てをとって

 冬の夜の夢を見た。あの情けなく、愚かな夜の断片が眦に残っている。
『信じられないよね。無神経だよ』
 同級生の声が心臓に食い込んだままだった。ひどく鋭い棘が息を吹き返し、指先にまでじわりと痛みが染みる。
『せっかく太刀川君があたしたちを守ってくれてるのに、それをムダにするようなことしてさ』
 生きたくても生きられなかったひとがいた。もうこの街であんなかなしいことが起こらないように、戦っているひとがいる。守ってくれているひとがいる。その想いのすべてを踏みにじろうとした、そのことに自覚もなかった私は――やっぱり、彼の友達になる資格はなかった。
 じわりと、うすく張った膜に視界が潤む。見慣れた天井がぼやけていた。まばたきをひとつ重ねれば、雫にもなりきれないなみだが睫毛を濡らす。彼の友達になれないことがこうも苦しいことであると知っていたなら、あの日の私はどうしていただろう。考えたってどうしようもない想像の答えが出る前に、枕元でアラームが鳴った。
 窓の外、平穏な街並みを照らす陽の光は夏の色をしている。もう九月なのに。夏休みは昨日で終わって、今日は始業式だった。

 洗面所で顔を洗い、寝癖を整える。部屋に戻って寝巻きから制服に着替えた。セーラー服は長袖を選ぶ。大半のひとが夏服だろうけれど、暦のうえでは秋なのだから校則違反ではない。
 腕時計を手に取ってじっと眺めた。こちこちと秒針が規則正しく動いている。手首の、三つ並んだほくろをそっと撫でた。隠さなくてもいいんじゃね、とか。夏休みに入る前、彼はそう言っていた。そっと触れた指先は熱もかたさも、なにもかもが私とはちがっていた。
 彼の言葉を思い出して、悩みはしたものの腕時計はいつもと同じように巻く。慣れた重みがなくなるとなにか別のものまで変わってしまいそうでこわかった。
 始業式のあとはホームルームがあるだけだ。お弁当をつくる必要もなく、いつもより早く朝食を食べ終え、持て余した時間で通学鞄の中身を確認する。筆箱にルーズリーフ、夏休みの課題、財布とポーチ、携帯電話とバスの定期。それから。
 机のうえに置いた『遣書』を見る。彼の言葉を損なうことのないよう丁寧に扱ってきたつもりだったが、やはりずっと持ち歩いていたせいかくったりとしていた。封筒の角は擦れて、紙がいちだん薄くなっている。空いているクリアファイルを探して、それに挟んで鞄に入れる。
 この夏、ボーダー隊員が亡くなったという話は訊かなかった。毎日、毎日、怯えながら目覚めて祈りながら眠る日々だった。彼は生きているだろうか。帰ってきてくれるだろうか。もしも、もう、いなくなってしまっていたら。鼻がツンと痛んだ。そんなのはいやだ。でも、ここでどれだけ考えたって答えが出るものでもない。私と彼の交点は唯一、あの校舎だけだった。

 早朝の街を歩いた。『早いな』『もう行くの?』と不思議そうにした両親に、『いってきます』とだけ返した自分の声がまだ舌先に残っている。和らいではいるものの陽射しは眩しく、夏の気配はまだ薄まりそうにない。蝉の音色も少しだけやわらかなものになっていた。電線にとまった雀たちが囀る。塀のうえの野良猫が尻尾をゆらしながらそれを狙っていた。
 バスは普段よりも空いていた。制服姿はほとんどなく、スーツを着た社会人が多い。通学鞄を抱きかかえるようにして後ろの席に座る。車窓にもたれるようにしながら流れる景色を眺めた。見慣れてしまった黒が建物の隙間からときどき見える。界境防衛機関ボーダーの本部は、今日もそこにあった。

