こん。やわらかく丸めた拳で、その扉をそっと叩いた。風に紛れてしまえるような、ほんとうにかすかな音。自分の耳でそれを拾いながら、いっそ聞き流してほしいと思った。じわじわと手のひらが湿る。角の根がつきつきと痛む。
 はたして、声は響いた。
「――どうぞ」
 分厚い扉の向こうからくぐもった声が届く。鼓膜を震わせ、頭蓋を揺さぶるようなちからを持った穏やかな声だ。ぎこちなく指先を開き、扉に手をかけた。
 きぃ、とわずかに隙間をつくった扉の陰から部屋のなかを伺う。ヴィザは寝台に腰掛け、窓の外を見つめていた。
「……朝餉、を」
 黙ったまま部屋に入り、盆を机のうえに置いて去ることもできた。それでも声をあげた自分に驚き、けれどヴィザの表情がやさしく和らいだのでどんな顔をすればいいのかわからなくなる。
「ありがとうございます」
 そろりと近づいて、寝台の横に寄せられた机に粥を置く。ヴィザは眉をさげて「粥ですか」とささやいた。戦場で傷を負い、そこに畳み掛けるように風邪を引いたのは数日前のことだ。執事は身体が鈍るというヴィザの訴えも素知らぬ顔で流し、強制的な療養体制を築いていた。
「おや、今日は卵粥ですね。味わいに変化があるのはありがたいことです」
 ヴィザが浮かべた微笑は少女に向けられている。同意を求めるような言葉にも少女は返す言葉を持たず、淡々と食事の用意を整えるだけだ。
 盆の上にあったのは粥だけではない。陶器のポットから白湯をそそぎ、領主家の典医が煎じた薬を順に並べる。そうしている間にヴィザも寝台を出て、備えられた椅子に座った。
「もう朝餉は食べましたか?」
 穏やかな声がかかる。はっとなってその顔を見上げれば、やさしげな皺の刻まれた笑みがあった。
「……はい」
 掠れた声がくちびるから落ちる。無愛想な返答にもヴィザは満足げに頷いて、
「それはよかった」と心からうれしそうに言った。
 短く神に祈りを捧げ、匙をとる手は力強い。ほうほうと湯気のたつ粥に匙を入れてゆっくりと噛み含めていく。
 実際のところ、ヴィザの体調はさほど悪いわけではない。ただ年齢を思えば無理も無茶も通すべきではなく、生涯現役を謳うヴィザにも休養は必要である、というのは領主の判断でもあった。
 戦場から離れたヴィザはどこか気落ちしているようにも見えるが、張り詰めた緊張が薄らぎ安らいでいるともとれる。
 ――このひとが、このまま戦場にでることがなければ。
 机の端に並んだ薬をそっと見やる。少女の祖国は医療に優れた国だった。人を救う術に秀でることは、人の死を知るということだ。その血は少女にも確かに流れている。
 ヴィザが粥を食べ進めるのを、少女は黙って見つめた。ときおり白湯をそそぐ以外は身じろぎもせず、自分の鼓動が早まっていく音に耳を傾ける。
 神の国アフトクラトルの剣。国宝の使い手。至高の軍人。尊敬と畏怖をもって称される男。誰よりも国を落とし、人を殺した男だ。そんな彼が戦場から退けば間違いなく救われる命がある。そしてアフトクラトルが失う命も増えるのだ。
「食べますか?」
 ちらり、と視線が少女の頰を撫でた。びくりとからだをゆらせば、ヴィザは笑みをたたえたまま、果実がのった皿を差し出す。よく熟れたそれは蜜をしたたらせ、傍目にも瑞々しい。
「粥で腹が膨れました。あなたが食べてくれると助かるのですが……」
 ここ数日は寝台に横たわっているとはいえ彼があの粥ひとつで満たされるとは思わない。だから譲られた果実は少女のためでしかないのだろう。それに気付かないでいられるほど莫迦ではなかった。
「……あとで、たべます」
「ええ、そうしてください」
 かたりと小皿が置かれる。断ることもその手を弾いて踏みにじることもできたのにそうしなかった理由を考えた。果実に罪はないから。ほんとうに、それだけだろうか。
 邸にあるとき、彼はひたすらに穏やかだった。少女が知る限り、彼が力をもって誰かを従わせたことなんてなかった。叡智をたたえた瞳は戦士というより賢者という印象が近い。あるいは――愛しいひとを見つめる、ようだった。
「まちがえ、ました」
 声がこぼれる。ヴィザは薬をつまんだ手をぴたりと止めて、少女を見た。いやなかんじに渇いた喉を呼吸が掠める。細められた瞳には、訝しむ色も責める気配もなかった。いつもとおなじように凪いでいる。
「……薬を、まちがえました」
 踏み出そうとした足が震えている。それでも歩み、少女は机に並んだいくつかの薬から一つを奪う。自分のつま先を見つめながら、拳のなかに握り込んだ丸薬のことを考える。ヴィザにはこれが何かわかっているだろう。これを彼の前にだした時点で引き返す道はなかったのに、どうして自らそれを告発してしまったのか。理由なんてわからない。わからないままでいたい。
 心臓の音がうるさかった。恐怖がぎしぎしとからだを揺らすのに、どうしてか安堵もしている。よかったと、思っている。あとはもう、この心臓を停めてしまえたら、それだけでいいとさえ。
「……そうですか。では、間違えないように庭へでも埋めてしまいましょう」
 言葉がふりそそぐなり、あたたかな手が少女の拳を開かせた。ころんと転がっていた丸薬をつまみ、ヴィザはそれを空になった皿へ入れる。
 ――どうして。掠れた声はかたちを成していただろうか。ヴィザは典医から渡された薬を正確に数えながら微笑んだ。
「ああそうだ、今日の粥も、とてもおいしかったです。礼を言います」
 寝台にいるヴィザが、どうして厨房のことを知れるのか。疑問はない。だってここはヴィザを主とする邸なのだから。
 執事がわたしに与えた仕事だっただけです。その一言をいうのは簡単なはずなのに、どうしても言葉がでてこなくて、少女は皿に転がるいびつな丸薬を潤んだ瞳でただ見つめていた。


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