ヴィザが少女に求めたものの正体は今となってもわからない。それは処刑人が振るう剣だったのか、渇いた杯を満たす湧き水だったのか――影を照らし暴く角灯のひかりだったのか。
 理解しているのはただひとつ。今や、ヴィザは彼女を手放せない。その執着の起源がどこにあるのかは分からずとも、離れられないのは少女ではなく、ヴィザだった。

 重い身体を引きずるようにしながら邸を歩く。真夜中の邸で起きているのふたりだけだ。
「そろそろお歳を考えられては」
 ヴィザに肩を貸す年嵩の執事は呆れたように小言を紡いだ。扉を開けてから繰り返されるそれがひどく堪える。まったく自業自得だったが。歳を重ねて軋む関節に、落ちた体力、そのうえに負傷。久方振りに自分の血を被った。
「えぇ」
 短い肯定に、執事は訝しげに眉をあげる。彼が仕えはじめたときから、ヴィザは戦場で果てることを望んでいた。
「あなたの歳になったら考えましょう」
「……思っていたよりもお元気そうで」
「生きてはいますから」
 剣呑な視線にも笑みを返せば溜息が重なる。引退を奨める執事の気遣いを無為に返すのはこれが初めてではない。それで諦めない執事も執事で流石だった。
「泣きますよ――あの子が」
 付き合いが長いだけのことはある。的確にヴィザの心臓を抉る一言だ。嗄れた声にちいさく笑みを浮かべた。
「それは困りますね。喜んでいただけるならまだしも」
「……泣くことに疑いはないご様子で」
「泣くでしょう、あの子は。私がどれだけ憎くとも――泣いて、くれる」
 尖ったこころはそれでも無垢に、その愛を疑うこともできないくらいに澄んでいた。彼女はヴィザを愛している。庇護を求める幼子の習性と斬り捨てるのは容易かったが、例えそうであっても愛は愛だった。
『どうしてあなたなの』
 しゃくりあげた声が頭蓋の裏に染みついて離れない。自分が愛するのも、憎むのも、あなただ。それが苦しいと泣いた少女を抱きあげながら、その温もりを離したくないと思ってしまった。それは愛だろうか。正体のない執着心を飼い慣らすのは、歳を重ねた今ならばできる。
 あの子がもっとはやく自分の前に現れなくてよかった――あるいは今でなければ、あの子を引き取ろうなどとは思わなかったかもしれないが。
「主よ」
 執事の声がヴィザを呼び戻す。寝室の扉が近付いていた。息を、呑む。
「――」
 扉の横に、しろいなにかが丸まっている。窓から淑やかに差す星々の光がやわく影をのばす。立ち止まって耳を澄ませば、すうすうと微かな吐息をひろう。
 喉が震える。自分でもわかる。歓喜にも憐憫にも似た何かが、がらんどうだったはずの心を穿つ。痛みがあった。心臓から広がり、指先まであまく痺れるような痛みが。声を出さずに少女の名を呼んだ。胸中にのみ響いたその声が、痛みを煽ってくすぶる。
「……知っていましたか」
「この邸のことですから」
 であれば、最初から言っておいてくれたら良かったものを。跳ねた心臓を鎮めそっと近付いた。意を汲んだ執事が流れるような動作で追従する。
 気配を抑えたまま膝をつき、壁にもたれて眠る少女の顔を見た。さらに伸びた片角のほうへ頭を傾けている。このままではきっと首を痛めてしまうだろうが、許しなく触れることへ躊躇いがあった。
 痩せただろうか――いや、違う。輪郭から子どもらしさが抜けはじめたのだ。
「明日の朝には、もしかすると今夜にも主がお帰りになられるでしょう、と。私はそう言っただけで、彼女もそうですかと頷いただけでした」
 出迎えられたことはある。まだ夜の浅いうちならば、使用人たちが一堂に並んで出迎え、そこに彼女もいる。ヴィザはそのような身分のものではないからやめてほしいと思うのだが、帰っていちばんに彼女の顔を見れるのはうれしかった。笑みも言葉も得られないとしても。
「……ただいま、帰りました」
 今日も応える声はない。ないが、この場所に彼女自身の意志でいることが、何よりもの答えだ。
「では、部屋へ運んで参ります」
 いえ、と言いかけて自分が負傷していることを思い出した。眉を寄せる。こんなときに負傷していることも、他の誰にも触れさせたくないと思ったことにも。
「……頼みます。起こさないように」
 軽い娘だ。怪我をしていても運べないわけではなかったが、万に一つも落とすわけにはいかないし、血のにおいを纏わせたくもない。
「仰せのままに。……手当てのお手伝いは必要ですか?」
「いえ、結構。あなたも休みなさい」
「かしこまりました」
 執事が細心の注意を払いながら少女を抱き上げる。ヴィザの執事となる以前は傭兵だった男だ。老い衰えても不足はないだろう。
「それではヴィザ様、ごゆるりとおやすみくださいませ」
 執事が釘を刺すように告げる。それを適当にあしらい、執事の腕に抱えられた少女に微笑みをおとす。
「おやすみなさい、よい夢を」
 囁いた声に、ほんのわずか少女の睫毛が震えた気がした。


close
横書き 縦書き