   *

 下駄箱に彼の靴はなかった。他のひとたちがぽつりぽつりと登校しはじめ、運動部が朝練を終えて教室に入ってくる。何度か廊下に出てとなりのクラスを窺ったが、彼の姿も声も見つけることはできなかった。
 おはよう、と教室に響いた声は堤くんのものだ。戸口近くの生徒が挨拶を返す。
「おはよう、ございます」
 前の席にやってきた堤くんに声をかけた。少しだけ驚いた顔をして、けれどすぐに「おはよう」と穏やかな笑みが返される。
「……その、ボーダーに入ったって訊いたけれど、……夏休みは大変だった?」
 こくり、と緊張を嚥下する。堤くんのほうから話しかけてくれることはあっても、自分からそうすることは殆どなかった。
「オレはまだそんな強くないから……あ、でも太刀川が帰ってくるまではちょっと忙しかったかな」
「たちかわくん」
 どうにかして聞き出したかったひとの名前が訊ねる前から不意に放たれて、くちびるに載せて繰り返す。堤くんが気負いなく彼の名前を紡いだということは、きっと――大丈夫なのだと思いたい。
 心臓の音がとくとくと響いていた。ほわりと胸があつくなる。まばたきで潤む瞳を抑えた。
「うん。仲良いんだろう?」
「中学が同じだっただけ、だよ」
 ぽそりと呟けば、堤くんは「そうなんだ」と頷いてそれ以上のことは言わなかった。
 担任の先生が教室に入ってきて、堤くんも前に向き直る。教室の騒めきが静かになって、廊下からばたばたと走る音が響いた。となりのクラスの戸ががらりと開かれる。かすかに聴こえる「すみません」という声は、彼のものではなかった。

 出席番号順に廊下に並んでいると、となりのクラスも列をつくりはじめた。彼の姿はやはりない。欠席しているのだろうか。ボーダーの任務が入っているのかもしれない。あるいはあの空き教室でくつろいでいるのかも。それか――怪我を、しているとか。
 ぐらり、と視界が揺れた。地震ではなく立ち眩みだ。他のみんなはまるで平気な顔をして、体育館に入る順番を待っている。それが何故だか、無性にかなしかった。
 最初の侵攻から一年が経って、有刺鉄線の向こう側は日常に埋没している。それが良いことだとも、悪いことだとも言い切ることはできない。あの侵攻で何かをうしなったひとにとっては、痛みを忘れられるようになることが幸いだとわかっている。ただ、それでも。あの場所にいる彼が命を賭しているということを、もう忘れたくはなかった。

   *

 ボタンを押せばピッと軽やかな音が鳴る。ガコン、と自販機が震えた。
 始業式もホームルームもつつがなく終わってしまった。運動部の夏の大会成績と吹奏楽部の壮行会、この高校に通うボーダー隊員への激励で拍手を重ねた手のひらがじんと痛む。ホームルームで文化祭の話が出て、規模を一昨年と同程度に戻すという説明があった。クラスのみんなは歓声をあげていた。終礼後は部活に行くという友人を見送り、図書室に寄って借りていた課題図書の返却を済ませた。
 あとは帰るだけだ。太刀川くんには会えていない。
 夏休み中、せめて連絡先を知っていれば、と何度思ったかわからない。私と彼の関わりはこの学校、もっと言えばあの空き教室のなかで完結していた。頼りないほどに細い糸でかろうじて繋がっていただけなのだから、会えないのも仕方ないのかもしれない。
 ため息を吐く。自販機の取り出し口からよく冷えたいちごオレを出した。実を言えば、自分で買ったのは初めてだ。口寂しさと胸の奥の空白を埋めるのに、甘ったるいこれは最適だろうと、そう思って。

