とろけるまで語らえたなら

 リネンカーテンを少し開けるといくつもの水滴が流れ落ちる窓ガラスが現れる。昼から降り出した雨はまだ止んでいない。透明なストライプ越しの街はもうずいぶんと暗くなり、街灯に光が灯り始めていた。夏至を間近に控え日は長くなっているが、雨の日の夜はせっかちだ。
 ――止んでないならもうすこし粘れるな。
 そんなことを考えている顔が窓に反射していた。未来視のサイドエフェクトが言うにはあと二時間は雨が降り続ける。迅はちいさく笑みを浮かべ、背後へ視線を向ける。
 居心地のよい二人掛けのソファー。ローテーブルに飾られた、ぽてりとした八重咲のクチナシの花は甘やかな香りを漂わせている。その奥にはダイニングテーブルと壁に向かったキッチン。キッチンには珈琲を淹れる月子。
 ドリッパーを見つめる月子は、迅の視線に気付いていない。最近の月子はいい意味で緊張がゆるんできたように思う。あれこれともてなされて、存在を強く意識されていると伝わってくる日々も悪くなかったが。こうして迅とふたりでいることが月子にとって当たり前になっていくようであり、思わず頬がゆるむ。
 迅はせっかちな夜に気付かれないうちにカーテンをぴたりと閉じた。迅の恋人は心配性なのだ。二十歳の男で、たいていの危険をいなすことのできる迅の帰り道が暗いことを気にする。もちろん迅だっていたずらに長居をしようとは思っていないが(許されるならいつまでも長居はしたいとは思っている)さすがにまだ帰るには早すぎる。
「雨が弱くなるまでいていい?」
 ドリップの合間に訊ねれば、月子はにこりと笑って頷いた。これで言質はとれた。キッチンに戻り、コーヒーカップを温めていたお湯をシンクに流して布巾で水気を拭う。「ありがとうございます」と月子が囁くように言った。流れるように進む作業の頃合いだとか邪魔にならない間合いだとかを見計らって先回りできるようになったのは、ひそかでささやかな迅の自慢だ。
 口が広い大きめのカップに濃褐色の珈琲がとぷりと注がれる。でも、それで終わりではない。月子が冷蔵庫から銀色のボウルを出してきて、ゴムベラで中身をすくう。ちょうどクチナシの花のようにぽてりとして、薄く黄色みがかったホイップクリーム――月子が言うところのクレーム・シャンティだ。
 ここのところ、月子は生クリームを泡立てる技術を磨きたくて堪らないらしい。出先で食べたものがあまりにもおいしかったから、だそうだ。『おいしい』に対して向上心が高いことは以前から知っていたけれど、私生活を垣間見るようになり認識が甘かったと感じている。まさか毎日のように練習しているとは思ってなかった。
「今日のはどんな感じ?」
「前に食べていただいたものはこってりし過ぎていたので、生クリームを脂肪分47%から42%に調整してみました。砂糖の量はいったん7%で固定していて……バニラオイルの量も同じです。あとは私の泡立て力による差が生じているのではと……」
 泡立て練習というより実験とか研究と言ったほうがいいかもしれない。消費を手伝う迅の何気ない感想も、舌の肥えた常連客の論評と一緒にしっかりノートに記録されてしまう。最近、迅は食レポ動画を見るようになった。
 クレーム・シャンティがぽてぽて盛られていく。――そういえば昨日、沢村さんが一生分の生クリームを食べたとか言ってたなぁ、とちょっとだけ遠い目をしてしまった。迅は生身での運動時間も増やしている。
 でも、こんなふうに突き動かされてしまうくらい感動的においしいものに月子が出会えたことは、いいことだった。彼女が楽しそうならたいていのことはまあいいやという気持ちになってしまう。合間に甘塩っぱいぼんち揚げを挟むとそこそこの量を食べられることもわかったし。
 盛られ終わったカップをリビングのローテーブルへ運ぶ。そしてソファーに腰掛ければ、二つのスプーンを持ってきた月子が隣に座る。ほんの少し傾けば肩がふれあうところに。一緒にいることに慣れても、こういう些細なことにいちいち心くすぐられてしまうのは変わっていない。
「どうぞ」
 スプーンを手渡される。先に食べるのはいつも迅だ。月子は笑みを湛えながら迅の反応を注意深く窺っている。
