「あなたは兄上を嫌っているのだな」
 ランバネインの声に、片角の使用人はほんのわずか表情をゆがめた。顔の半面が髪で隠れているせいですこし分かりにくいが、見目からすると意外なほどに機微に聡いランバネインにとってはたいした問題ではない。
 邸にほど近い草原、ヴィザが剣を用いた鍛錬を行う場所でのことだった。主人であるヴィザは邸に一度戻り、秘蔵の酒と、目の前の彼女が作った昼食を取りに行っている。もともと外で食べられるようには作っていなかったから、戻ってくるのにも時間がかかりそうだった。昼餉の時間だと呼びに来た彼女に「こんなに天気が良いのだから外で食べないか」と言ったのはランバネインである。
 木陰に設けられたちいさな物置から机と椅子を引っ張り出すのを手伝いながらランバネインは以前から思っていたことを訊いた。
 何故、とはきかず。
 ただ、嫌っているのだなと。
 彼女は応えなかった。かわりに、ちらりとランバネインの顔を見て、それから自分の頬を指で示す。
「頬に、お怪我が」
「なぁに、擦り傷だ」
 そういえば彼女の本職は薬師である。ランバネインの返事にもまだ納得のいっていない顔で、どうやら傷跡を見つめているらしい。
「怪我がそんなに気になるものか?」
「わたしは薬師ですから」
 折り畳み式の机を広げながら薬師が答えた。
「こんな小さな傷でも?」
「はい」
 やはり頷いて、神妙な顔で続ける。
「擦り傷でも、病魔が命を奪うには十分な隙となるのです」
「薬師殿がそう言うのであれば、そうなんだろうなぁ」
 つい先ほどまでの会話を忘れたような呑気な声だ。薬師はすんと黙り、次いで椅子を並べる。
「治療はしてくれるのか?」
「ヴィザさまのご命令がありますれば」
 木の根に置かれた箱に視線が流れた。手合わせから戻ってこない二人に痺れを切らした彼女が、ここにやって来るときに持っていた木製の箱だ。
「あなたはヴィザ翁の使用人だな。筋金入りの」
 中身が何であるか、訊くまでもない。薬師が箱を机の上へ移動させる。椅子に座るように促され、おとなしく腰を下ろせば箱の蓋が開く。薬の独特なにおいが広がった。
「しみますよ」
 手拭いになにかを染み込ませた薬師が言う。平気だ、と言う前に押し当てられたそれがひやりとふれて、次の瞬間にはピリッとしみる。じりじりと熱が燻っていくような感覚がした。
「思いのほかしみるな」
「薬ですから」
 淡い色のくちびるから涼やかな声が落ちた。ぐい、と拭う手つきにどことなく恣意的なものを感じて、思わずくつくつと笑い声がもれる。
「本当にお嫌いらしい」
 ぐり、と手拭いが捩じこまれるように動いた。「っ、」息がつまる。流石に痛みが強く眉を寄せれば直後に手は緩んだ。今のはわざとではなかったらしい。
「……兄上の御心を知っておられるのだろう。薬師殿。あなたは」
 薬師は手拭いを離して、汚れが内側になるように折りたたむ。すこしばかり濡れた頬を風が撫でて熱を慰めた。自分で塗るように、と薬師が指にのせた軟膏を頬に塗りこむ。
「さあ」
 ぱたんと薬箱の蓋を閉じながら言う。
「領主様がなにを考えているかなど、ただの使用人には想像も及ばぬことにございます」
「ああ、全くだ」
 ランバネインの肯定に薬師が頭を傾けた。片角のほうへ、すこしだけ。さらりと髪がゆれる。
「領主は人でないそうだぞ、薬師殿。敵国の少年に人でなしと叫ばれた兄上はそう応えた。おそらく、ただの人間である俺に、真に領主が何を考えているかなどわからぬのだろう。従い、支えることはできても」
 ひとでなし。思わず漏れ出たように薬師がささやいた。
「だが――あなたの前であれば、兄上は人になれるかもしれない」
 射抜くような声が続ける。
「俺がミラを娶っても契約は成る。俺は俺の兄に、人であれと望む」
 領主には何の不満もないと言えば嘘になるかもしれない。しかしランバネインは腹を括っている。領主の部下として忠誠を誓っている。けれど、弟として想うものも、あるのだ。領主よりも優先されるほどではないにしろ、兄が自分を弟として想う以上は、その情も消えない。
「例え、領主がそれを望まなくとも」
 薬師は、ランバネインの言葉をただ聴いていた。ささめく風の音が頼りなく隙間を縫う。
 しばらくの沈黙を経て、薬師はそっと顔を逸らした。風が草原を撫で、さらさらと掠れ合う。識者によればアフトクラトルの神が崩壊する日も近いという。そして確かに、昔に比べると風に運ばれる草花のにおいが乏しくなっていた。荒涼とした終末の気配が漂い始めている。
「……けれど、……わたしは」
 とつとつと紡がれる言葉は風にさらわれるほど幽かだ。靡く髪から突き出る片角と、ほんの一瞬だけ見えた、根を張る小さな小さな角の芽。引き攣れた柔肌。
「そこで、人にはなれぬでしょう」
 全く、何一つ、否定はできない。アフトクラトルの血を継がぬ生まれも、片方だけが奇妙に伸びた角も、須らく彼女を落としこむ。ここはそういう国だった。それを治めているのが、領主だった。
「ヴィザ翁の傍だけか」
 片角の薬師は応えない。代わりに邸へゆるく笑んだ顔を向ける。視線の先を追えば、籐を編んだ籠を持ったヴィザが出てきたところだった。


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