「――よっ、みょうじ。今日ってもしかして午前中だけか?」

 ストローをだして、銀色の部分に刺そうとした、その瞬間だった。ぽとりと落ちたストローが転がって、その行方を追えばくたびれた上履きがある。
 つつ、と視線を持ち上げればスラックス、裾の飛び出たカッターシャツと、それから挑発的に透けている赤いTシャツがあって――太刀川くんが、いた。
 ぐるり。言葉が溢れて巡る。はくはくと口が開いて閉じて、そのあいだに太刀川くんはすぐとなりにまで来た。
「……お、」
 なにか。なにか、なにかを言わなくちゃ、と思った。太刀川くんだ。目の前にいるのは太刀川くんで、見る限りでは怪我もなく元気そうで、だからなにか、
「――おめで、とう……」
「なにがだよ」
 くしゃり、と笑う。息がとまりかけて、「あ、えっと」と無理矢理に言葉を引き出す。
「たん、誕生日って、きいたから。二十九日、はちがつ……」
 祝ってやらない、彼の友達が呟いていた声が残っていた。でも、もっと他に言うべき言葉はあっただろうと思う。よかったとか、おかえりとか、ありがとう――生きていてくれてありがとう、とか。きっと、いろいろ。
「あー、そういやそうだった。プレゼントでもあんの?」
「……ごめん、ない」
「じゃ、それくれよ」
 私の手からするりといちごオレを奪い、「ちょうど喉渇いてたんだよな」と、いたずらっぽく笑う。太刀川くんが笑っている。まだ目の前のことに現実味を持てなかった。どうして太刀川くんは、まるでつい昨日会ったばかりのように振る舞えるのだろう。
 紙パックをひっくり返して、その表情が怪訝そうなものになる。
「ストローねえじゃん」
「あ、ごめん……落とした」
「マジかよ。ストローなしでどうやって飲むんだ? これ」
「いや、あの、新しいの買う、から」
 手に持ったままだった財布を開いて、百円玉を二枚出す。「あの、どれがいい?」「いちごオレ」答えは早かった。小銭を入れるとすかさず太刀川くんがボタンを押し、しゃがみこんで紙パックを取り出す。
「ん、」
 太刀川くんが差し出したのは、新しく買ったほうの紙パックだった。
「それ、太刀川くんの……」
「別に気にしねえから。だったらみょうじがこっち飲んだ方がいいだろ」
 言葉と同時に紙パックが放物線を描く。わっ、とキャッチしている間に、太刀川くんは床に落ちたストローを拾っていた。ふぅ、と息を吹きかけ――ちらりと私を見て、
「……洗ってくる」と決まりが悪そうに呟く。
 楽しげな声が廊下の向こうから響いた。午前で終わったとはいえ、部活動のために残っている生徒は多い。太刀川くんが声のした方を見遣る。その横顔が妙に大人びていて、心臓がとくりと跳ねる。再び私を捉えた瞳はいつもと同じに凪いでいた。
「そんじゃ、倉庫に集合な。職員室に顔出してくるから待ってろ」
 こちらの都合を聞かない一方的な宣言はあまりにも太刀川くんらしい。遠ざかっていく背中は相変わらず自由で、燦然とかがやくようだった。
 太刀川くんが帰ってきた。
 ようやく実感として沈みはじめたそれに、へなへなと膝が崩れる。自販機に手をついて、からだを支えた。よかった。じわりと視界が滲み、鼻の奥がツンと痛む。よかった――これで、もう。もう、私と彼が関わることはない。ぎゅっと握りしめた紙パックがべこりと凹んだ。


 合鍵で戸を開ければ、空き教室は埃っぽいにおいがした。陽の傾きは季節とともに移ろい、カーテンの隙間から一条だけ光が差し込む。細やかな埃が舞って、きらきらと光が揺らぐ。
 呼吸をすると、喉にすこしだけ引っかかる感覚があった。一ヶ月半に渡って放置したせいだろう。夏休みが始まって最初の数日は様子を窺いに来ていたが、太刀川くんが来そうにもないので途中から足を向けることはなかった。
 机にもうっすらとした埃が積もっている。ティッシュで拭き取り、鞄を置いた。窓を開け放つ。ざあっと吹き込んだ風は七月よりも少しだけ涼やかだ。空はいちだん薄い青になって、立ち塞がるような入道雲もない。陽射しだけは夏を残したまま、影は懐深く穏やかだった。
 椅子の埃も落とし、ロッカーに入っていたほうきで床を掃く。集めたごみを鞄に入っていたビニール袋に入れて口を結ぶ。そうしていると、廊下から足音が響いた。