 すくいあげたクレーム・シャンティは輪郭がとろりとしている。デコレーションが綺麗に仕上がることではなく、月子が理想としている食感を重視しているからだ。きめ細かく泡立てられたクリームは表面がてりりと艶めいている。前に食べたものはこってりと濃厚な味わいで、それはそれで好きな人もいそうな仕上がりだった。今回はどうだろうか。月子の視線に促されるようにスプーンを口へ運ぶ。
 ひとくち食べる。ひんやり冷たいふわとろのクリームは舌の上にとん、とやわらかく着地した。バニラとミルクの甘く優しい香りがふんわり広がる。一拍おいて確かにそこにいたクリームが夢のように儚く消えていく。とっしり、としたクリームだ。どっしり、ではなく。
「……今までので一番好きかも」
「本当ですか?」
「うん。口に入れた瞬間はけっこう甘いのに、後味は軽いというか……軽すぎず重すぎずな感じで。甘さがあとにひかないというか……」
「なるほど。……実は、今日のはとてもうまくいったのではと思っていたのでうれしいです」
「月子さん的にもまんぞく?」
「そうですね……」
 月子もひとくち分のクリームをすくって食べる。味覚に集中するためか、そっと瞼が下りた。睫毛の影ときらめくアイシャドウが見える。
「……かなり良いところまで来ているのではないかと」
 この出来映えでも理想とは違うらしい。まだ続くか、と迅がうっすら覚悟を決めたとき「でも」と月子が沈黙を破った。
「ここが今の私の限界かもしれません……うん、自分なりにコツのようなものも掴めてきましたし、」
 瞼を開いた月子がちいさな笑みをくちびるにのせる。迅をとらえた瞳がやさしく細まった。
「迅くんの一番好きもいただきましたから、一区切りつけようかと」
「……おれの好みでいいの?」
「はい。迅くんの好みを知る、というのも目標でしたので」
「待って、その目標知らなかったんだけど」
「満足です」
 いたずらっぽく笑った月子がふたくちめのクレーム・シャンティを頬張る。その頬にたまらなく口づけたくなったけれど、手にカップを持っていたのでやめる。あんなに好きな月子の珈琲がちょっとだけ邪魔に感じるときがくるなんて思わなかった。
「まあ……月子さんがいいならいいけど」
「でも、ごめんなさい、あのクレーム・シャンティを再現したい、が主目的だったことは認めます……お付き合いいただきありがとうございました」
「どういたしまして。これ、新しいメニューにするの?」
「うーん……そうしたいとは思ってたんですが……これから暑くなるのでトッピングするならアイスコーヒーに……でもフロートもあるし……。いっそ手づくりアイスにするとか……?」
 むむむ、と形の良い眉が寄る。今、月子の頭のなかではさまざまなレシピが目まぐるしく巡っているのだろう。迅はアイスもいいな、と思いながらちびちびとクリーム・シャンティを食べすすめる。ある程度減らさないと珈琲を飲むときに鼻の頭についてしまう。隣にいるのがこのお行儀の良い恋人の場合、すかさずティッシュを差し出してくれることは学習済みだ。
「気温が高いと泡立ちも安定しないかも……、やっぱり、涼しくなるまでやめておこうかな……と、思います」
 付け足されたような『と、思います』と同時に月子の顔がこちらを向いて、つい笑ってしまった。月子が不思議そうな表情で迅を見る。
「最後急に敬語になったから。ついに月子さんの敬語が外れるかと思ったらぜんぜんそんなことなかったな」
「それは……ご期待に添えず……ごめんなさい」
 ぺしょり、と月子の眉が下がった。
「あ、いや、そんな深刻な話じゃなくて。ぽろっと敬語じゃないの出てくるとなんか得した気分になるし」
「得、ですか?」
「優越感的な……?」
 自分で言っていて照れくさくなってきた。これではちょっとした口調の違いにいちいち心くすぐられていると白状してしまったようなものだ。それに、優越感などと言い出すと、月子と同年代で気安く話せる仲である沢村と東に迅はまったく太刀打ちできないことになってしまう。
 と、そんなことを考えて。月子と沢村は名前で呼び合っていることも思い出す。確か加古と月見のことも名前で呼んでいた。同性ゆえの気安さ、のひとことで説明がつくといえばそうなのだろう。迅と月子も相当に気安い関係だと思うのだが。
