彼女に――仰木月子に、会いたいだけだ。
「……二週間も経ってないのになぁ」
 こぼれた囁きは風に消えた。清冽とした薄荷の感覚だけが迅に寄り添っている。
 最後に会ったとき、ふたりはこれからの約束をした。一緒にいたい――たったそれだけの話をした。ずいぶんと遠回りをしたわりにささやかなその結末こそ、迅がついに選んだ未来だ。
 それからすぐに遠征選抜試験が始まり、迅は試験監督と防衛任務と雑務をぐるぐる繰り返す日々を過ごしている。
 ふたりのあいだには、隣にいられない時間ばかりが積み上がっていた。それにいちいち悲しんではいられないことを、迅は深く理解している。これっきりのことではないのだ。どれほど隣にあることを望んでも、孤独に歩まねばならない時は必ず訪れる。月子を悲しませることが耐え難くとも、迅はそれを選ぶ。この目が永訣の選択肢を見つけてしまうことだってあるだろう。
 でも。
 それでも、一緒にいたいと思ったから。
「声くらい聞けたらよかったんだけど……さすがにまだ寝てるか」
 言葉を紡ぐ。薄荷がもたらす冷たい熱に似たそれにかたちを与え、手のひらでそっと転がして、大切なものをそうするみたいに包む。
 月子は迅に欲張りになってほしいと言った。自分もそうなるから、と。
 だから、欲張りになってみることにする。
 会えないことをいちいち悲しんで、こんな生活では電話をかけることもままならないと残念がる。あのあたたかくてやさしい珈琲が飲みたいとわがままを言う。月子が迅のための一杯を淹れてくれる、あの時間が恋しいとすねる。一緒にいたいというこころのままに、なにひとつ押し殺さず。
 際限なくふえていく望みをひとつひとつ言葉にして、欲張りの練習をする。次に月子と会うときのために。隣にいられる、かけがえのないひとときをめいっぱい大事にするために。
 あらゆる未来が重なる朝に、またひとつ、窓の明かりが灯った。眠気はいつの間にか遠のいている。休息の時間は終わりを迎えようとしている。
 今日も、月子はこの街の片隅で珈琲を淹れるだろう。昨日そうだったように。明日もそうなればいい。そうであるために、今日の自分がいられたらいいと思った。


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