濡れた手巾が膝にふれて、ヒュースはぐっと唇を噛んだ。ぴくりと震える膝までは抑えきれなかったが、傷口にしみる痛みは我慢できる。
 流れた赤い血はあっというまに滲んで手巾へじわじわ色を移していく。手当てをしているのはヴィザに仕える薬師だ。
 彼女は、片角の薬師と呼ばれている。その名の通り、向かって右の額、ちょうど前髪の分け目の位置から枯れ枝のようないびつな角が生えていた。ヴィザと比べればかなり若いが、ヒュースからしてみればずいぶん大人の女性である。
 薬師が乾いた布で水気を拭う。ひりつく感覚に眉を寄せた。
「化膿止めを塗ります。しみますよ」
 このうえまだ痛いのか。ヒュースは愕然とした心地で目をしばたいたが、薬師が静かな面持ちで自分を見ていることに気付き、こくんと頷いた。「では」と、薬師が手元に置いた容器の蓋を開けた。それを細い指でとり、ヒュースの膝小僧にのせる。
「――っ!」
 ひやっとしたかと思えば、じんとした痛みが熱として伝わった。声はなんとか殺しきったが、じわじわとしみる痛みに背筋が震え、爪先がぴん、と伸びる。所在のない違和感が全身を駆け巡った。薬師は落ち着きのないヒュースの足を抑えて、嫌がらせかと思えるほどていねいに化膿止めの軟膏を塗り込んでいく。
「痛いでしょうが」
 薬師がやはり静かな声で言った。
「角を埋めこまれるよりは楽でしょう」
 ヒュースは潤んだ瞳で薬師を見た。片方だけの角は奇妙にゆがみ、ねじれている。ヒュースの、最近は横に迫り出すように成長しはじめた角よりもずっと長い。角のないほうの顔は前髪に覆われ、その表情を隠している。薬師の頭がほんのすこし、角のあるほうに傾けられていることに気付いた。
「……痛くは、なかった」
 角を埋めこまれたときを思い出しながら言うと、薬師は弾かれたように顔をあげた。それから、どうやらやわく笑ったようだった。
「それは、よい時代になりました」
 あなたのときは痛かったのか。そう尋ねようとしたが、重ねて塗りこまれた軟膏がヒュースから言葉を奪う。身悶えながら恨みがましく薬師を見るも、彼女はもはや傷だけに集中していた。
 やっと軟膏の塗布を終え、指先を清めた薬師が膝に包帯を巻いていく。すこしきつめだったが、歩くのを手助けしてくれる巻き方だという。
「エリン家にはヴィザさまがお送りします。エリン家の皆さまは怪我を気にされると思いますが、ヒュース殿から怪我の経緯を説明なさいますよう……ヴィザさまの落ち度ではないと」
 薬師はそれだけ言って、汚れた布と軟膏を手に立ち上がる。ヒュースも掛けていた椅子から降りた。二本の足で立つと片方がじんじん痛む。この負傷は己の過失だ、あなたに言われなくともきちんと説明するつもりだった。そう文句をつけたがる心はそのまま顔に出ていたが、言葉にしないだけの分別はある。
「ヴィザさまは玄関でお待ちです」
 扉を開けた薬師がヒュースを促す。彼女はこれから汚れた布の処分をするのだろう。ろくに洗わず使いまわして他人の血がからだに混じると大変なことになるとヴィザから聞いたことがあった。
 廊下に出て、それから反対方向に進んだ薬師の背中を見た。後ろ姿であってもそのいびつな片角はよく見える。やはり頭はわずかに傾いでいた。
 アフトクラトルにおいて、角を持つものはすべて兵士である。そうであるはずだ。なのにどうして薬師が――戦場に出ることのない彼女が、片方だけとはいえ角を持つのだろうか。それともヒュースが見たことがないだけで、彼女も戦うことがあるのか。華奢な指先は剣とは無縁に思えたが、トリオンのからだになれば関係がない。
『それは、よい時代になりました』
 不意に、薬師の言葉がよみがえった。どこかほっとしたような安堵と、かすかな苦しみが混ざった、やわらかくも悲しげな声。その言葉の意味を理解するにはヒュースはまだ陽の光に近く、ただ彼女の背を見送ることしかできなかった。


close
横書き 縦書き