「めちゃくちゃ怒られた」
 がらり、と扉を開きながら太刀川くんが言った。言葉のわりに、口元には相変わらず軽薄な笑みが浮かんでいる。
「ボーダーで遅くなったんじゃ、ないの?」
「いや、ただの寝坊」 
 悪びれた様子もなくしれっと言い切る。朝から彼を探して視線を彷徨わせた時間と不安を彼はかけらも知らない。こうして目の前に彼がいるからには何も言うつもりはなかった。
 太刀川くんはいつもの席に座り、洗ってきたらしいストローでいちごオレを飲み始める。
「……太刀川くん」
 近付いて声をかけると、彼は「ん?」とストローをくわえたまま首を傾げた。
「あの、これ……」
 鞄からクリアファイルを取り出す。『遣書』――書き直されることのなかったそれを机のうえに滑らせれば、「ああ」とたいした驚きもなく迎えられた。
「持ってたのか」
「た、太刀川くんが持ってろって言ったんでしょう」
「そういやそうだったな」
 どこまでも軽い相槌だったが、太刀川くんはそういうひとだった。夏休みのあいだに忘れかけていたことを目の当たりにして思い出す。自分の生死に対しての軽々しさがいやで――だからこそ、はてしなく自由に見えた。
「なんかもう懐かしいな、これ」
「そう、なんだ」
 太刀川くんはこの夏休みをどう過ごしたのだろう。迂闊に訊ねることもできない。そこに踏み入る赦しを、私は持っていない。
「中、見たか?」
「見てないよ」
 笑いながら問われた言葉に返せば、「マジか」と驚いたように木陰の瞳が丸くなった。
「なんで見なかったんだ?」
 ふつう見るだろ、という顔をした太刀川くんに「見ないよ」と戒めるように呟く。
 見たい気持ちが全くなかったといえば嘘になる。それでも、光に透かすことさえせず頑なに中身を見なかったのは――こわかったからだ。
「……見れないよ」
「なんで?」
「だって、遺書、は……死んだあとに読まれるもの、でしょう。だから……、」
 読んでしまえば、そうなってしまうのではと、思った。
 因果関係が逆転していておよそ正気の考え方ではない。けれど一度でもそう思ってしまうとそれは信じられてしまう真実のひとつになった。ジンクス、験担ぎ、そんな言葉で表現してもいい。生きていると信じたいひとの遺書を読みたくなかった。
「マジメか」
 吹き出すように笑った太刀川くんが相好を崩す。
「わらわないで」かすかな声で囁いた。「悪い悪い」声には露骨にからかいが残り、まったく謝る気はなさそうだった。耳があつい。くだらない思い込みだったのはわかっている。それでも――ほんのわずかでも、彼の運命を傾けるようなことをしたくはなかった。
「でも、そうか。……ありがとな」
 紙パックを置いた太刀川くんが、とん、とクリアファイル越しの『遣書』を撫でる。
 瞼がすこしだけ伏せられて、まつげが薄く影をつくっていた。かすかに笑う横顔は夏休み前よりも大人びて見える。いつもと変わらないようでいて、木立の影のような瞳がますます茫漠と深くなっていた。それは間違いなく太刀川くんなのに、私の知らないだれかでもある。
 この夏に彼の身に何が起こったかはわからない。それでもおそらく彼は死を臨み――それを乗り越えたのだろうと、思う。
 疎外感、のようなものを覚えた。今更だ。私は最初からそういう立ち位置にいたのに。
「じゃ、まあ、頼んだ」
 クリアファイルに置かれた手が、それを私の目の前に滑らせた。ぱちり、と視界が瞬く。
「……え?」
「持っててくれ」
 事も無げに紡がれた一言が、からん、と空き教室に落ちる。数秒の沈黙があった。太刀川くんの凪いだ瞳が私を見つめ、世界はくらりと揺れる。
「なん、なんで……? もう帰ってきたから、だからこれはもう、」
「なんでって。また行くし」
 どこに。どうして。いつ。問いかけたところで無意味だ。彼はそうすると決めていて、それを止める言葉も手段も持っていない。なにも持っていなかった。
「でも、私は……」
 再試に受かるまで。遺書を書くまで。それが私と彼の関係、その期限だったはずだ。今でさえも、もう、それを過ぎている。だからほんとうは、とっくの昔に正しい無関係に戻っているべきだった。
「でも、なんだよ」
「……もっと、ふさわしいひとがいるよ。家族とか、幼馴染みさんとか、友達とか……」
「おまえも友達だろ」
 太刀川くんはいつも、あっけなくその言葉を紡ぐ。真意を疑うのも躊躇われるほど、当たり前の事実のように。でも、けれど、違うのだ。――私と彼はちがういきものだから。私には、彼の友達になる資格はなかった。
「とも、だち……には、なれないよ」
 声が震える。そっと窺った太刀川くんの瞳は怪訝そうに眇められ、眉間にはかすかなしわができている。
「はぁ? 何言ってんだ」
「だって――だって私、ほんとうに、」
 本当、に。
 自殺をしようとしたのだ。
 あの冬の夜。有刺鉄線の境界線で。ほとんど衝動的に、きっと、だれにとってもくだらない理由で。未遂にもならなかった情けない顛末だった。けれど――彼の想いを踏みにじる最低な方法では、あったのだ。喉の奥に言葉が絡む。
『うわさ減るだろ、外したら』
 あのときに言わなければいけなかったことだ。あなたがそんな風に怒ってくれるだけの価値ある人間ではないのだと。自殺未遂のうわさは、すべてが間違いではなかった。だって私は確かにそれをしようとした。火のないところに煙は立たない。火種はずっと私のなかにあった。
 もっとはやくに言っておけば、いまごろ彼はもう私を友達とは呼ばなかっただろうか。
「ほんとう、だから……」
 きらわれるのがこわかった。
 ぽとん、と落ちたそれに水面が揺らいで言葉が沈む。言えなかったのはだからだ。資格がないという言葉で誤魔化した。自分で自分が許せないわけではなくて。ただ――彼に赦されないことがこわかっただけだ。
「……じさつ、みすい」
 うそじゃないから。
 消え入るような声がくちびるからこぼれる。太刀川くんの顔は見れなかった。
 耳を塞いで叫び出したくなるような沈黙があった。泥のなかに沈んでもう二度と浮き上がりたくないと思うような。くらくら揺れる床を見下ろす。視界の隅には机の足があって、とん、と彼の爪先がそれを小突いた。
「――それ、なんか関係あんのか」
 とさり、と声が放たれる。そこに怒りはなかった。疑問はあっても、そう思う私に対する否定はなかった。そうなのか、どうなんだ。確かめるような響きはかつてないほどにやさしい。「……ある、よ」
「なんで」
 問われて、堰いた肺から言葉が溢れた。訥々とおちていく。
 じわじわと傾き始めた陽が、そっとその光を伸ばしていた。

