あたたかい、と。そう思ったことを、これから先も忘れることはないだろう。どれだけの時が流れても、どれだけの想いが溢れても。頬を撫で、髪を梳いた指先を、ずっと憶えていた。

 少女は、寝台のうえで上体を起こし窓の外を見つめていた。ふかふかの枕に、やわらかな毛布。身にまとうの素朴な綿の子供服。つきりと痛む額は清潔な包帯が丁寧に巻かれている。
 ここは、どこだろう。
 見知らぬ部屋で目を醒まして数日、少女は考えていた。自分はもっと、つめたくて、さみしい場所にいたはずだ。父は囚われ、母は死に、少女はひとりで。行先は土の下にしかなかった、はずだ。
 こん、と音が響く。扉から聴こえるそれに「おきています」と応える。いつもならそれで開く扉は、今日は閉じたままだ。そういえば、扉を叩く音もいつもは二、三回なのに一回きりだった。気のせいだったかもしれない。
 この部屋を訪れる人間はふたり。白いひげをたくわえた『しつじ』と、ふくよかな女性の『おてつだい』で、どちらも少女を甲斐甲斐しく介抱してくれる。まともに水を飲むこともできなかった少女が何かを考えられるまで快復したのは、ふたりの功績だった。
 ふたりが言うには、少女がここにいるのは『あるじ』がそう決めたからだそうだ。だからここは『あるじ』の邸にということだけれど、『あるじ』がどうしてそう決めたのかはわからない。わかるのは、自分はいま、とてもやさしくてあたたかい場所にいるということ。夢のようだと、まだ少し疑ってしまうくらいに。
 あのつめたくてさみしい場所から、自分をたすけてくれたのは『あるじ』だろうか。だったら、お礼をいわなくちゃと考える。母の言いつけを思い出していたら、なぜだかすこし寒くなった。心が凍えているのだとは気付けないまま、少女は布団のなかに潜り込む。頭まで被り、暗くてあたたかい世界に微睡む。そうしていると、まるで母とともにいるような気がして、よく眠れるのだった。

 髪をやさしく梳かれている。夢だとわかっていた。瞼の裏に朧げに描いた母の笑みがまばたき一つで掻き消えると知っていたから、少女はかたく瞳を閉ざす。前髪を整えるような指先。伸びはじめている角にかかる微かな重みもはらわれ、そっと、慈しむようにふれられる。
 ――その感覚が夢ではないことに気付いて、少女は睫毛を震わせる。瞳をゆっくりと持ちあげると、手は離れた。
「……起こしてしまいましたか」
 少女を見下ろすのは、はじめて見る顔だった。寝台の横の椅子に腰掛け、少女をじっと見つめている。『しつじ』よりは若く見えた。
「……『あるじ』さま?」
 掠れた声がくちびるからこぼれる。彼はすこし驚いた顔をしたあと、傍らに置かれた木のコップに水を注ぎ「飲みなさい」と差し出した。起き上がろうとすると、背中に手が添わされる。喉を潤している間も、彼は静かに少女を見ていた。
「あの、」
 コップを返すとともに問いかける。
「『あるじ』さまが、わたしを、たすけてくれたの?」
「……あなたをここに連れてきたのは、私です」
 ああ、やっぱり。胸に満ちるあたたかさに身を委ね、頬をほころばす。指先も穏やかな表情も、どおりでやさしい。
「あり、っん」
 お礼を紡ごうとしたくちびるを抑えたのは彼の指だった。かたい。それから、あたたかい。自分のとも母のとも違う感覚に心臓が跳ねて、頬に熱が集う。
「どうか……その言葉は」
 『あるじ』はやわく笑って言葉を封じた。母の言いつけを守るなら言わないわけにもいかないが、くちびるを抑えられてはどうしようもない。
「……いつか、重荷となるでしょう」
 なにがとか、どうしてかを『あるじ』は語らなかった。
「お願いできますか」
 けれどそう囁く顔があまりにもさみしそうだったから、こくりと頷く。
「では、もうすこし眠っておきなさい。また、だれかが様子を見に来ます」
 それだけ告げて立ち上がる。まだ幼い少女と比べるまでもなく上背が高く、穏やかな笑みはこれ以上ないほど遠い。
「あ、あの」
 その背に声を投げかける。頼りなく震える声が潰える前に続けた。
「いつまで、ここにいても、いい?」
 彼が引き返してくれるよりも先に口を突いた言葉に、ぴたりと爪先が止まる。
「……あなたが、ここに居たいとおもうあいだは――いつまでも」
 いつまでも。彼の言葉を繰り返して、どきどきした。彼がお礼を言わないでという意味も、少女を邸に迎えた理由も、わからないけれど。いつまでも、ここにいていい。このひとのそばに。心臓はうるさいくらいに跳ね回り、このまま死んじゃうんじゃないかとおもった。
「それでは、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 扉が静かに閉まるまで見送って、少女は彼に言われたとおり眠ることにする。まだ長く起きていられる体力もない。
 ゆるやかな吐息はあつい。心臓の奥がぎゅっとして、頭がぼんやりする。彼のやさしい声が、笑みが、まだ残っているようだった。
 布団のなかに潜り込むと、うつら、と瞼がおもくなる。あぁ。なまえを、きいていなかったな。思いながら、少女はまどろんだ。

 ヴィザ。母から聞かされた祖国の仇。父と母と自分をこの状況に追いやった冷血の兵士の名。――それが『あるじ』の名だと少女が知るのは、次に目覚めるときだ。けれどいまは、ただあたたかさに揺蕩いながら眠っていた。


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