熟れすぎた果実を踏み躙るときの、ぐちゃりといやな感触が心臓の奥に居座っている。なにもかもが、だいなしだ。ひとりきりの寝台で胎児のようにまるくなり、少女はどこに向ければいいのかもわからない苛立ちを押し殺すように奥歯を噛んだ。あつい雫が頬をすべり、枕に吸い込まれていく。芽吹き、枝のように伸び始めた角が根を伸ばして、額がつきりつきりと痛んだ。
 少女がヴィザの邸に迎えられて、四度目の春だった。

「あぁ、ここにいたか」
 林檎の皮を剥く手をとめ、少女は伏せた顔をあげる。白い髭をたくわえた執事が厨の入り口に立ち、おいでと手招きをしていた。ナイフを台に置き、果汁で汚れた手を清めてから向かう。
「使いを頼めるかい」
 嗄れた声は厳しく響く。落ち着いた声音がそうさせるのだが、やさしいひとだと知っていた。少女は静かに頷いた。すると手のひらに硬貨が数枚おとされる。
「市場で、魚に合う香草を一月分ほど」
「わかりました」
 きゅ、と小さな手で硬貨を握りこむ。「それから」執事がやわく笑った。
「余ったらおやつでもなんでも、好きなものを買いなさい」
 はた、と顔をあげる。やさしい笑みが降りそそぎ、少女はそろりと俯く。つきつきと心臓が痛んだ。
「……ありがとうございます」
 幽かな声が囁き、執事は「陽が落ちるまでに帰るように」と少女に道を譲りながら応えた。

 藁半紙にくるりと巻かれた香草を抱え少女は市場の端で小銭入れを確かめていた。他国からきた行商人がおまけしてくれたおかげで、思いのほか釣銭が出た。糖蜜をまぶしたパン、からりと揚げた芋に、干されて甘みの強くなった果実。どれを買おうか悩んでいれば、ざり、と大地を踏む音が近くできこえる。
「よぉ、カタツノ」
 まだ高い少年の声が意地悪く響いた。少女は顔を伏せくるりと踵を返す。早足で歩き出しても少年の声はついてきた。
「無視すんなよ」
 ヒュッと空を切る音とともに、背中に小石がぶつかる。痛い、と叫ぶほどでもない。けれどその石がどんどん大きくなることを少女は知っている。やがて拳になることも。
 彼が自分をいたぶる理由を、少女はきちんとわかっていた。奇妙に片方だけが伸びた角はそろいの美しい角を持つ少年にとってわかりやすく『できそこない』であったし、そんな『できそこない』がヴィザの邸にいることが許せないのだ。ヴィザは護国の剣――英雄だから。英雄の傍に『できそこない』がいることが、そして自分はいられないことが、受け入れられない。
「止まれ」
 荒っぽく髪を掴まれ、がくりと首に体が引き止められた。それでも歩き続けようとするとぶちぶち髪が抜けていく。
「はなして」小さな声が思わず漏れる。
 ――しまった。こういうのは、反応したらおわりなのに。
 ぐっと引っ張る力に顎が上向く。片目を隠した髪がさらりと流れていった。両の瞳にさかさまの少年が映る。
「ほんと、きもちわるいな」
 嘲った目が見つめるのはちいさな角の芽だ。血管が浮き出るように伸びた根が額をはしっている。
「やめ、て」
 助ける人はいない。『角持ち』は選良階級の証で平民は手を出せないし、同じ『角持ち』は片角を嗤うばかりだ。
「できそこない」
 すぐ耳元に生温かい息がかかる。気持ち悪くて身を捩れば、膝裏に蹴りが入って体が崩れる。地面に抑えつけられ、頰を砂利が擦った。
「だから親にも捨てられたんだろ」
 違う――言いたいのに喉の奥が張りついて声が出ない。でも、ちがう。母は自分にいつだって優しかったし、父がこの角を植えつけたのはそうしなければ少女は殺されていたからで――捨てたのではなく拾うための力を奪われていたから。
 ちがう。ちがう。わたしは、捨てられていない。瞳が熱くなり、鼻がツンと痛んだ。捨てられたんじゃない。そう信じたいと思うから、誰よりも少女が疑っている。自分は、親に捨てられたのだろうかと。少なくとも置いていかれはしたのだ。それが、きっと、かなしい。どうしてわたしを連れていってくれなかったのと、少女はいつも思っていた。
「役立たずのお前が俺の練習相手になれるんだ。……光栄に思えよ」
 いじめられるのには慣れている。けれど、この地の底から響くような声は初めて聴いた。暴力の気配があまりにも色濃く――あぁ、と察する。この少年は、初陣を終えたのだ。
 戦争は人を狂わせる。その記憶は少女にはなかったけれど、幼い頃から感じていた。人に、容易く一線を超えさせてしまう熱。まるで病のような血潮の煮え。
 少年の体が浮いた一瞬をついて横に転がり、擦りむいた腕も挫いた足首も構わず逃げた。
「おいッ!」怒声が背を殴る。人の多い通りの隙間を縫って、逃げ道を探った。森だ。恵み薄く、最早誰も立ち入ろうとしない、死へと向かう断崖の森。この広い国の端。ただただ、ひとりになりたくて――でも、この星のどこにも行き場はない。はらはらとこぼれ落ちていく雫に濡れた頰を、風は冷ややかになぶった。