 あの冬の夜の話を、だれかにしたのは始めてだった。
 思い返すたびに情けなくてたまらなくなる。受験に失敗したことも、家族に腫れ物のように扱われていたことも、ただそれだけで消えたいと願ったことも――その方法があまりにひとりよがりだったことも。
 みじめだった。所在を見失い、行くべきところもわからない。いやだ、どうして。どうして私は、こうなのだろう。弱くて、ばかで、恥ずかしくて。彼の友達にも、なれない。
 ごめん、と謝った。ぽろぽろと喉を剥がれ落ちていく謝罪に、涙だけは流さないと瞼を閉じる。泣くなよ。いつか響いた声はやさしかったから。せめて彼の望んだことを叶えられる人間になりたかった。

 話し終えるまで彼は黙ったままだった。ず、といちごオレの残りを飲み干す音が静かに落ちる。空き教室にはいつのまにかあまい匂いが薄っすらと漂っていた。鞄のなかに入れたままのそれはすっかり生温くなっているだろう。
 ぎぃ、と椅子が軋む音がした。床に這わせた視線の先で、彼はまた椅子を傾けさせて揺れている。がたん、と四つ足が床について震動が足裏を伝った。
「よくわかんねえけど、みょうじが俺を友達と思ってないことはわかった」
 あっさりとした声は、「正直言うと途中からあんま聞いてなかった」とあまりにも正直すぎる告白を続けた。
 彼の言葉を飲み込むのには数秒を要した。ふ、と呼吸がくちびるをかすめる。
「たちかわくんらしいね」
 きいてなかったんだ。そうか、と怒りよりもはやく笑みがこぼれた。ははは、と息をこぼすだけのそれを吐き出し終えると、少しだけ呼吸がしやすかった。わらった拍子に眦に滲んだものを指のはらで拭う。これでよかった。彼のこの軽々しさがいやだったけれど、それとおなじくらい、すきだ、とも思う。あまりにも軽く、縁石を危なげなく渡るような歩みが、彼には似合っていた。
「いっこだけ思ったのは」
 穏やかな声は彼の瞳とおなじに凪いでいた。足元にまで伸びてきた陽の帯のなかで、爪先が遊ぶように動く。
「おまえが死にたかったことと、他人が生きたかったことは、べつに関係ねえんじゃね」
 俺が戦ってるのだって、おもしろいからで、守ってるのはただの結果だからな。
 淀みなく紡がる意志は、もしかしたら言い慣れているのかもしれない。いつか見たボーダー隊員の会見が思い浮かんだ。会見なんて向いてそうにもない彼は、「勝手に恩を着せるなよ」とくちびるに小さく笑みをのせる。
「――関係ないだろ。おまえのことに、他人は」
 その言葉を、冷たいともあたたかいとも思えなかった。温度なく淡々と紡がれるのはそれが彼にとって当たり前のことだからだ。彼が他人を突き放すようなことを言うとき、そこにあるものはおそらく尊重だった。揺るがない自己があるからこそ信じられる、自分は自分であり、他人は他人であるという単純な認識だ。
「その上で言うとだな。俺はみょうじが死んだら悲しい。たぶんな」
「……たぶん、」
 彼はやっぱり、二言目が余計だ。とん、とん、とゆっくり床を叩く爪先を見つめるうちに、くらくらと揺れた床は鎮まっていた。
「仕方ないだろ。想像だとわからん」
 ふてくされた声は小さな子どものそれに似ている。
「そんで、だ」いたずらを企んだような声が、響く。
「おまえも、んなこと言っといて実は俺のこと友達だって思ってんじゃねえの? ――だって悲しいんだろ、俺が死んだら」
 どうだ、と。その声は解いた問題を見せるときの声によく似ていた。
