もくてきち

 三月の空は穏やかだった。白い絵の具を刷毛で薄くひいたような雲が、悠々とたなびいている。からからと窓を開けば、春風と呼ぶにはまだ冷たい風がひゅうと舞いこんだ。やわらかな日差しにかすかな喧騒が重なる。桜が咲くにはまだ早く、冬の色彩を残した街並みに空の青がよく映えた。
 門出にふさわしい、言祝ぐような晴天です。
 市長の祝辞をなぞるように囁く。ほんの数十分前、空を窺うこともできない体育館のなかで聞いた言葉のうち、それだけが不思議と鼓膜に留まっていた。
 シェルターから最も離れた校舎の最上階。近寄るひともいない空き教室は賑わいも遠い。
 おめでとう。さようなら。またね。がんばって。涙と笑みに彩られた言葉たちが風に運ばれながら空にとけていく。
 ぺたぺたと気楽な足音が近付いていた。がたん、と背後の戸が揺れ――がらり、と無遠慮に開かれる。
「お、ここにいたか」
 思い描いていたままの声に振り返り、それからぱちりと目を瞬かせる。
 凪いだ瞳はアスファルトに落ちた木陰のような黒色だった。やわらかな鉛筆色の髪はおのおの好き勝手に跳ねて、寝癖なのかそういう髪型なのか判然としない。それから胸元に花を一輪飾った黒の詰襟、いい音の鳴る筒。
「どうしたの? それ、」
 金色のボタンは総じて失われ、カッターシャツはいつも以上に着崩れていた。問いかけつつも答えはわかっている。――今日は卒業式だった。
「めちゃくちゃねだられた」
 と、太刀川くんは疲れたように息を吐いた。卒業式にボタンを奪われるというのは都市伝説のたぐいではなかったんだ。感心しつつ、ひとつまみの痛みが混ざる。
「人気者だね」
「野郎ばっかだったけどな。お守りにするんだと。意味わかんねえよな」
 いっそ売りつけてやればよかった。
 口惜しげに言いつつも、太刀川くんはかえって笑みを深めた。晴れやかな、とも言えるし、さみしげな、と言うこともできるような穏やかな笑みだった。つられるように頬が緩み、安堵にまどろむ焦がれを隠す。
「なんだ。欲しかったか? みょうじも」
 戯れめいた囁きが落ちる。卒業証書が収められた筒だけ机に置いて、太刀川くんはとなりに立った。窓枠に手をついて、ぐっと猫のように伸びをする。「あー、つかれた」鬱憤もろとも吐き出すような呼吸だった。
「御利益はありそう」
「俺のがアリなら何でもアリだろ、それ」
「そういうものだと思う、お守りって」
「ふーん」
 そんなもんか。独り言ちるような呟きはそれ以上の返事を求めていない。となりに並んだまま、黙って窓の向こうを見つめた。汚れの目立ち始めた校舎に閑静な住宅街。黒く、聳え立つような台形はその影をいっそう広げている。ネイバーから街を守るため、日常的に補強されているらしい。となりを窺えば、太刀川くんは静かな顔で街を見つめていた。
 ざあっ、と、わずかな青を孕んだ春風が太刀川くんの少し伸びた髪を攫う。骨のかたちがわかるようなすらりとした輪郭は、記憶の片隅にある中学生のものとはすっかり異なっていた。
「……出席できてよかったね、卒業式」
「俺は別に出れなくてよかったんだが、忍田さんが出とけって言うから」
 気怠げな瞳はどこか睥睨するように街を見下ろした。随分と精悍に、大人びたように思う。
 太刀川くんと会うのはおよそ三ヶ月振りだ。
 学年末テストを終えたあとは授業もなく、わずかな登校日も太刀川くんは欠席していた。かといって久しぶりという感覚が薄いのは、会わない日々への慣れのせいだろう。
 一年前の夏以来、太刀川くんはときどき『スカウト』に行っていた。回重ねるごとに期間が延びていることも、帰ってくるたび太刀川くんの表情や雰囲気が鋭くなっていることも、ぜんぶ気付いている。だからなにができる、というわけでもないけれど。
「そういや、ありがとな」
 ぱちり、と見つめ合う。その瞬間にやわく細められた瞳は、見てただろ、と言っていた。そろりと窓の外に視線を逃す。耳の熱はおそらく髪が隠してくれる。
「なんのお礼?」
「勉強。補講はしなくて済んだ」
「……赤点はあったけど」
「再試でクリアしたから問題ない。マジでみょうじのおかげだ、って迅のやつが言うんだよ」
「そう、なんだ」
