10

 眠る主の額に浮かぶ汗を手巾でそっと吸う。清潔な綿に水を含ませ、その唇へとあてがった。ヴィザさまの熱は、まだ下がらない。このひとはこんなにも弱々しかっただろうか。髪は白く、腕は細く――星落とす剣とて、老いるのだ。
 草木も眠る夜半、邸はしんと静まり、寝室にはわたしとヴィザさまのふたりだけがあった。今、わたしは彼を殺せるだろう。水を与える綿をその口に、鼻に押しこめて、手のひらで塞いでしまえば簡単に。祖国を滅ぼし、父母を攫い、わたしから何もかもを奪ったあなたを、この手で殺せる。
 あるいは、そんなことをしなくても、あなたは夜明けを待たずその命を終えるだろうか。そう思うとなにか笑い出したいような気持ちになって、けれどくちびるはいびつに歪むばかりで、笑い声になり損ねた吐息だけがこぼれていく。
 今でなくとも、彼を殺す機会はいくつもいくつもあった。けれど彼は生きていて、わたしは夜を徹して彼を看ている。
 彼のからだを侵しているのは病ではなく、死に至ることもある毒だ。摂取した量が少なく、処置を早く行えたため命はとりとめたが、意識が戻らず、予断を許さない状況であるのは間違いない。
 彼には敵が多かった。星の海に轟く勇名が他国の間者を引き寄せるのは当然としても、生まれ育った国にあってもなお油断はできない。彼が死ねば『星の杖』の新たな遣い手を選ぶことになり、それが他領の者であれば国内の勢力図はひっくり返る。ベルティストン家が彼を厭うことだって有り得ないわけではない。四大領主が覇権を競うこの地で、彼の存在はあまりに強大で、それ故に不自由だ。
 それでも彼は生涯現役を誓い、自らの死に場は戦場であると言う。剣を置けば得られる平穏があると知っていながら、自分は剣を振るうしか能がないのだと。
 ――そんなことは、ないのに。
 彼がただしく、まことに剣として生きているとしても、それだけが彼のすべてではなかった。そうであったなら、わたしは、こんなふうにはならなかった。
「……今宵も、よい星空でしたよ」
 彼は散歩を好み、わずかな余暇はたいてい草原で星を眺めて過ごした。星々のさやけき光を愛で、人の営みを穏やかな眼差しで見つめる。けれどそうしている彼は、ひどくさみしげで、荒れ果てた夜風にその身は掻き消えてしまいそうで、わたしはいつもどこか恐ろしいような気持ちになりながら彼の名を呼んだ。帰りましょうと。そうするとあなたは、やさしく微笑むから。
 あなたがどれほどあたたかいひとか、みなが知っている。なのに、あなただけが剣ではない己を認めてくださらない。
「ヴィザさま……」
 ふ、とその瞼が震えた。かすかに開かれた瞳が何かを捉え、指先は虚空を掴もうと伸ばされる。くちびるからこぼれる呼吸がほんのわずか早まり、魘されるように呻いた。
「わたしがついております」
 老いた手を握りしめる。深い皺の残るざらついた皮膚、硬い骨の感触、指先までこもった熱。すべては衝動だ。考える前にこぼれおちた言葉も、取り戻すことは叶わない。
「わたしが、おそばにおります」
 はらりと頬をすべる雫はだれのために流れているのだろう。そんなことさえ、もうわからない。わからないのだ。
「ヴィザさま」
 彼の名を呼ぶ。星崩しの剣ではなく、わたしを拾い、抱きしめたひとのなまえを呼ぶ。生きることは苦しくて、死んでしまえば楽で、あなたがこの星から消えてなくなったその日に、わたしは初めてあなたを憎まず、ただ愛せるようになるのだとしても。
 それでも。それでもわたしは。
「……あなたと、星をみたいのです」
 つめたく吹き荒ぶ夜風も、ふたりならばすこしはやわらぐでしょう。ふたりならば、きっとさみしくはないでしょう。
「ですから、どうか、どうか……あぁ、ヴィザさま……」
 手を、やわく、握り返される。瞳が滲んで、嗚咽は夜にとけていった。


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