「とにかく話し方は、ほんとに月子さんの話しやすい感じで話してくれたら。おれもそうしてるし」
「そう言ってもらえると安心します。敬語ははんぶん癖みたいなもので……あの、つまり、迅くんに気を許してないとか、そういうことではないんです」
「気を許してくれてるのは伝わってる」
 丁重に説明してくれる恋人に笑みをもらせば、月子は「どのあたりから伝わっているでしょう?」と問いかけてきた。今後の参考に、とか続けたので、あの研究熱心さが顔を出しているのかもしれない。
「……言ったら絶対意識するから言わない」
「そんな」
「月子さんだったらおれに教える?」
「……おしえない、かも」
「でしょ?」
 話しながらもクリームは食べすすめ、ようやく珈琲がちらりと見えるところまできた。とろけたクレーム・シャンティと珈琲がまざりあって南国の砂浜のような色をしている。ひとくち飲むと、珈琲のきりりとした苦味が口のなかの甘さを優しく拭ってくれて、これもおいしい。
 ――さて。どうやって月子に名前で呼んでほしいと伝えるか。
 いや、どうしても名前で呼んでほしいかと言うと、正直なところそうでもないのだが。話し方と同じように、そういうものとして馴染んでいる。他の人からも苗字で呼ばれることの方が多いし、自分でも苗字の方が呼びやすいだろうなと思うし。
 そもそも、月子に『迅くん』と呼ばれるとき、迅はただひたすら幸福だけを感じている。そのまなざしが、声が、意識が、自分に向けられているというところによろこびがあって、呼ばれ方なんてなんだっていい。極論、『あなた』という不特定な呼びかけであろうと、『ねえ』という不明瞭な呼びかけであろうと、それが自分を呼ぶ月子の声であれば迅の心は浮き立つだろう。
 でもちょっと、呼ばれては、みたい。彼女の声で紡がれる自分の名前を聞いてみたい。ただそれって、ふつうに名前で呼んでほしいって言うより、なんか……あれじゃないか、とも思う。あれ、とは、つまり重いというか、かっこわるいというか、はずかしいというか、浮かれすぎてるというか。
 それならいっそ名前で呼ぶようにお願いした方が潔い気がする。だけど、月子が新しい呼び方に慣れるまでの間、せっかく出来始めたこの自然体な空間がぎこちなくなるのは惜しい。
 ――今じゃなくてもいいか。
 色々と考えて結論を出す。先送りとも言う。でも、いつか月子から呼び方の話が出たり、突然呼ばれたりするかもしれない。それを待つのもいいな、と思ったのだ。――思ったのに。視界にちらりと瞬く未来がひとつ。差し迫って、すぐに追いつく。
「……話し方はこのままとして、呼び方は変えた方がいいんでしょうか?」
 ふと、たった今そのことに思い至ったらしい月子が呟いた。
 もう少し早くこの未来が見えていたらきっと気の利いた返事を考えられたはずだった。
 でも、そうじゃなかったから。、理性を置き去りにした口は勝手に動く。
「呼んでみて」
 低く掠れる声がおちる。月子はぱち、と目を瞬かせて迅を見た。迅の言葉を受け取って、飲み込むまでのわずかな間に「おためしで」とさらに声が溢れる。
「悠一?」
 ほろり、とそのくちびるからやわらかくあまい声がこぼれて。
 それだけで、ちゃんと、心臓がとろけてしまった。
「わ、すごい、ほっぺが赤く……」
「待って、言わないで」
「あっ、……すみません」
 わかっている。呼ばれた瞬間、頬にぽっと熱が集ったことは自分が一番よくわかっている。それが月子にもわかるくらいの目に見えた変化であることも。
 逃げるように珈琲を飲んでみたけれど、クリームの大部分がとろけてしまった珈琲はまろやかでやさしくて、今の迅には苦味が足りない。頬の熱は引かないままだ。夜を覆っているはずの雨雲が今すぐこの部屋に、迅の頭の上に来てくれたら何とかなるかもしれないが、考えるまでもなく望みは薄い。
「……月子さんだってじんわり赤くなってますけど」
「それは、だって、迅くんが……」
 つられ照れだ、と言いたいのだろうか。「おれが?」と続きを促すと、月子はもにょもにょと何かを呟く。……かわいいので。と、言っているらしい。
「ふーん?」
「怒ってます……?」
「月子さんは照れないんだ? って思って」
「照れる間もなかったと言いますか……」