 迅くんは一緒に勉強したわけでもないのにどうしてそう言い切ったのだろう。不思議に思いつつ頷き、太刀川くんに勉強を教えた日々を思い出す。
 ――うん。
 太刀川くんの勉強の範囲が、授業でやったことをなぞる定期テストだけでよかった。大学受験はボーダーの推薦が使えてほんとうによかった。だれよりも早く受験を終えた太刀川くんに同級生の何人かは『ずるい!』と叫んでいたけれど、先生やご両親は泣いて喜んだらしい。
「なんか欲しいモンとかあるか?」
「えっ……、と、いちごオレ、とか?」
「しょっぼいな! もっと高そうなやつにしとけって。給料もらってるし、甲斐性はあるぞ」
「……今の文脈で甲斐性を使うのは誤用だと思う」
「フィーリングで感じろ」
「それは意味が二重になってる」
「マジメか」
「知ってるでしょう」
 くちびるから笑みがこぼれる。きょとりと瞬いた瞳と見つめ合った。ほんの数秒の沈黙を越え、「確かにな。知ってた」と太刀川くんがにやりと笑う。
 呼吸さえも穏やかな空にとけていく。ほんの少しだけ天に近いからたぶん余計に。この窓枠に切り取られた景色を手放すのは惜しい気持ちがあった。さみしい、とも言う。借りっぱなしだった合鍵ももう返さなければならない――学校に、ではなく太刀川くんに。そのあとは迅くんの元にでも行くのだろうか。それもいいだろうなと思えた。
「ちゃんと考えとけよ」
 と、太刀川くんは真面目な顔に戻って呟いた。唐突に問われてなにも思いつかなかったけれど、どうやら突飛な思いつきというわけでもなかったらしい。
「……気持ちだけもらっておくよ」
「キモチとかもらったってどうしようもないだろ」
「うん、」
 でも、どんな物をもらったって私の欲しいものは手に入らない。こくりと飲み込んだ言葉は少しだけ尖っていて、ちくりと肺を刺す。
「思いつかねえなら焼肉とか行くか?」
 ぱっ、と明るい声が助け船のように出された。「太刀川くんが行きたいだけでしょう」努めて軽く言い放てば、「バレたか」と笑みが応える。ちっとも残念そうではないから、たわ言のたぐいだったらしい。
「うん。でもいいよ――行こう、焼肉とか」
「マジか。話がわかるな」
 いつ行く、と弾んだ声が問いかける。いつでも、と返したいところだが、そういうわけにもいかない。
「土日なら大丈夫」
「じゃあ土曜の夜な。任務もなかったはずだ」
 学校の外で会うのはもしかしたらはじめてかもしれない。うん、と頷いてから気付いた。声をかけることのできなかったいつかの図書館を除けば、あとは修学旅行のときぐらいだ。それだって授業の延長だった。むず痒さを宥めるように「わすれないでね」と囁く。
「太刀川くん、暇があるとすぐボーダーに行くから。テスト前に勉強の約束してても」
「……寿寿苑にするか」
「警戒区域近くの?」
「おう。鈴鳴の方」
「うん、わかった」
 連絡先は知っている。もしも太刀川くんが約束を忘れても、近場なら待ち時間は少ない。
「たのしみにしてる」
 囁いた声は思いのほか高く響き、浮つく気持ちをそのまま伝えてしまいそうだ。宥めるように静かな呼吸を重ねる。
 となりを窺えば、太刀川くんの方も私を見ていた。いつになく真剣な顔で、ひやりと冷たい風が熱を奪っていく。
「……なぁ、」
 掠れるような声は珍しい。茫漠とした瞳がそっと遠い空へ流される。
「遺書、まだ持ってんのか」
「……もってるよ」
 どうにか表情を取り繕いながら頷く。街も私も太刀川くんも、この一年半でいろんなものが変わり、けれど彼が死を臨む場所にいるということだけは揺るぎない事実としてあり続けた。
 太刀川くんが書いた『遣書』は、あの日からずっと私の元にある。太刀川くんが三門から離れるときだけ肌身離さず持ち歩くそれは、今も通学鞄に入っていた。無事に帰ってきたことを確認したあと、お気に入りのクッキーの空き缶にしまうことにしている。
「いま、いる?」
 それが書き直されたことはない。どうするか訊いたことは何度かあったけれど、太刀川くんはいつでも首を横に振った。そして今日も否定が返ってくる。
「いや、別にいらねえんだけどな。つうかもう、捨てていい」
「……要らなくなった?」