 呼吸のたびに肺が軋む。深く息を吸って落ち着きたいのに早鐘の心臓がそれを邪魔して浅く繰り返すばかりだ。喉の奥が渇く。枯れかけた大樹の樹皮は硬く、手のひらの擦り傷がまた痛んだ。
 ぽたりと足元にしみがうまれる。ぱたぱたと落ちていくそれは両の瞳からこぼれたものだ。
「どうし、て」
 お父さんは。お母さんは。どうしてわたしを置いていったのだろう。こんないびつな角よりも、こんなゆがんだ生よりも、わたしは、あなたたちとの死のほうがよっぽどほしかった。
 かなしみが小さなからだに満ちる。氷るこころに尖る憎悪の矛先はひとり――すべてを奪った一振りの剣。少女の祖国を滅ぼしたひと。
 あぁ、だけれど。心臓がきゅうとしびれて、ゆるやかに熱をもつ。
 かえりたい。
 帰りたいと思う場所が、ひとつだけ。帰るべき場所ではないけれど、帰りたい邸。あのひとの傍ら。
 冷気と熱が交互に入れ替わる。その間にこころはぐちゃぐちゃになって、熱にあてられた氷が瞳からこぼれていく。
「どうして」
 どうして、あのひとなのだろう。
 陽が落ちていく。夜が広がる。それでも少女はどこへも行けなかった。

 草木を搔きわける音がする。茂みが揺れて、小枝が踏まれてぱきりと割れる。ゆっくりと向かってくる音に添えられる声は優しい。
「どこにいますか」
 やさしいひとの、声だった。
 足音が、目の前で止まる。伏せた顔を上げることもできず、抱えた膝を胸に引き寄せた。
「……どうして、あなたなの」
 幽かな声がおちる。しばらくの沈黙のあと、衣擦れの音がした。
「申し訳ありません」先ほどよりも近くから声が聞こえる。
「邸の者ではこの道も難儀しますので、私が……」
 申し訳ありません。
 もういちど、丁寧に謝る声が響いた。彼が大地に膝をついて、自分と視線を合わせようとしてくれていることなんて見なくてもわかる。彼が少女へなにかを語りかけるときは、いつもそうするから。
「……邸に帰りましょう。みな心配しています」
 言葉と同時に、伸ばされた腕が少女を軽々と抱え上げる。抵抗はしなかった。ふわりと鼻をかすめるにおいに、またひとつぶ雫がおちる。片腕に座らせるように抱いて、添えられた手が顎を肩に置くようにと促す。伸びた片角が外側になるように、少女はそっとからだを寄せた。

 折れた樹木や転がった岩石の多い悪路を、ヴィザは確かな足取りで進む。少女にかかる揺れは少なく、ふたりの間には熱がこもる。ぎゅっと外套を握り、少女は肩に目元を寄せていた。じわりとしみていく塩水にも、ヴィザは口を閉ざして語らない。
「……どうして、」
 ただ、少女の囁く声を聴いていた。
「どうして、ぜんぶ、あなたなの」
 どちらかだったらよかった、と。
「わ――わたし、あ、あなたなんて、きらい……っころして、しまいたい」
 国は滅び、父母は死に、少女の額にはいびつな片角が残った。その角が植えられた瞬間、少女はもはやひとりの人ではなく、ひとつの試験体だった。なにもかも、ヴィザのせいで。だから憎い。憎まなければ耐えられない。
「あなたをっ、ころして……わたしも、しんで、しまいたい」
 けれど少女が、今、人であれるのは。このひとが、救ってくれたからだ。失いかけたこころに息を吹き込み、安全な寝床とじゅうぶんな食事、考えるための知識を授けてくれた。ヴィザだけが、少女を人にしてくれる。やさしいこのひとが少女はすきだ。このひとがいない世界では生きていけないくらいに、このひとがすきなのだ。
「どうして……」
 奪うのか救うのか、どちらかひとつならよかった。けれど奪ったのも救ったのもヴィザだ。少女が憎むのも、愛するのも、ヴィザだけだった。
「……私は、」
 ヴィザの声はぽつりと響いた。細いろうそくの火のような、夜を照らすにはあまりにも小さな声だ。
「私は、あなたに生きていてほしい」
 笑みを浮かべる己にこそわらいたくなる。もう外せない武装のひとつで、いっしょに泣いてやりたくても、その資格も術も失っていた。
 憎しみは当然のこと。そして愛もまた道理だった。この幼く、無垢な命が、自分を救ったものを愛さずにいられるはずがないし、父母譲りに明晰な頭脳はヴィザが仇敵であると気付かないままでいられない。わかっていた。わかっていて、ヴィザは少女を葛藤に引きこんだのだ。
 それはすべて、少女に生きていてほしかったから。憎しみも愛しさも顧みず、ただその生だけを願った。
「ほかの、なにもかもが不確かでも――それだけは、ほんとうのことです」
 少女は応えなかった。眠っていないことは、ちいさくもれる嗚咽でわかる。
「……あなたが」
 死にたくなくなったそのときは、私を殺しても構いませんから。
 言葉は呑みこんだ。そういう終わりがあればよいけれど、あまりに多くを殺し続けるヴィザは戦場で――彼女のいないところで死ぬだろう。
 語るべき言葉はどこにもない。だからふたりは、しずかに熱を分け合いながらただひとつの帰るべき家へと歩いた。


close
横書き 縦書き