 まあそれはそうだろうな、という話だった。呼び方を変えた方がいいか、と言い出した月子に即答し、ほとんど考える間も与えずに呼ばせたのだ。そして頬は勝手に赤くなった。月子からすれば展開が早すぎて、心が追いつかなくて当然である。
「……じゃあ、もういっかい、呼んでみて。こっち見ながら」
「え、」
「練習として」
 じ、と月子の瞳を見つめる。ふっと会話が途切れて訪れた沈黙が少しずつ月子の心を揺らしているのがわかる。まなざしがそろりと逃げた。けれどひたすら待ちの姿勢を保てば、おずおずとそのくちびるが開く。酸素を吸い込むかすかな音が聞こえる。
「ゆ、悠一……くん」
 待ち構えていたぶん落ち着いて受け止められた。月子の頬はよく熟れた果実のように赤い。迅が笑みを漏らせば、月子は「わざと間をつくったでしょう」と恨めしげに呟く。
「呼び捨てでもよかったのに」
「……照れてしまったんです! わかってて言ってますよね?」
「うん」
 もう、と月子が怒った顔を見せるが、迅としては満足だ。
「まあ、話し方と同じで、月子さんの好きなの、呼びやすいやつで呼んで。絶対に呼び方を変えなきゃいけないってわけじゃないんだし」
「迅くんはどっちでもいい、ということですか?」
 やっぱり『迅くん』らしい。月子も自分の言葉に遅れて気付いて「つい口をついちゃいますね」とはにかんだ。
「戦略的に変えてもいいよ? お願いするときとか」
「手の内が知られていると効果はない気がしますが……」
 と、月子は苦笑する。効果があることを知ったらびっくりするだろうか。そんな自分に迅はさっきびっくりしたところだ。
「……ところで、迅くんは変えないんですか? 呼び方。呼び捨てでもいいんですよ?」
「え」
 ――でもおれは出会ったときから『月子さん』だしなぁ、なんて考えていたから言葉に詰まる。しまった。ここはさっきの月子のように、反射的に呼んでしまった方がよかった。一瞬でも戸惑ってしまったらもう遅い。
「親しい人には月子と呼ばれています」
 まごついている間に追撃がくる。にっこりと笑った月子は、クレーム・シャンティがとろけた珈琲をひとくち飲んで「甘いですね」と呟く。待ちの姿勢だ。そっくりそのままやり返されていた。逃げられない。
「えー……じゃあ……月子、」
「はい」
「……さん」
「呼び捨てで、とお願いしたのに。……悠一くんにお願いをきいてもらうにはどうしたらいいんでしょう?」
「学習が早い」
 『お願いするとき』の早すぎる訪れに笑ってしまった。月子も堪えきれなかったようにふっと息をこぼす。
 しばらくふたりで肩を震わせ――頬が熱いのは大きな声で笑い出すのを我慢しているからだという顔で――、ひとしきり収まったところで月子が「やっぱり」と告げる。
「しばらくは慣れた呼び方がよさそうです。お互いに」
「油断してるところにかますためにも?」
「……油断しないようにします」
「うそうそ、嘘だから。油断してて」
「わかりました」
 無茶なお願いに月子が笑いながら頷く。そこには何の気負いも緊張もない。だから月子はこれからも迅の隣で自然体でいてくれるのだろう。……つまり、先ほどのようなやり返しもこれからは大いにあり得るということだ。
 月子がよく浮かべる、いたずらめいた笑みを思い出す。迅の恋人は、照れて焦って困ってなし崩されてしまうばかりの人ではないのだ。おそらくそのうち迅の弱点も研究され尽くされるだろうし。いや、クレーム・シャンティほどの情熱を傾けて貰えるかは、ちょっと自信がないけれど。
 ――絶対に呼び捨てで、って言われてたら危なかったな。
 呼び方を変えようとすると月子がぎこちなくなってしまわないかと心配していたが、自分のことは何も考えていなかった。今も頭のなかで練習しているのに、どうも収まりが悪い気がして『さん』を付け足してしまっている。でも――『親しい人には月子と呼ばれています』と言われてしまったので。
 どんな呼ばれ方でもうれしいことに違いはないが、まだ慣れないその音が日常になるそのときまで――たわむれにたくらみをとかしながら呼んでみるのも悪くないだろう。


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