 胸に満ちた感情を安心と呼ぶには痛みが多すぎた。つながりが途切れてしまうような――遺書が必要でなくなったことはよろこぶべきことなのに。この浅ましさだけは直らなかった。
「あー……」
 と、太刀川くんは。
 まるで叱られる前の子どものような顔をして、言った。
「今だから言うが、なんも書いてないんだよな、あれ」
「……は、」
 ひとつ、間抜けな音がくちびるからおちた。
 なにもかいていない。あれ。どれ? これ。
 閃くように浮かんだのはぺらりと薄い電力会社の封筒。のたくった筆跡で書かれた『遣書』という文字、垣間見えるルーズリーフ、中身を見るどころか、光に透かすことさえしなかった――彼の遺書であるはずのもの。
「いやぁ、いつ気付くかって思ってたんだが。ぜんぜん見ねえんだもん、みょうじ」
 完全に言うタイミングなくしてたわ。まいったまいった。はっはっはっ。
 悪びれたところのない声とは裏腹に淡い影のおちた瞳はそっとこちらを窺っていた。怒ってるか? と訊ねるように。
「な……なんで、書いてないの……」
「逆に訊くけど、俺が書いてたと思うか?」
「……おもわない」
「だろ? そういうことだ」
 宿題も提出物も、内申点のために出された課題も――すべて私か、太刀川くんの幼馴染みである月見さんが手伝っている。そんな彼が遺書を書くはずがない。ましてあのときは、彼の言葉を奪わないように手も口もほとんど出さなかった。
「だ、だからって書いてないものを渡すひとがいますか!」
「ここにいるだろ」
 思いがけず大きな声が出て、けれど太刀川くんは自信ありげに笑うものだから気が抜ける。
「へりくつ……」
「書かなかったって言うのも悪い気がしたんだよ、あん時は。それにまあ、ああ言って渡しとけば、伝わりはするだろ」
 ――覚悟はあったってことが。
 横顔にはかすかな笑みが浮かんでいた。空の穏やかさを語るかのと同じ口調で、何気なく付け足された一言がしみのように広がる。彼はどうしたって、そういう場所にいる。ちがういきものだった。根本的に。なにもかも。
「でもな、」
 返事に迷う間に、彼が言葉を紡ぎ直す。秘密を打ち明けるようにほんの少しあおく、低くひそめられた声で。
「……今回、まあ、ちょっとだけやばいときがあったんだよ。あれ、いろいろ思い浮かぶんだな、マジで。そんでおまえがそれ読んだらさ――怒んのかなって思って」
 そしたら。
 と、太刀川くんはそこで言葉を切り、ほんの数秒だけ口をつぐむ。やがて諦めたように息を吐き、ふっ、とくちびるがほころんだ。

「そしたら、帰んなきゃなって、思ったんだよな」

「……、おこらないよ」
 かなしむって、前にも言ったでしょう。
 幽かに響く声を春風が攫っていく。
 ほんとうは怒るべきなのかもしれない。後生大事に持ち歩いていた太刀川くんの言葉が存在しなかったのだから。ばかみたいだ、って八つ当たりくらいしても許されるだろう。けれど、そんな気持ちにはなれない。そんなことよりも、もっと大事なことがある。
 白紙の遺書――それでもそれは遺書だった。意味はあった。彼の生にとって。遺書を書こうとした日々はきっと彼から死を遠ざけてくれた。私が彼と向き合った日々は――彼が、生きて帰るためのなにかになってくれた。
 うれしいとさえ、思う。思うのに、じわじわと塩水が迫り上がる。泣くなよ。声を描きながら吐息をこぼして熱を逃がす。
「……怒らない、よ」
「まあ確かに。泣きそうだな、みょうじは」
 笑った声は潤む瞳に気付いているのだろうか。
 ふやけた視界で彼は相変わらず空を見下ろしていた。
「そんで、忍田さんとかも怒りそうだなとか考えてたら、がんばっちまった」
「そう、なんだ」
「おう……だから泣くなって」
 呆れたような困ったような声がする。彼の瞳はまだ空を捉えていた。穏やかで、黒点が遠く霞むこの街の空を。
「……泣いてない」
「ギリギリな」
 からかいを含んだ声が、こういうときばっかりやさしく滲むのだからずるい。そっと瞼を下ろして塩水を抑え込む。
「すてないよ」
 透けた陽の光が、その熱が、じわりとしみこむように暗闇を照らす。
「ほんとうに、いらなくなるまでは、捨てない」
