細く息を吐いた。饐えて淀んだ空気をからだに取り込むことが煩わしい。だが目を逸らすことはできない。してはいけない。ヴィザの足元に転がるいたいけな少女が『だれ』であるか、わからないと言うつもりはなかった。
 少女は、己が奪ったもの、生み出した歪みのすべてを一身に背負っていた。
 呼吸は浅く、荒い。血の気の失せた顔色に枯れ枝のような手足。小さな額、おざなりに巻かれた包帯からは血が滲む。劣悪な環境にひどく体力を消耗しているのだろう。くちびるは乾き、水差しから水を注ぐ気力もない。伏せられた瞳の奥は暗く濁っている。これが――人のやることだというのか。
「いかがなされた、ヴィザ殿」
 この研究所を取り仕切る老爺が問う。ヴィザや領主よりも年嵩の男は、アフトクラトルの叡智そのもの。その脳髄に値をつけようものなら星一つでも足りないだろう。それだけの実績と権威を持つ。
「いえ、なに……この子は失敗した、ということでよろしいか」
「ああ、全く。自分の娘がかかるとなれば、あの男も真剣に取り組むかと思ったのだがね」
 す、とその視線が少女を蔑む。触るのも御免だという顔が少女のからだに痣ひとつない答えであり、その拒絶こそが、いまこの小さないのちが潰えようとしている所以だ。
 ヴィザが数年前に滅ぼした国。星の海のはてにあって医療に優れたかの国は、この老爺が先導するトリガー角の研究に不可欠な知能だった。だから奪い滅し、攫い、人質をとって働かせた。その結果が、これだ、というのだ。
 老爺は、真実、研究以外はどうでもいいのだろう。その非人道さが彼をここまでの者に召し上げたのだとは理解しているし、殺した人数だけで言えばヴィザの方がずっと多い。だから、何も言えた口ではないのだが。
 それでも――目を、反らせなかった。
「失敗は、確定ですか」
「ああ。包帯の下、角はふたつ植えたが成長しているのは片方。ふん、片角というわけだ……トリオン体は安定せんよ。まあ、この組成では失敗するとわかっただけ意味のある実験ではあったな」
「では」
 ひとつ。呼吸を深く。この場を満たす怨嗟を含んだ空気が肺に絡み、それを振り払いたいと願った明瞭な声で告げる。
「私が引き取っても、構いませんな」
 少女の呼吸音だけが幽かに響く。老爺はしわがれた声で答えた。
「好きに。穴が一つ空く分には構わん」
 その言葉が終わるころには、ヴィザは片膝をついて少女に手を伸ばしていた。
 ――これは、ただの憐憫だ。身勝手で傲慢で、愚かな行い。いまさらひとつ拾い上げたところで何になろうか。嗤う声は自分のもので、指先を惑わせる。
 そっと顔にかかった髪を払ってやる。ゆるく反応した少女が、ゆっくりと瞼を持ち上げ、ヴィザの指先を追う。そしてそれが、おそらくは自分の知る手ではないことを理解して――ぱたり、と、瞼が落ちた。糸が切れたように。
 ここで掴まなければ、おわる。
 心臓の奥に沸き立った感情の名はわからない。ただ理解する。ここでおわらせるのは、いやだ。あまりにも不憫だ。己の罪の具現たる少女を、捨て置きたくなかった。この罪は、ヴィザとともにあるべきだ。そう思うことが間違っているとしても、そう思ったことに違いはなく。
 だから、髪をはらった指先で少女の痩せこけた頬にふれ、折れそうなほど細い首の下にやさしく手をいれた。
「……いずれ」
 少女を抱き上げれば、哀しいほどに軽かった。ヴィザが振るう剣よりも、その命は軽いのだ。
「いずれ、あなたは私を恨むでしょう」
 囁く声は少女のために。老爺は既に興味をなくし、背を向けている。
「それこそが、ずっと欲しかったものなのかもしれません」
 いびつにいびつを重ねても正しくはならない。そんなことはわかっている。それでもこのいたいけな少女を抱き上げたことは、きっと無意味ではない。少女にとっても、ヴィザにとっても。
「――、」
 少女のくちびるがうすく動いた。なんと言っているのかはわからない。ただ、少女がわずかに笑んだ気がして。それにどうしようもなく胸が痛み――自分にはまだ心があったのかと、一振りの剣は静かにわらった。


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