酒杯をふたつ、小さな卓に置いて片角の使用人は静かに頭を下げる。彼女はこの邸でヴィザに仕える薬師であり、酒杯とともに置かれた肴の作り手、料理番でもある。
 ハイレインの対面に座ったヴィザが軽く手を振って退室を促した。了承しました、とこうべを垂れて、片角の使用人が背を翻す。くるぶしまで覆う黒い裾が波打つように揺れた。薬師は応接間の扉を閉める前にも小さく礼を残す。ヴィザの邸の使用人は相手が誰であっても礼節を尽くすが、こと片角の薬師に関してはそれが際立っていた。彼女は主人と客人が揃った場面ではとにかく寡黙だ。自分をいないものとさせるのが上手い。
「気になりますか」
 ハイレインの視線の先を辿っていたであろうヴィザは笑みを滲ませている。
「ああ」短く応えた。否定は意味を成さない。ヴィザは薬師が用意した肴をひとつ摘んだ。まだ酒を注ぐ前だ。まるで毒味をかってでたように思えた。
 ゆっくりと咀嚼し、飲み込んでから、ヴィザが笑みを重ねた。
「やっと角の成長も止まりました」
 語られる言葉に頷く。薬師はハイレインと同い年だ。彼自身の角も黒トリガーとの適合を終えて黒く染まり、長さや太さの変化も微々たるものとなっている。
 耳のななめ上から、やや下に向けて左右均等に伸びたハイレインの角とは異なり、薬師は向かって右の角だけが異常成長している。その角は長く、まるで木の枝のように裂き分かれている。枝は成長しないもう片割れの角を求めるように反り、いびつなかたちをつくっていた。
 彼女は髪で顔の半面を隠している。成長しない角が、それでも強固に根を張り皮膚の引きつれを起こしているせいだと訊いた。実際に目にしたことはない。
「けれど先端は尖るものですから、ときどき削ってやらねばならないのです。爪のように」
 先が分かれた角は様々なものに引っかかるらしい。埋めこまれた角を切ることには苦痛が伴うが、表面を削って丸くする程度なら問題ない。しかしハイレインは角を削る必要がないのだから、爪のように尖るというのも、薬師の角が異常成長であるためだろう。
「難儀なものだな」
「案外と、楽しいのですよ。狼が仔に毛繕いをしているような、そんな気分になるものです」
 穏やかに笑うヴィザに「狼か」と返しつつ、ハイレインは酒の入った瓶を持ち上げる。察したヴィザが酌を受けるために酒杯を持ち上げた。
 とぷとぷと注がれるのは血のように紅い葡萄酒だ。他国との貿易で手に入れた一級品である。アフトクラトルの実りは薄くなっているため、この出来の酒は貿易でしか手に入らない。続いてヴィザがハイレインの酒杯に葡萄酒を注ぎ、軽く乾杯を交えた。
 ハイレインは先んじて葡萄酒を口に含む。薫り高い酒が喉元を滑り落ちて、ほわりと体をあたためた。
 ――角を埋めこまれた時期は、ハイレインよりも薬師が早い。彼女に埋めこまれた角が異常成長を遂げたあと、もう数人への試用を経て、領主の後継であったハイレインにも角が与えられた。自分の前に試験体がいたことも、それが何度も失敗を繰り返していたことも、幼いハイレインには伝えられなかった。彼女がそうであると知ったのは、ヴィザの邸に引きとられた彼女と初めて顔を合わせてから数年後のことである。
「彼女は随分とヴィザに懐いているな」
 ヴィザ翁、そう呼んでいた彼を呼び捨てるようになったのは領主となってからだ。呼び名を口に馴染ませる。
「俺には相変わらずだが」
 彼女が、自分以外の客人にはもう少しやわらかな、親しみをもった対応をすることには気付いていた。ハイレインの前では、いっそ異様なほどに沈黙を貫いている。故郷をアフトクラトルによって滅ぼされたという背景を思えば当然だが、しかしそれを理由にするには不可解が残る。彼女の故郷をその手で滅ぼした者こそヴィザだ。
 ヴィザがよくて、ハイレインがよくない理由はなんだろうか。ハイレインが彼女と出会ったばかりのころ、彼女は群れから逸れて飢えた狼のように荒んだ瞳をしていて、ヴィザにだって、決して心を許していなかった。
「拗ねておられるのですか」
 くつくつと笑って、ヴィザが言う。
「昔から、あなたはあのこに目をかけていらっしゃる――とくべつに」
 今度は返事をしなかった。かわりに杯を煽って、肴をつまむ。黒胡椒がぴりりと痺れた。
「どうする気もない」
 ハイレインが言うと、ヴィザがゆっくりと頷く。
「そうでしょうとも」
 ただすこし。ほんのわずかでも。
 ――あの、初めて会ったあの日。ハイレインの名を知る前に浮かべた笑みを、見せてくれたならと思うだけだ。きっとそこには微塵の特別もなく、ただ同い年の子どもであるという事実がその心をゆるめただけだとしても。
「……しかし旨い葡萄酒です。もしもまたハイレイン様からこのような一品を賜れるならばと思わずにはいられません。肴は彼女に頼めば良いでしょうし」
 ヴィザが杯を揺らす。空いたグラスに葡萄酒を満たしながら、ハイレインはちらりと肴に視線をやる。
「そうは手に入らんぞ」
 次の葡萄酒を取りつける算段を組み立てているくせに、言葉は真逆を述べた。
「だからこそ楽しみが残るというものでしょう」
 ヴィザは鷹揚に笑う。その通りだと頷くのもなんだか決まりが悪い気がして、ハイレインは「そういうものか」とだけ返した。


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