 たとえ白紙であっても、それは彼の意志を示し続けてくれるものだから。そして、そんなものが真実不要になって、屑かごに捨ててしまう日だけを待っている。
「そうか。ま、好きにしろ」
「うん、」
 鉄琴のようなチャイムの音が空に吸い込まれていく。この制服を着てこれを聴くのも今日で終わりだと思えば、自然と口を閉じてその音色に耳を傾けた。そっと瞼を持ち上げて太刀川くんを盗み見る。彼も黙ってその音を聴いている、そのことが、たまらなくうれしいと思う。

「そういやみょうじ、受験は終わったのか?」
 太刀川くんがしんと静かな声で問う。うん、と頷いた。
「今度こそ第一志望だよ」緩む頬をそのままに告げれば、「そりゃよかったな」と太刀川くんもかすかに笑んだ。
「――四月から、またよろしくね」
 きゅっ、と上履きが鳴る。きちんと太刀川くんに向き直って、言った。
「……は?」
 瞳をまあるくして素っ頓狂な声をあげた太刀川くんに重ねて笑む。
「三門市立大学。受かりました」
「……マジか。おまえならもっと他のとこも行けただろ」
「色んな人に言われた」
 太刀川くんまで言うなんて心外だ、と言うように眉を寄せれば、
「拗ねんなよ」とすかさず揶揄が入る。
「でもそりゃ、言われるだろ。俺じゃねえんだし。なんでまた」
「奨学金も充実してるし、就職するには有利な環境だから。ボーダーに」
「ふーん、就職……、ボーダーっつったか? 今」
 ぱちり、木陰のような瞳がまたたく。ずっと言いたかった、言わなければならないと思っていたことを告げられて、心臓が弾む。太刀川くんがまじまじと私を見た。賛成するだろうか、反対するだろうか。どちらでもよかった。だってこれは私が決めたことだ。私が勝手に、そうしたいと思ったから、そうするだけのこと。
「うん」
「……戦えんの?」
「それは無理だと思う」
「はぁ?」
 太刀川くんを見習ってきっぱりと告げれば、その表情が崩れる。
 あの夏から幾日も過ぎて、けれど私たちはちがういきもののままだった。凍てついた冬の夜に一歩も踏み出せなかった私は、この一年半で何もかも変わったわけではない。私たちがおなじになれる日はきっと来ない。でも――それはさみしいことではないのだ。そう思える。私が彼と違うからこそできることも、きっとある。
「広報とか営業とか、ネイバーと戦うこと以外にも、ボーダーの仕事はあるでしょう?」
「つまりあれか、後方支援」
「多分そう」
「なるほどな」
 半歩、距離を詰めた太刀川くんが真正面からこちらを見てにやりと笑う。
「――終わらせてるかもしんねえぞ。次卒業するときには」
 確かに。頷きながら笑う。ほんとうにそうなればいい。そうしたら太刀川くんも死を臨まずに済む。三門が平和でないからこそ、この今があるとしても。
「そのときは市役所か県庁か……民間でもいいけれど、太刀川くんが守ってくれた街を守れるようなところで働くよ」
「ふうん? まあ、いいんじゃね」
 あの日の横顔に似た、楽しげな笑みが向けられる。ここまで来るのに随分と時間がかかってしまったけれど。
「でも忘れんなよ。俺だっておまえに死んで欲しくはねえからな」
 不意に真面目な顔つきになって言う。大人びた、私の知らない太刀川くんだ。彼がどういうふうに戦っていて、どんなものを目にしているのかは知らない。ひとつわかるのは、ただ守られているよりは死は近付くということだ。両親が難色を示す理由もわかるし、恐れがないと言えば嘘になる。
「……うん、わかってる」
 それでも、私はそうすると決めた。燦然とかがやく背中を思い浮かべる。
 なによりも自由で、だからこそ焦がれた。太刀川くんがそこにいるのなら――あの有刺鉄線の向こうにだって、きっと私は行ける。
「にしてもだ。おまえが三門大学に行くってことは、テストも安心だな」
「……それはどうだろう。同じ授業を受けるとは限らないよ」
「なにい? なんでだよ」
 さっきよりもよっぽど驚いた顔をする太刀川くんには、どうやらまず大学の授業の仕組みから教えなければならないらしい。呆れたようにため息を吐こうとして、笑みがこぼれた。


_完


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