 彼は私を友達だと思っていて、私が死んだら悲しい。だから。彼が死んだら悲しいと思う私は、彼を友達だと思っている。ひどく、簡単な話だった。
 真下を向き続けた首がきしきしと痛みを訴える。それに耐えかねて――彼の顔を見る理由をやっと見つけて、そっと頭を持ち上げる。
「悲しいって言ってたよな。確か」
 頬杖をつき、彼は私を見ていた。夏の焦がれるような陽射しのなか、木々のつくる深い影に飛び込んだときのような、穏やかに冷えた瞳だった。
 じわり、と心臓が塩水に浸かる。くっと喉が鳴って、こみ上げるものを飲み込むのに苦労する。まばたきを繰り返せば視界の潤みはましになった。
「……た、太刀川くんはそうでも、私はそうじゃないかもしれない、よ」
「まあ確かにな。でもそれは嘘だろ。嘘つくの下手なんだからやめとけよ」
 にやりとくちびるを釣り上げた太刀川くんが、木漏れ日の射す瞳をやわく細めて笑った。どうして。どうしてこういうときばかり鋭いのだろう。
「なんでそんな……友達であることにこだわるの」
 私と彼は同じ中学に通っていて、けれど知り合いですらなかった。勉強を教えたのも遺書の書き方を教えたのも、そうするのが彼にとって都合よかったというだけのことで、そこに一片の必要性もなかった。私たちは関わることのない他人で、ただの背景にも等しく、それが正しいはずだった。
「おまえこそ、なんでそんな友達じゃねえことにこだわるんだよ」
「それ、は……」
「おまえのせいで俺がめちゃくちゃ恥ずかしいやつになってんじゃねえか」
「……ご、めん」
「ホントだぞ」
 怒ったように眉を寄せ、重々しく頷いて見せる。仕草も声も、全てが冗談めいていた。
「ま、あれだ。おまえがどう思ってようと、俺にとってみょうじは友達なんだよ。遺書を預けてて、テスト対策教えてくれる、ダチ」
「……そう、なんだ」
「なんだよ、不満か? そんじゃ成績優秀でクソマジメでほくろを気にしてて、あといちごが好きで……中学んときは、一生関わんねえだろうなって思ってたやつ。惜しいことしてたな」
「……うん」
 私と彼はちがういきものだ。だから互いに関わることはなく、一方通行で、関わらないからこそ――不理解を受け入れることができる。そう、思っていたのに。
 太刀川くんにとっても私たちはちがういきもので。でもそれは、ただそれだけのこと、らしかった。関わらなかったことを惜しいと思ってくれている。私と、同じに。
 友達。その言葉を受け取るにはまだすこしだけ足りなかった。勇気とか、自信とか、たぶんそういうものが。けれど、そんなことは御構い無しに、太刀川くんはこれからも私を友達として扱うのだろう。とくりとくりと心臓があたたかな脈を打っていた。
「そんじゃ、食いにいくぞ。かき氷」
「……いまから?」
「おう。約束してたろ。寒くなる前に行こうぜ。あ、その前に昼メシか」
 へらりと笑い、善は急げと言わんばかりに勢い良く立ち上がる。がたんっ、とはずみで椅子が倒れた。大きな音に肩を揺らし――その拍子にぽろりと雫が頰を伝う。
「っと、悪い……っておい。なんで泣いてんだ」
「……びっくり、して」
「おまえホント、びびるくらい嘘が下手だよな」
 泣くな泣くな。鷹揚な声が響いて、大きな手がぐわんぐわんと髪をかき乱す。その手は大きさもかたさもなにもかも、どうしたって私とは違っていたけれど――確かに、ここにあった。


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