夜のなかにあってなお暗い『窓の影スピラスキア』がつくる闇に潜る。ほんの一瞬だけ。このちからを行使し始めたころは息をとめていたが、今はその闇に対してひとかけらの恐れもない。
 背後で闇が閉じていく。ミラはその邸を見上げた。郊外にぽつりと佇んでいるのはヴィザの邸だ。アフトクラトルの国宝たる『星の杖オルガノン』とその使い手の居住にしては質素だが、よく整えられた品の良い邸であることは知っていた。
 窓の影がミラを落としたのはちょうど玄関の前だ。以前、ヴィザの寝室に転移したときは、星の杖を喉元に突きつけられた。眠っていても警戒心は薄れないらしい。ヴィザが判断を誤ってミラのうすい皮膚を傷つけるとは思っていないのだが、それでも刃を向けられるのは気分が良くない。よほどのことではない限り、邸の玄関をくぐることにしていた。
 邸は真夜中に相応しく灯りが落とされしんと静まっている。片手で拳をつくり、扉を叩いた。
 ややあって、扉の向こうに人の気配が立つ。装飾に紛れた覗き窓が開いた。
「どちらさまでしょうか」
 静かな声が問いかける。女性の声だ。今日の寝ずの番は彼女らしい。ミラもよく知る使用人のひとりで、ヴィザからの信頼も篤い――というのは傍目からの評価だが――薬師だ。
「領主より命を授かって参りました。夜分に失礼致しますが御目通りを願えるでしょうか」
 ぴんと張り詰めた声で述べ、それから定められた合言葉を紡ぐ。「かしこまりました」覗き窓が閉まって、がちゃん、と錠が外された。小さく開いた扉から細く光が伸びる。
 灯りの落とされた邸に女の首が浮かび上がる。一瞬どきりとしたが、薬師の服が黒いせいで闇に紛れているだけだ。手に持った角灯は光量が低い。薬師はミラを招き入れるように一歩退き、そっとこうべを垂れる。いびつに伸びた片角が光に照らされ、手近の壁に不気味な影をつくった。
 ゆらゆらと揺れる角灯の光に導かれるまま邸を歩いた。通されたのはヴィザの寝室にも近い応接間で、薬師は燭台のろうそくに火を灯し「しばしお待ちください」と部屋を辞した。ヴィザを呼んでくるのだろう。
 たいていの場合、ヴィザはすでに来客に気付いて起き出していて、人前に出ても見苦しくないように格好を整えている。――そうでなければ薬師が出て行ってから、こうもはやくミラの前に現れるはずがない。応接間に入ってきたヴィザを立礼で迎えながら思った。
 薬師は扉の前で一礼している。部屋に入るのはヴィザひとりだ。扉が閉まりきるその一瞬まで、片角の薬師は頭を下げていた。
「お待たせしました」
 ヴィザの声に「いえ」と返し、それからミラはハイレインから言付かった命を彼に伝えた。

「お気をつけてお帰りください」
 玄関をくぐったからには、帰りも玄関から出ていくべきだ。そう考えるミラを見送るのは薬師だった。ヴィザはハイレインの命を遂行するため、私室で準備を始めていることだろう。
 お気をつけて、とは言われたものの、ミラには不要の言葉でもある。窓の影を行使すれば、ほんのまばたきひとつの時間で自室に戻れる。それでも、薬師は見送るときに決まってその言葉を紡いだ。
「夜分に失礼しました」
 いかに使用人といえども、彼女は歳上だ。丁寧な態度を崩さぬままそう告げると、片角の薬師はそっと首を横に振る。気になさらないでください、という意志表示だった。この薬師はあまり、無駄口を好まない。
 自身が持つ、黒の角とはあまりにも異なる、奇形といっていい枯れ枝のような片角を視界にいれる。彼女の角を見るたび胸に湧き上がるのは疑問だった。
 なぜ彼女はヴィザからの信頼が篤く、そしてヴィザへの信頼が篤いのか。その角は彼女がアフトクラトルに虐げられた証であるはずだった。
「……」
 しかし、それを問うような関わりも、ミラと薬師の間にはない。
 ミラは軽く頭を下げてから、窓の影を起動する。慣れた闇に身を沈めきる最後まで、片角の薬師は扉の前に立ってミラを見送っていた。


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